2011年8月12日金曜日
磐城舞子橋
また目が覚めた。8月12日午前3時22分。いきなり下からドドドときた。震源は直下か、すぐそこの福島県沖――体がそう感じる。3・11から5カ月と一日。本棚の上にある写真立てが三つほど落ちた。震源は、やはり福島県沖。M6.0。双葉郡富岡町、川内村で震度5弱、いわきは4だった。
× × × × ×
先日、知人夫妻がやって来て、あれこれしゃべっているうちに新舞子海岸の話になった。東北地方太平洋沖地震で東日本全体の地盤が海へ引っ張られるように沈下した。それで、新舞子海岸も砂浜が狭くなった。コアジサシの繁殖地が波で洗われるようになっては、産卵・孵化・子育てもおぼつかなかったろう。
そういえば3・11以後、夏井川河口に架かる磐城舞子橋を見ていない。橋と道路の段差が大きくて通行止めになった。通行止めの柵から素直にUターンするだけだった。知人夫妻の話に刺激を受けて、早朝散歩のあと、右岸河口にあるサイクリング公園へ出かけた。駐車場に車を止めて、徒歩で橋へ向かう。
サイクリニストは通行止めの柵を抜け、自転車を持ち上げて段差を越え、橋を渡る。そんな話も聞いていたので、ウオーキングなら自己責任で大丈夫と踏んだのだ。
道路が地割れをしていた=写真。橋と道路の段差はおよそ40センチ。ストンと地面が落っこちた感じだ。ガス(海霧)がかかって遠望はきかない。
海側――。潮騒が近くに聞こえる。砂浜の黒松林が赤茶けている。陸側――。ヨシ原の一角の黒松がなぎ倒されていた。地盤が沈んだところへ津波が襲来した。にしては、防風林は防潮林の役目を果たし、ところどころ赤茶けながらもちゃんと姿を残している。塩分がこれから木々にどう影響するのか。
山口弥一郎著『津波と村』のなかに、陸前高田の松原の話が載る。江戸時代、菅野杢之助なる人物が耕地の防潮のため、砂浜に松を植えた。「この松林のために我らの知れるのみでも明治二十九年、昭和八年再度の津波に、高田町は勿論、附近の耕地の災害をほとんど免れしめた」のである。
その高田松原が今回は壊滅的な被害に遭った。それこそ1本を残すのみで、すべてなぎ倒されたという。
話はそれで終わらない。被害木を薪(まき)にして京都の大文字で燃やす手はずになっていたのが、いわれない「放射能パニック」によって中止になった(朝日)。月遅れ盆の迎え火として8日、地元陸前高田市でその薪が焚かれた。震災には同情しても放射線には拒否権を発動する。遠く離れた非当事者の心情などはしょせんそんなものだ。
と思っていたら、「大文字」側が16日に別の高田松原の薪を燃やす、だと。京都市役所などに批判が殺到したからだろう。陸前高田の人間ではないから、あとは黙る。が、その地で育ち、いわきで画家として生きた松田松雄とかかわった人間の一人として、京都の差別感は記憶にとどめておくだけの衝撃度はあった。
松林からあらぬ方向へ話が飛んだが、新舞子海岸では、生きものもそんなにダメージを受けなかったようだ。
橋のたもとにアカテガ二がいた。アオサギが何羽も松林の上を通り過ぎた。橋の下の砂州にはウミウの群れ。波消しブロックからオニユリが花茎を伸ばし、花を咲かせていた。“ど根性ユリ”ではないか。草むらにはカワラナデシコの花。橋の欄干にはカラスが止まって海を眺めている。人間の接近が途絶えて、生きものにはかえって安心度が増したか。
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