2015年8月26日水曜日

岩手で松田松雄展

 岩手県立美術館(盛岡市)で10月3日から11月29日まで、松田松雄(1937~2001年)の回顧展が開かれる。陸前高田で生まれ、いわきで死んだ画家の、初期から晩年までの作品を展示する。
 きのう(8月25日)、案内状が届いた。この2年、松田が昭和54(1979)年、いわき民報に週1回、1年間連載した随筆「四角との対話」を書籍化するための、娘・文さんの奮闘を見てきた。間もなく、36年ぶりにオンデマンド出版される(まずは電子版で、という)。回顧展を見据えた作業でもあった。

 昭和40年代のいわきの美術シーンをリードした「草野美術ホール」で松田と出会った。ともに駆け出しの画家と新聞記者だった。独身、貧乏、議論好き……。今はスペインにいる画家阿部幸洋は20歳を過ぎたばかり。画家の山野辺日出男も、陶芸の緑川兄弟も議論の輪に加わった。そこから、いわき市立美術館建設請願へと市民運動が始まった。松田はそのエンジン役だった

「四角との対話」の連載が始まると、「事前校正」役を買って出た。もっと深く、もっと鋭く、もっと正確に――を心がけた。このとき、松田の心の奥底をのぞいたような気がする。松田はその後、原因不明の病に倒れ、7年余の闘病生活の末に他界した。

 松田の晩年、いわき市立美術館で2人展ながら回顧展が開かれた。東日本大震災をはさんで2回、まちのギャラリーでも回顧展=写真=が開かれた。うつむいて静けさをたたえる家族、横たわる黒いマントの民……。松田の作品に内包されている「悲しみと祈り」が、3・11を経験してより深まって見えた。
 
 さて、岩手である。実は42年前、新婚旅行で宮沢賢治の「イーハトーブ」を訪れた。結婚披露宴に松田が出席し、仙台泊のあと訪ねた盛岡の画廊でまた松田と会った。その晩、松田が居酒屋へ案内し、私ら夫婦にフグ刺しをごちそうしてくれた。「畑のキャビア」といわれる「とんぶり」も初めて食べた。

 そのころは非現実的と受け止めていた賢治のことば「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」が、3・11後、私の胸中でリアルなものになった。
 
 イーハトーブを意識しながらの40年余だった。そもそも、当欄の「磐城蘭土紀行」は、「イーハトーブ」にちなむものだった。「いわき」を「イワキランド」とみなし、司馬遼太郎の「愛蘭土(あいるらんど)紀行」にあやかって「磐城蘭土紀行」とした。

 案内状は、その意味ではイーハトーブとイワキランドを往還する松田からの「おいで、おいで」に違いない。「盛岡へ旧婚旅行、といくか」というと、カミサンがOKした。10月3日のレセプションは無理だが、1週間後の日曜日、11日には東北新幹線を利用して、日帰りで「イーハトーブ」の空気を吸って来ようと思っている。

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