2011年8月7日日曜日

合掌


国宝白水阿弥陀堂の立つ庭を囲むように、心字の池がある。いわゆる浄土式庭園だ。庭園は、この世に浄土を現出したらこうなるだろう、という設計思想に基づいてつくられた。あの世に行って見たわけではないが、浄土にふさわしい心安らぐ景観が広がる。

池の一角にハスの群落=写真=がある。ひとしお澄んだ気持ちになる。いわきの、夏にこそ出かけたい「ほっとスポット」だ。

きのう(8月6日)は「広島原爆の日」。広島市の平和公園で開かれた平和祈念式典をテレビで見た。原爆が投下された午前8時15分、参列者が犠牲者に黙祷をささげる。義父の句に「八時十五分車中で合掌原爆忌」というのがある。それにならって手を合わせ、瞑目した。大きなハスの花の上に日本があればいいな、と思いながら。

松井一實広島市長は平和宣言のなかで東日本大震災に触れ、「その惨状は、66年前の広島の姿を髣髴させるものであり、とても心を痛めている」「広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援している」と述べた。

また、東日本大震災に伴う東電福島第一原発の事故に関連して「国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべき」と政府に迫った。

市長の一言一句が胸に響く。原発事故で福島県民が被曝した。核爆発による被曝とは異なるとはいえ、「ヒバク」を体験したということでは共通する。その思いが、私のなかで福島と広島・長崎を近いものにしているのだろう。

先日、「原発忌」「福島忌」なる新季語にやりきれなさを覚え、反発したい気持ちになる、といったことを書いた。ならば、「原爆忌」はいいのか。義父の句を舌頭にころがしながら、自問する。

そもそも「原爆忌」とか「広島忌」とかを、車窓に現れては過ぎてゆく景色の一部のようにみてきたのではないのか。戦争について語る8月のひとコマとして、あるいは「外部の現実」として「ヒロシマ」があり、「ナガサキ」があった。それが、今年はヒトゴトとは思えなくなった。「内部の現実」化した。

被爆と被曝。原爆忌と原発忌。広島忌・長崎忌と福島忌、あるいはヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。

原発忌と福島忌に反発する以上は、原爆忌や広島忌・長崎忌の季語を安易に使ってはいけない。単に文章を飾り、整えるために引用してはいけない。自分の問題として内部に深く引き寄せて読み、書く。それで必要ならば使う。そんなことを戒めにせよ、と思うのだった。

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