朝食をすませてから、新盆回りに出かけた。今年(2018年)2月に亡くなった知人は、平で人気のカレー店のオーナーだった。
昔、家が近所で、子どもの幼稚園が同じだったため、朝は私が子どもたちを幼稚園へ送り届け、午後はオーナーの奥さんが迎えに行った。
葬式では、下の娘さんが喪主になった。結婚し、子どもができてからは、近くに住んで、ふだんから故人と行き来していたのだろう――と思っていたら、子ども夫婦が見つけた借家に一緒に住んでいた。盆棚の前で娘さんがふだんの暮らしぶりや発病~終末医療の様子を話してくれた。娘夫婦と孫がそばにいてよかったじゃないの――故人の遺影に胸の中で語りかけた。
2月の葬式では、通夜振る舞いにカレーライスが出た。舌が真っ先に甘みに反応し、遅れてまろやかな辛みが広がった。およそ30年ぶりでコクのある味を堪能した。
父親が入院中、下の娘さんが父親の指南でカレーを試作した。最後は父親伝授のワザをレシピにまとめて、通夜の客に出した。新盆でもカレーをつくった。カップに分けてもらって持ち帰った=写真下2。
さて、月遅れのお盆が終わると、吉野せい賞の作品読みが始まる。毎年8月後半~9月前半の1カ月弱、朝から夕方までひたすら“市民文学”を読み続ける。夕方には目がかすみ、頭が重くなる。
毎年、浅田次郎の作品を読み、小説の醍醐味を体にしみこませ、“市民文学”の鏡とすることで、400字詰め原稿用紙換算で総量3500枚前後の文字の海を漂う。
今年は『お腹召しませ』(中央公論新社)の中の「安藝守様御難事」を読んだ。大名に課せられた変な風習「斜籠(はすかご)」を取り上げたもので、きのう、たまたま「こんな小説があるよ」と、カミサンが図書館の本を差し出した。新盆回りから帰って、浅田作品に没頭しているうちに、「よし、これを今年の鏡にしよう」という気になった。
文章が短い。リズムがある。そのうえ、人物の内面の描写が深いので、感情移入がしやすい。浅田作品は“市民文学”の鏡、つまり手本になる。
夜、晩酌をしながら「父のレシピを受け継いだ娘のカレー」を食べた。通夜のときより、いい辛さになっていた。「小説より奇なる事実」もまた、“市民文学”を読み続けるエネルギーになる。
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