2015年11月7日土曜日

雑誌「ぺぇべぇ」

 裏の義弟の家の物置を整理していたカミサンが、またまた“化石”を掘り出した。とっくに忘れていた10~20代の遺物だ。
 社会人になってすぐ自費出版をした詩集『受胎前後』が10冊ほど。ほかに、同人誌「無伴奏」。平(現福島)高専時代、先輩2人と出した3人詩集『顔』(昭和41年発行)は、読むに耐えないから、即、本棚にぶちこんだ。
 
 懐かしかったのは、いわき市のタウン誌「Pee(ぺぇべぇ)」=写真。創刊号は1976(昭和51)年8月1日発行とある。発行人は現・ギャラリー界隈オーナー、編集人は私の友人・後輩など3人(2人はもうこの世にいない)。題字は若い林和利クンが担当した。

ちなみに、「ぺぇべぇ」はいわき語の「~だっぺ」「「~だべ」の語尾から採った。つなぐとフランス語風の味わいがある

 題字の林クン、いや現姓松本クンは今年(2015年)夏、いわき市立美術館ロビーで、「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」に併せ、「ニュー・アート・シーン・イン・いわき 松本和利展」を開いた。個展開催中に再入院した。
 
 ざっと40年前、草野美術ホールにたむろする20~30代の人間が、同ホールを事務局にして、文化情報誌を出そうと意気投合をした。それぞれが仕事を持っているので、アフターファイブの“余力”で雑誌づくりにかかわった。私も仮名で巻頭コラムを書いた。表紙を松田松雄の絵で飾り、松田をホストにした対談<松田松雄の「ん・だもんだ――長靴対談」>を雑誌の目玉にした。

 <長靴対談>というタイトル名は、松田が雨の日ばかりか晴れの日も長靴をはいていたことから生まれた。<ん・だもんだ>は岩手・陸前高田の方言かどうかはともかく、なまりの強い松田のシンボルとして使った。松田が画家としていわき市民に評価されるようになったことが、根っこにあった。画家だからこそ、ほかの人間もまた仕事を持っているからこそかかわれる文化運動がある。
 
 月刊の触れ込みだったが、そのへんは2カ月になったり、3カ月になったりした。10号で松田は対談を終了し、11号から表紙絵も教え子の作品に替わる。12号以降がないので、11号のあと発行されたかどうかはわからない。たぶんそのあたりで廃刊になった。

 10号の対談相手は当時の田畑金光いわき市長。松田が事務局長を務める「市民ギャラリー」がいわきに美術館を――という運動を展開していたことは、当然、承知している。

それを踏まえて「これからの社会は、開発志向型じゃなくして人間を大事にするという福祉優先、文化優先。そういう意味で文化都市づくり、そういう方向に重点を移していかなければいけないと考えている訳です」と言明している。同市長の決断で7年後の昭和59(1984)年、市立美術館が開館した。

 松田にはこういう一面もあったということを、ほんとうは今、故郷の岩手県立美術館で11月29日まで開かれている松田の回顧展で見せたかったなぁ。

2015年11月6日金曜日

町内会が消える?

 おととい(11月4日)のNHKクローズアップ現代「町内会が消える? どうする地域のつながり」=写真=を、複雑な思いで見た。
 町内会の役員になるといろいろ駆り出される。高齢者には耐えられない。会費は払うから役員を返上したいといったら、だめだといわれた。ではと町内会を退会したら、ごみ出しを拒まれた。番組が取り上げた一例、いや特殊な例だ。

 町内会イコール隣組のところもあるが、一般的には隣組の連合体が町内会だろう。いわきの場合は、行政区が町内会に当たる。わが区は班(隣組)が30余、約340世帯が加盟している。戸建て住宅と県営住宅の併存地区で、区内に点在する民間のアパート入居者はほとんど行政区には入っていない。

 行政区に入っていない個人(世帯)に対して、日常的に苦情が出るのはごみ出しだ。区民としての義務を果たさず、ごみ出しだけは近くの集積所を利用する。ごみの出し方もいいかげん。区民が区費を納め、そのなかからごみネットを購入し、管理もしている。区費も払っていないのに――となるのは自然だろう。「共に暮らす」視点の欠如、身勝手さに腹が立つのだ。

 区内会に入っていても、高齢化するにつれて地域との関係が薄れる。家にこもりがちになるために、近隣関係がわずらわしくなる。いつのまにか孤立するお年寄りが増える。

 地区の体育祭や球技大会に出場するメンバー集めにも苦労するようになった。40年前には人がいたから年代・男女別にメンバーをそろえられたが、今は少子・高齢化が進んで該当する条件の選手を確保できなくなった。時代に合ったプログラムに変えないといけない。

