2024年7月29日月曜日

風船爆弾

                      
 いわきの地域紙「いわき民報」は今年(2024年)で創刊78年を数える。ここで、記者として37年を過ごした。

勿来支局勤務も経験した。が、戦争末期、同地区から打ち上げられた風船爆弾については、全く意識から抜けていた。

 いわき市勿来関文学歴史館で、企画展「語り伝えたい記憶 風船爆弾と学徒動員」が開かれている。会期は9月1日までだが、4月25日の開幕日からいうと、すでに4分の3が過ぎた。

この間、同文学歴史館といわき民報の連動企画として、同紙に5回、戦争体験者の証言が載った。

 さらに、連動企画連載に合わせた企画展の紹介記事から、風船づくりに地元の「遠野和紙」とコンニャクが使われたこと、いわき民報賞を受賞した遠野和紙職人瀬谷俊次さんが風船爆弾に触れていることなどを知った。

 瀬谷さんがいわき民報賞を受賞したのは昭和50(1975)年。私は入社5年目で、式典関係の仕事はなかったが、表彰式は全社員が出席したので覚えている。

 表彰式は毎年11月1日に行われた。その前、10月下旬に受賞者の人となりを紹介する記事が載る。

瀬谷さんの場合は上・中・下の3回で、2回目に「軍用紙で活躍/残したい戦争の記録/米国を驚かせた紙風船」の見出しで、風船爆弾のことがつづられている。

今はすぐ、こうした過去の記事を、いわき市立図書館のホームページで確かめられるので助かる。

平成25(2013)年3月以降、ホームページ内の「郷土資料のページ」で明治~昭和期に発行された地域新聞や機関紙が順次電子化され、今では計72紙がいつでも、どこからでも読めるようになった。

いわき民報については、昭和21(1946)年2月の創刊号から同56(1981)年12月まで、およそ35年分の記事が読める。

で、瀬谷さんのいわき民報賞の記事のなかに、同紙が昭和40(1965)年7月12日から15回、風船爆弾をテーマに連載したというくだりがあることを知り、さっそくその記事を読んだ。

タイトルは「第二次大戦の秘話を探る 勿来の風船爆弾物語」=写真=で、一読、取材の濃さと文章の確かさを感じた。

だれか研究者の寄稿だろうか。そうではなく、社内の記者の取材だとしたら、これはちょっとすごい。

 陸軍の気球連隊本部がどこにあり、勿来のどこに兵舎があったか。兵士の数や製造方法と爆弾の量、終戦後はすぐ部隊を解散したことなどを、関係者への取材を重ねて明らかにしている。

小名浜地区での目撃談や、気流の関係で中之作の港湾にひょっこり現れたことなども併せて紹介している。

最終15回、末尾にだれが書いたかが記されていた。私が入社したときにも勿来、小名浜に勤務していた大ベテラン記者2人だった。

当時は、戦後20年。風船爆弾は、いわき南部の人々にとって、脳裏に生々しく残る奇っ怪な兵器、というより理解を超えた飛行物体だったに違いない。

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