2012年2月7日火曜日

三角倉庫


小名浜の寺の観音祭でシャプラニールの「お出かけバザー」をやったカミサンを拾い、いわき市観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」でラーメンを食べた。3・11で被災し、11月下旬に再オープンしてから初めて立ち寄った。

1月中旬のことだ。結構、人が出ていた。なかでも東北最大級というこどもの室内遊び場は、時間待ちが必要なほどの人気だった。

3・11に「アクアマリンふくしま」も、「ら・ら・ミュウ」も、その間にある三角倉庫の「小名浜美食ホテル」も、大津波に襲われた。立ち入り禁止になっている別の三角倉庫の壁面を見て驚いた=写真。ひさしの下まで“棒グラフ”ができている。そこまで津波がきたのか――あとで『いわきの記憶』で確かめなくては。

『いわきの記憶』は、正確には<東日本大震災特別報道写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』(いわき民報社発行)である。増刷に増刷を重ねたいわきのベストセラーだ。

写真集の表紙には、小名浜港のアクアマリンパークに駐車していた車が津波に翻弄される写真が使われた。立ち入り禁止になった三角倉庫が写っている。本文中の写真、大震災を告げる3月12日付の紙面(1面)に写る「小名浜美食ホテル」の写真をチェックしても、壁面に津波の痕跡は認められない。

となると、津波の痕跡かどうかはわからない。長年の雨だれによるシミかもしれないし、ただのごみやほこりかもしれない。誰かに聞けばわかることだが、ここは早とちりをしないで、あるがままに見ておくだけにしよう。情報に対しては皮膚で反応せず、骨に届くまで待つ。発信も、受信も慎重であれ――という戒めの声にしたがって。

2012年2月6日月曜日

公民館まつり


神谷公民館まつりがきのう(2月5日)開かれた。実行委員会を構成する組織の一員(代役だったが)なので、役割を与えられた。駐車場誘導係である。快晴無風。朝から昼まで外にいたが、寒さは気にならなかった。

例年、公民館まつりは10月に開催される。今年度は東日本大震災と原発事故の影響で2月にずれ込み、内容も縮小して2日間から1日だけの開催となった。

1階和室では俳句・生け花・絵画・ちぎり絵のサークル、「三原色で絵を描こう~秋冬編~」の後期市民講座受講生の水彩画が展示された。2階講堂では大正琴・ハーモニカ・歌謡舞踊・スポーツ民踊・カラオケ・日舞・フラダンス・コーラス・ジャズハワイアンといったサークルの芸能発表が行われた。

玄関フロアと階段壁面では管内にある幼稚園児の絵、養護学校生徒の切り絵、住民が撮影した写真「自然の中で見つけたおもしろ顔、珍しい雲形」などが展示された。

車の誘導が一段落した正午前、芸能発表が行われている講堂をのぞいた。最後のグループ「ジャズハワイアン愛好会」が華麗な演奏を繰り広げていた=写真。

演奏する人、演奏を聴く人。作品を発表する人、見る人。いずれも地域の住民である。地域の住民でなくても、公民館の利用者である。

「うまい・へた」はもちろんあるだろう。でも、それを越えて“隣人”の表現を知り、感心し、拍手をおくる。公民館まつりとはそういう機会・場なのだ。なんであれ、趣味を楽しむシルバー世代がたくさんいるというだけで気持ちが明るくなる。そのカルチャーセンターが公民館なのだということを、あらためて知る。

車を2列に駐車させたスペースがあり、前にするか後にするかでオジサンが若い女性に激高する場面があったが、それも含めて得難い経験となった。

2012年2月5日日曜日

「半壊」判定


昨秋、屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っている話を書いたら、匿名さんから「被災申請を出して判定を受けてください」というありがたいコメントをいただいた。

それにしたがって「り災照明」の申請をしたら、いわき市から人が調査に来た。母屋は「一部損壊」、離れは「半壊」の判定だった。その後、わが家に遊びに来た建築のプロたちに話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てである。先日、東京から応援に来ている公務員氏と判定員の建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数を書きこんだ。「半壊」の判定だった。匿名さんからいただいたコメント通りになった。匿名さんのアドバイスがなかったら、そのままにしておいたことだろう。あらためて感謝申し上げる。

判定した建築士さんの話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた=写真。道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。推測していたとおりの結果になった。

台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもある。「土台は50万円くらいで直るんですかね」の問いに、建築士さんは首を横に振った。いやはやである。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。ここはありがたく制度を利用させていただくことにする。夜、疑似孫の父親に電話で点数を告げたら「大規模半壊に近い半壊ですよ、それは」ということだった。思っていた以上に家は傷んでいた。