 福島県の浜通りでは、大震災に伴う原発事故で全町(村)避難中の自治体もある。行政区そのものが成り立たなくなっている。いわきには2万4千人ほどが避難しているわけだが、借り上げ住宅(戸建て・アパート)に入っている人は、それぞれの行政区のなかで埋没している(もちろん、隣組に入っている避難者もいる)。
 
 番組も指摘していたが、行政区(町内会・自治会)は行政の末端組織であると同時に、時代の課題が真っ先に見えてくる先端組織でもある。地域の“見守り力”で高齢者の孤独死を防ごう、地域包括センターと行政区の役員や民生委員らが連携して「地域ケア」を推進しよう、という動きなどはその一例だろう。
 
 昔、市役所に「スピード処理費」があって、小さな要望はすぐ対応した。行政にカネがあったときには「自助」「共助」の部分まで「公助」がカバーしていたが、カネがない今はかつてのように「自助」「共助」でお願いしますよ、という流れに変わってきた。
 
 なにはともあれ、私は「ゆるやかなつながり」を念頭に置きつつ、絶えずゲーテの4行詩「市民の義務」に立ち返るようにしている。

 銘々自分の戸の前を掃け
 そうすれば町のどの区も清潔だ。
 銘々自分の課題を果たせ
 そうすれば市会は無事だ。
 
 10月下旬に行われた「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」では、懸案だった、ある場所の清掃が「共助」によって行われ、それで手に負えないスペースは「公助」によってきれいになった。ひとりで祝杯をあげた。

2015年11月5日木曜日

カラスとサケ

 カラスは目ざとい。ごみネットから袋がはみ出していると、たちまちつついて生ごみをあさる。車にはねられて路上に横たわるタヌキ、ハクビシン、ネコ……にも、あっという間に群がる。ごみを散らかしながらもごみを減らす、やっかいな“隣人”だ。
 先日、用事があって、いつもの夏井川の堤防とは反対側の堤防を通った。サケのやな場直下、左岸砂地の岸辺にカラスが群がっていた=写真。中央にサケが横たわっている。晩秋恒例のカラスのレストラン。森のハシブトも里のハシボソもいる。まずは目玉、そして内臓? あちこちにサケが息絶えているので、ハシブトもハシボソも奪い合いをする必要がないのだろう。

 春、川に放流された稚魚は、早ければ4年後、北洋からふるさとの川へ戻ってくる。今、夏井川を遡上するサケにも、震災後に放流されたものがいるかもしれない。本能とはいえ、次世代に命をつなぐためだけに生まれ故郷へ帰ってくるサケには、なにか心打たれるものがある。

 そういえば、双葉郡楢葉町の木戸川では、震災で中断されていたサケの一本釣りが10月31日、11月1日の2日間、試験的に行われた。木戸川の水源は夏井川と同じ阿武隈高地の中央部。夏井川は大滝根の南東から、そして木戸川はその北の尖盛(とげのもり)・桧山あたりから発する。もともとはきょうだいの川だ。
 
 サケの回帰で思い出した。やな場に近い農家の庭に「四季咲きザクラ」がある。もう咲くか咲きだしたか、しているのではないか。それと、「いわきの綾小路きみまろ」こと、かつてのPTA仲間でもある「百笑溢喜(ひゃくしょういっき)」さんの、こんなジョーク。「魚で頭がいいのはサケではありません、メダカです。なぜって、メダカは学校に行ってるから」

 きょう(11月5日)は福島県議選の告示日。サケの回帰と同じく4年の改選期がきた。きのう、カミサンから「そろそろ白菜を漬けないと」といわれる。投票日の15日にはぬか床を眠らせ、最初の白菜漬けを食べられるようにしよう。おっと、それよりきょうは、わが地区では「燃やすごみの日」だ。カラスが狙っている。ごみネットを出さないと――。

2015年11月4日水曜日

カエデ紅葉

 11月1日は吉野せい賞表彰式、2日は同期生の告別式。ということで、3日の文化の日が私の日曜日になった。午後、夏井川渓谷の隠居へ出かける。目的は二つ。隠居の庭に生ごみを埋め、この時期、JR磐越東線・江田駅近くの道端にできる直売所で小野町の曲がりネギととろろ芋を買うこと。
 江田駅前に着くと、駐車場が満パイ状態だった。広場にテント村ができていた。ヒルめし抜きだったので、帰りにコンニャクのみそおでんを食べた。

