2011年8月5日金曜日

貞観地震復興の功


『いわき市史』第一巻原始・古代・中世編の320ページに「貞観大地震復興の功」という小見出しが躍る。「日本三代実録」貞観12(870)年の項に「菊多郡大部(おおべ)継麿 大部浜成等男女廿一人に湯坐菊多臣(ゆざきくたおみ)賜う」とある。なぜ大部継麿ら男女21人が湯坐菊多臣の姓(かばね)を賜ったのか。

「菊多郡」は今のいわき市南部(鮫川流域)。市史の記述をかみくだけば――。ざっと1140年前の貞観11年5月26日、陸奥の国が未曽有の大地震・大津波に襲われた。清和天皇の詔書に、陸奥の国境で地震が最も甚しかった、とある。菊多郡も被害に遭った(「国境」は今の言葉で「エリア」を指すと教えられた。常陸との境の菊多郡が甚大な被害を受けた、ということではないらしい)。

21人が湯坐菊多臣の姓を賜ったのは、この大地震・大津波の復興に貢献したからだろう、というのが、「貞観大地震復興の功」筆者の考えだ。具体的に推測している。ただし、文章が難渋でわかりにくい。それを整理して、想像力をはばたかせると――。

北茨城から宮城・多賀城への海道(街道)は海浜に近いコースをとったはず。五浦、平潟、九面(ここづら)の海浜は、陸中のリアス式海岸のように海に面する急崖が多い。そこに菊多剗(せき)があった。この剗が大地震で崩壊し、海中に没した。菊田剗を実証するものが一片も残っていないのはそのためだろう、ということになる。

菊多郡の大領、つまりトップの一族が新たに関路を開き、仮剗所を設置し、大津波に遭った住民を救済した。その公勤を賞された(湯坐菊多臣の姓を賜った)と解したい、と筆者。こういう解釈は「千年に一度の超巨大地震」に遭遇した今、腑に落ちる。古代史にうとい人間でも、時空を超えてリアルなものを感じる。

先日、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。企画展「磐城平城の町Ⅱ」(8月21日まで)をのぞいたあと、常設展示室前の壁に掲示されていた「いわきにおける地震・津波」の資料(いわき市史からの抜粋)をながめて、貞観地震の際の、いわき地方の様子の一端がわかった。

東日本大震災では、いわき南部は岩間海岸が大きな被害に遭った=写真。貞観地震以来の大災害だったことを、足元の歴史が、記録が教える。

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