2012年2月4日土曜日

立春


冬至からおよそ1カ月半。朝6時すぎには空がしらみはじめるようになった。ちょうど散歩の時間に太陽が顔を出す=写真。日が暮れるのも、ひところよりはずいぶん遅い。きょう(2月4日)は立春。きのうは節分で「福は内、鬼は外」をやった。まさに「一陽来復」を実感できる季節を迎えた

昨夜、いわきの人間は「なぜ恵方巻きを食べなくちゃならないの」と言いながら、予約先から家人が買って来た「のり巻き」を食べたことだろう。いわきで節分に恵方巻きを食べるのは最近の現象にすぎない。

「恵方巻き」を食べてわかったことがある。「恵方巻き」は、仕かける側があったにしても、仕かけられる側の主婦がそれにのったのだ。節分にかこつけて手抜きができる――そういうことだというと、そばにいる人間が怒る。手抜きが、やがて家の、周りの、地域の習慣になる。

ま、それはおいといて。この時期、いわきの人間が気になってしかたがないことがある。田中直紀参院議員が防衛大臣になってから、国会中継を見るようになった。失言・妄言を期待してのことではない。そうならないよう、いわきの人間として祈り、応援したいからだ。

田中大臣は、今でこそ新潟選挙区選出の参院議員だが、前はいわき市を主な票田とする旧福島3区選出の自民党衆院議員だった。中選挙区時代で、1983年から1996年までの13年間、福島の浜通りを選挙区として国政に携わった。落選したらいつの間にかいわきから姿を消し、参院選に新潟選挙区から出馬して当選し、夫婦で民主党に入った。

実父は相馬出身の内務官僚・衆院議員鈴木直人、岳父は田中角栄。「親の七光」を生かして国会議員になる。「七光」は有力な武器だ。それを使って、親と違う自分を生きればいい。が、それができなかったのだろう。

かつての支持者の反応は? 大臣就任を喜んでいる? ハラハラしながら見守っている? たぶん後者にちがいない。その表情、言葉、動作、とにかく心配させるキャラクターではある。

私は支持者でもなんでもないが、かつて浜通りの人間が田中さんを代議士に選んだ、その結果として今の田中さんがある、そういう田中さんを育ててしまった、と自分を責めないわけにはいかない。田中さんは今、国会という修羅の場にいる。立春どころではない。辞めないでね

2012年2月3日金曜日

常陽藝文


企業が出している、要チェックの文化情報誌がある。身近なところでは、東北電力の「白い国の詩」、常陽銀行の「常陽藝文」だ。「白い国の詩」は3・11後、発行が休止された。雑誌を出すどころではなくなったのだろうが、月刊誌時代から愛読していた身としてはいささかさびしいものがある。

一方の「常陽藝文」は健在だ。年金が振り込まれるわが家の“メーンバンク”なので、平支店へ行くたびにロビーにある「見本」を手に取る。

2012年1月号=写真=は、巻頭特集の<藝文風土記>が「詩人・大関五郎の足跡をたどる 水戸市、大洗町、鉾田市ほか」。大関五郎は山村暮鳥の有力な支援者の一人。野口雨情ともつながりがある。少しでも人となりを知りたい人間には、のどから手が出る「資料」だ。

手元に置きたい。1月中旬、窓口の女子行員を介して1月号が余っていないか聞いた。「余分にはない」という答えだった。

2月1日。どうしても我慢ができなくて、再度申し出た。「コピーだけでもいい。すぐ戻すので、借りることはできないか」。後ろのデスクにいる先輩行員となにやら相談していると、1人が奥へ行って「1冊ありました」と持って来てくれた。

受け取るやいなや、「ありがとうございます」と言って銀行をあとにした。それから、はたと気がついた。当然のようにもらってきたが、それでよかったのかどうか。

すでに2月号が出たとはいえ、「定価250円」のバックナンバーであることに変わりはない。うれしくなって我を忘れてしまった――といえばその通りだが、ここは常陽さんにググッとさがって、おすわりして感謝するしかない。きちんといわきから大関五郎を読み解きますから、と。

2012年2月2日木曜日

不法投棄


「ここにガレキ・ゴミを捨てないでください 福島県」=写真。新舞子海岸(夏井川河口付近)の黒松林の中を走る道路に看板が立っている。いつから立っているのだろう。昨年8月中旬、夏井川河口にかかる磐城舞子橋を見に行ったときには、橋はまだ通れず、立て看もなかった(「昨年」と書かなくてはならないことがちょっと切ない)。

