2015年8月27日木曜日

写真師白崎民治

「いわきの石炭産業の父」片寄平蔵(1813~60年)に、高崎今蔵(1825~1912年)という盟友がいる。その子孫の家に古い肖像写真が残っているというので、先日、いわき地域学會の仲間と調べに行った。
 今蔵は、平蔵よりは一回り年下だ。人生の半分は江戸時代を、半分はまるまる明治時代を生きた。享年87。当時としては長生きした方だろう。

 同行した仲間の一人はいわきの石炭産業に、もう一人は写真技術にくわしい。肖像写真の人物を特定するには至らなかったが、どこで撮られたものかはすぐわかった。写真が張られていた台紙の裏に英語と日本語で表記されていた=写真。日本語では右から「仙台市東一番町/人像専門写真師/白崎民治製」(現代表記にした)とある。

 ネットで「写真師白崎民治」を検索した。仙台の商人で文化人、柴田量平の『東一番丁物語』がタネ本らしい。それによると、民治は山形県出身、写真師江崎礼二の門下生で、明治21(1888)年に仙台で開業した。同30年、仙台で初めて活動写真を紹介した、ともある。

 仙台は明治22年、市制が施行される。つまり、民治がこの肖像写真を撮ったのは同22年以降ということになる。それ以上の情報は得られなかった。が、江崎礼二、柴田量平が出てきたので、ついでにいえば――。
 
 俳句・短歌革新運動を展開した正岡子規に影響を与えた人間に、磐城平出身の歌人天田愚庵(1854~1904年)がいる。清水次郎長の養子になる前、戊辰戦争で行方不明になった父母妹を探すため、旅回りの写真師になった。師匠は江崎礼二。白崎民治よりは3歳年上だ。同門の2人に接点はあったか、なかったか。

 詩人山村暮鳥は磐城平時代、雑誌「風景」を発行した。大正3(1914)年10月号の表紙絵を描いたのは、当時24歳の柴田量平。孫娘の夫は歌手の稲垣潤一で、二人は2001年に共編者として『仙台・東一番丁物語 柴田量平選集』を出している。妻とは死別した。こういう枝葉から新しい課題が見えてきたりする。

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