 直売所に立ち寄った。ん?曲がりネギがない。「ネギは?」「きのう(2日)は雨だったので、畑に入れなかったんです。そんなときに入ると病原菌がつくものだから」と奥さん。土がぬかるんでいるから、だけでなく、ネギの病気予防のため、でもあったのか。

 ではと、カミサンから頼まれたとろろ芋3本を買った。袋入りは少し安かったが、頑張って1本千円の、長く大きな芋を選んでもらった。こちらはおばあさん(義母?)が担当だった。

 渓谷のどまんなか、錦展望台は車と人であふれていた=写真。窓付きプレハブ物置の前で地酒を売っていた土地所有者のSさんの話では、日曜日はもっと混んでいた。

 谷のカエデは、赤く染まったものからまだ緑のものまでさまざまだった。対岸の紅葉はピークを過ぎ、裸の木々が目立つようになった。

 隠居の庭に生ごみを埋めたあと、小一時間、辛み大根を間引いたり、倒れた三春ネギの根元をほじくり、ネキリムシを探したりした。3匹、ブチュッとやった。

 さて、小野町の曲がりネギだ。「今度の土曜日(7日)には持ってきます。でも、日曜日は雨だから……」。日曜日が雨? それは困る。「神谷地区市民歩こう会」が予定されている。雨天の場合は中止、曲がりネギの直売もない。となると、土曜日に来るしかない。そのときにはいちだんとカエデの紅葉も進んでいることだろう。

 江田駅前のテント村に川前の野菜直売所があった。一本ネギを買って、夜、焼きネギにして食べてみた。いよいよ小野町の曲がりネギのとろみと甘みが恋しくなった。

2015年11月3日火曜日

骨を拾う

 元福島県議永山茂雄クンの通夜に夫婦で行ったら、奥方が親類として座ってくれ、という。奥方と私のカミサンとはまたいとこだ。ならば永山クンの骨まで見届けてやろう、と思った。
 
 きのう(11月2日)午前10時半から、告別式が行われた=写真。火葬・精進あげ(葬祭場のスタッフは「精進おとし」といったが、いわきではそんな言い方をしない)をすませて葬祭場を出たのは夕方4時だった。
 
 故人と私は福島高専(当時平高専)の3期生で、入学時、学生寮の部屋が同じだった。やがて社会人になり、結婚した。「同期生」「寮のルームメート」のほかに、「姻戚」の関係が加わった。
 
 詳しくは10月30日付の小欄を見ていただくとして、告別式のあと、いわき清苑で火葬にする間、永山クンの妹さんらと、50年前と今をいったりきたりしながら雑談した。
 
 こんなこともあったと、永山クンの親戚の女性が教えてくれた。高学年になって街のなかに住まいを借りたときのこと。出身地のいわき市三和町の高校生や高専の仲間がしょっちゅう出入りしていた。高専生から聞いた話だという
 
 だれかがなにかで失敗した。「穴があったら入りたい」というところを、「風呂があったら入りたい」といったそうだ。風呂に何日も入っていなかったのだろう。不謹慎ながら、大笑いした。
 
 それから永山クンの骨を拾った。「普通はこんなにきれいに残らないのですが」と、火葬場のスタッフが言った。永山クンの頭蓋骨がそのままあった。永山クンのいとこのドクターが写真を撮り、喪主も、私も、そのほかの人間も写真を撮った。なんといったらいいか、「だれもがカメラマン」の現代の一断面だ。
 
 夜はわが家に疑似孫と両親が遊びに来た。父親も福島高専で学んだ。さっそく火葬場で教えられた、「穴」と「風呂」の話を披露したら爆笑した。故人にはすまないが、いやこれは人集めが好きな故人が骨になりながらも、残った人間に景気をつけてくれたのだ――そう思うと、落ち込んだ気持ちも少しは晴れた。

2015年11月2日月曜日

吉野せい賞表彰式

 いわき市立草野心平記念文学館できのう(11月1日)午後、第38回吉野せい賞表彰式が行われた。受賞者3人のうち、準賞「すべて天使の都合によって」(小説)の永沼絵莉子さん、奨励賞「ともだち百人」(同)の林恵さんが出席した=写真。
 表彰式の前におふたりと会食した。文学談議をしながら、何年か応募作品を読んできた感想として、「自分を見つめるもう一人の自分」がいるかどうか。何を言いたいか、伝えたいかをわかってもらうためには、「作者の自分」のほかに「読者の自分」がいないと独りよがりの文章になる――といったことを話した。