3・11の大地震で地盤が沈下し、磐城舞子橋と道路の間に段差ができた。8月中旬以降、応急工事がなされ、通行が再開された。9月早々には橋を通ったという話がネット上にあらわれたから、立て看が設けられたのはそのあとだろう。

新舞子の黒松林は防風と防潮を兼ねる。3・11に大津波をかぶりながらも、その勢いをそいでくれた。海水をかぶって根腐れをおこしたのか、茶髪になった木もあるが、おおかたはまだ原状を維持している。

3・11でいったんは抜けた夏井川の河口も、再び砂で閉塞した。横川を逆流して仁井田川から太平洋へ注いでいる。河口を開こうという県いわき建設事務所の試みは、今のところすべて無効だ。

それはさておき――。黒松林に放射線量の高いところがあるという話を聞いた。県が設置した立て看と関連があるのではないか。しばらく気になっていたので、きのう(2月1日)朝、思い切って河口へ出かけた。

車で夏井川の堤防を行く。ラジコン飛行場の手前で川面が凍っていた。ガラスのように透明だから、さわれば割れるだろう。でも、随分久しぶりに両岸まで氷が張っているのを見た。その下流、ハクチョウが6羽、8羽、9羽と小グループになって羽を休めている。マガモたちも寄り集まっている。ウミウがその間でさかんに潜水を繰り返していた。

河口左岸の一角に足を運び、不法投棄された「ガレキ・ゴミ」を見る。焼却灰、空き瓶、コンクリートがら、テレビ、廃材……。家庭から出たと思われるもの、業者が捨てたと思われるものが交じっている。焼却灰は毎時1・16マイクロシーベルトだった。これだけが群を抜いて高かった。

東日本大震災時に騒動も略奪もおきなかった。日本人の我慢強さ、忍耐力、助け合い・思いやりの精神に敬意を表する――といった称賛の声が世界から寄せられた。光と陰で言えば、日本人の光の部分が際立った。

しかし、光が際立てば闇もまた際立つ。住民が原発避難を余儀なくされた双葉郡内での空き巣の発生件数。報道によれば、2010年は1年間でわずか20件だったのが、2011年には594件と約30倍に急増した。広野町の知人も被害に遭った。

大災害だからこそ人々が助け合う一方で、人の不幸につけこむ人間も、散っていたクモの子が元に戻るように現れた、ということをこの数字は示す。海岸林の不法投棄も「自分さえよければ」の風潮が広がっていることを浮き彫りにする。光だけ見ているわけにはいかない。

2012年2月1日水曜日

木守の滝の氷


夏井川渓谷の右岸、北向き斜面に「木守の滝」がある。渓谷の野草を調べた知人が命名した。なるほどその通りなので、この滝を語る際には「木守の滝」と言うことにしている。

木々が葉を落とした今、無量庵の庭からでも滝の様子がわかる。全面凍結をするところまではまだいっていない。しかし、しぶき氷が成長しつつあるようだ。無量庵の室温、氷点下5度。外気温は推して知るべし(北にある原発も厳しい寒気にさらされている)。

水力発電所のつり橋を渡って「木守の滝」と対面する。高さはざっと10メートル。両側にしぶき氷が張りつき、氷柱が伸びて、下部ではこぶ状のかたまりがいくつもできていた=写真。しぶきを浴びながらアイスピックでこぶ状の氷をかちわり、ポリ袋に詰める。これを6月末まで5カ月間、無量庵の冷蔵庫に眠らせておくのだ。

夏井川渓谷は今が極寒期。北向きの斜面と巡視路に雪が残っている。畑の表土が凍り、霜柱が立っている。雪上にはけものの足跡。タヌキだろうか、テンだろうか。霜柱を踏み、足跡をウオッチングする。

極寒期には極寒期の楽しみがある。しぶき氷の採取もその一つ。夏、「氷室開き」に合わせて冷凍室からしぶき氷を取り出し、オンザロックにして自然の恵みに感謝する――。昨年までは単純にこれを楽しむことができた。

今年も極寒期の習いでしぶき氷を取ったが、心から喜べないものがある。岩に張りついてふくらんだ氷にコケがついている。コケはけずり落とす。要するに、放射能問題が頭から離れない。

でも、オンザロックはやりたい。少々複雑な気持ちになってしぶき氷を持ち帰ったのだった。どんな状況にあっても楽しみを見いだせ――先人の教えが前へ進む力になる。