地域新聞に身を置き、やめてからは日本の新聞を視野に入れながら、いわきの地域メディアの歴史を調べてきた。そのさなかに東日本大震災が起きた。地域紙、県紙、全国紙の役割の違いが鮮明になった。
それはそれとして、戦前・戦中の新聞を考える際のキーワードは「言論統制」「大本営発表」「1県1紙」などだろう。今年(2015年)、終戦70年を迎えて、あらためて「戦争とメディア」のことを考えないではいられなかった。
先日、映画館で新作の「日本のいちばん長い日」を見た。それにからめて次のようなことを書いた。
「先の太平洋戦争では、戦時体制が進むなかでまっさきに地域新聞がつぶされた。5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統廃合され、さらに『1県1紙』政策のなかで福島民報の『磐城夕刊』に組み込まれる。戦局が悪化すると、今度は休刊の憂き目に遭い、終戦時にはそれを伝える地元の活字メディアは存在しなかった」
地域紙の側から見ると、日本のメディアは3層構造になっている、というのは当たり前のことだが、中央の視点は必ずしもそうではなかった。山田健太専修大教授が『3・11とメディア』(トランスビュー、2013年)のなかでこんなことを言っている。
「3・11を経て、多層的なメディアの重要性が改めて確認された。ここでいう多層の意味は(中略)主として到達エリアによる違いをさす。/具体的には、新聞でいえば(中略)、ナショナル/ローカル/コミュニティの三層構造が存在する」。テレビやラジオも同じ三層構造――という指摘に、やっと中央が地域を「発見」したか、という思いを抱いた。
いわきの例でいえば、いわき民報はコミュニティペーパー、FMいわきはコミュニティ放送だ。戦争になると、真っ先にコミュニティメディアが整理される。それが歴史の教訓だ。
原発事故報道に関してメディアは読者・視聴者から「大本営発表」という批判を受けた。では、ほんとうの「大本営発表」とはどんなものだったのか――それを調べる過程で再確認したことは、メディアは戦争とともに成長してきた、ということだ。日清・日露戦争で報道合戦を繰り広げ、部数を伸ばした。「1県1紙」政策も、今あるメディアにはプラスに作用した(競争相手が権力によって淘汰された)。
メディアを「産業」として見ると、「編集」が〈反権力〉をうたっても「経営」は〈親権力〉に傾く。太平洋戦争下のメディアは、その両方が一体となって権力に協力した。それを繰り返さないという保証はない。それよりなにより、ドイツと違って日本のメディアは戦後も温存された。
極限状況になればなるほどメディアは権力のお先棒をかつぎ、あおり、たきつける。8月15日にBSプレミアムで旧作の「日本のいちばん長い日」が放送された。ポツダム宣言に対するメディアの反応がよくわかる新聞記事が登場した=写真。「笑止!米英蒋共同宣言/自惚れを撃破せん/聖戦を飽くまで完遂」(毎日新聞)
吹けば飛ぶような一寸の虫がいうのもなんだが、メディアが勇ましいことをいいはじめたら要注意だ。このごろのメディアにそんなきざしがないかどうか。フリージャーナリストら2人が殺されたとき、某紙のコラムニストが「仇をとってやらねばならぬ、というのは当たり前の話である」と書いた。のけぞった。
8月の終わりに、列島で「安保法案」への抗議集会が開かれた。けさの朝日はそれを大々的に取り上げ、読売は「賛成」デモもあったことを加えて小さく伝えていた。ニュース判断がこんなにも違うのは、やはりすごい。
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