 表彰式のあと、ノンフィクション作家の梯(かけはし)久美子さんが「女流作家の愛と苦しみ~女がものを書くということは」と題して記念講演をした。

 梯さんは2014~15年にかけて1年間、日本経済新聞日曜版に作家や詩人の「愛の顛末(てんまつ)」を連載した。吉野せい(1899~1977年)も取り上げた。反響が大きかった。「洟(はな)をたらした神」がamazonで売り上げ1位を記録したという。11月13日付で「愛の顛末」の単行本が発売される。

 講演では、連載で取り上げた原民喜や八木重吉と草野心平がかかわりを持っていたことなどを紹介しながら、前半は「乳房喪失」で知られる北海道出身の歌人中城ふみ子(1922~54年)を、後半は吉野せいを論じた。地元にファンの多いせいについては、これといって目新しいものはなかった。が、ノンフィクション作家がせいファンになったという“発見”がうれしかった。

 せいを知るために、つまりは三野混沌・せい夫妻の「愛の顛末」を知るために、梯さんは好間の菊竹山を訪ね、せいの原稿などを実見した。

「すぐれた文学少女」だったせいが結婚し、暮らしと子育てのために50年間、ものを書くことを封印した。しかし、せいは娘梨花の死に貧困と無知と罪を感じながらも、「創作を続けることで梨花の成長としよう」と決意する、自分を客観的に見る目があった。作家にはこの自己客観化が大事、といった意味のことを話した。

 読み手にわかってもらうための「もうひとりの自分」も、書き手としての「もうひとりの自分」も、根っこはおそらく同じ。そして、それは世阿弥のいう「離見の見」ということにも通じるものだろう。
 
 中城ふみ子、せいのほかに印象に残ったのは原民喜。若いときに少し彼の作品を読んだ。原爆投下後の広島を描いた「夏の花」に、小学校2年の春に起きた大火事の惨状を重ね合わせたものだった。たぶん今読めば、4年8カ月前の大津波の惨状とも重なる。

 梯さんは『百年の手紙 日本人が遺したことば』(岩波新書)でも、せいを取り上げているという。いわき総合図書館にある。まずはこちらを読んでみよう。

2015年11月1日日曜日

柿シャーベット

 庭の渋柿が熟したはしからヒヨドリに狙われる。渋でも熟柿(じゅくし)は甘い。中身が固体から液体になりかけた状態なので、ガブリとやると汁が垂れる。干し柿を冷凍して正月に食べる家があるのを思い出して、熟柿を凍らせて食べることを思いついた。
 ブログに書くと、すでにそれを実行していた知人がフェイスブックで「いわきの渋柿を、熟してそのまま食べられる状態くらいで冷凍すると、100パーセントの柿シャーベット、旨いですよ」とコメントをくれた。すぐやってみたら、確かに生のときより甘い、と感じられた=写真。
 
 冷蔵庫の冷凍室はスペースが限られている。庭に出て柿の熟し具合を見ながら、食べては入れ、食べては入れ、をしている。
 
 冬にもアイスクリームが好まれるようになったのは、家の造りが高気密・高断熱になったからだろう。それに比べたら、わが家は低気密・低断熱、冷気とすきま風をかろうじてカーテンが遮っているだけ。
 
 少しずつ寒さが身にしみるようになった。10月最後の日は、夜の食卓(こたつ)に湯豆腐が出た。柿シャーベットを食べるどころではない。カバーなしでこたつをオンにしているが、それも限界。こたつの周りに資料が山積している。いったんそれを片づけないことにはカバーをかけられない。面倒なので先送りしているが……、背中が風邪を引きそうだ、羽織を出してもらった。
 
 11月、霜月。きょう1日は、これからいわき市立草野心平記念文学館へ出かける。第37回吉野せい賞表彰式が行われる。受賞作品の選評と総評を述べる。
 
 同日は、自転車でいわき市内の里を巡る「ツール・ド・いわき2015」もある。早春のマラソン、晩秋の自転車――マスメディアの対抗イベントだ。阿武隈高地のふもとを縫うロングコースは120キロ。午前7時半にはスタートする(した)。夕方は、元県議永山茂雄クンの通夜だ。
 
「可処分時間」はたっぷりあるはずなのに、日曜日のくるのが早い、早い。通夜へ行く前に魚屋へ出かけ、夜は刺し身と柿シャーベットで一日を振り返ることにしよう。