2015年8月21日金曜日

「才重さん」のこと

 きのう(8月20日)の夏井川流灯花火大会で3週間に及ぶいわきの夏のイベントが終わった。昼は、街で用事をすませてとんぼ返りをし、茶の間で高校野球の決勝戦を見た。6回裏の同点打には思わず叫んだ。よし! 東北勢初の全国制覇もと、ひとりで盛り上がったのだが……。なんだか一時、「うっぷん」が晴れたような感覚になったのは、東北の人間だからか。
 流灯花火大会と高校野球が終わって思うのは、しかし、そのことではない。月遅れ盆に珍しい経験をした。

「じゃんがら念仏踊り」を見たいというので、日本に滞在中のフランス人写真家デルフィーヌと、東京に住むイギリス人の会社員ジェシカを、草深いムラの新盆の親せき宅に案内した。
 
「じゃんがら」を踊る青年会がやって来るまで、座敷で稲荷ずしを食べたり麦茶を飲んだりしながらおしゃべりをした。カミサンのいとこ(故人の妹)が2人にいろいろ説明した。ジェシカが通訳するので、多少込み入った話もできる。

 その家に欧州人がやって来たのは初めてだろう。いつの間にか「国際結婚推進論者」だった先祖、いとこの祖父(ということはカミサンの祖父でもある)、「才重さん」の話になった。才重さんは戦後、何年もたたずに山仕事中の事故がもとで亡くなったそうだ。
 
 戦中は、国粋の風が吹き荒れていた。開明的なことを口にするわけにはいかなかった。民主主義がやってきた戦後であっても、マチから遠く離れたムラに国際結婚を勧める人間がいた、という“事実”に私は驚いた。
 
 そんな才重さんだから、「2人が(この家に)来たことを喜んでるよ」と、いとこは2人に伝えた。それから鴨居に掲げられている写真や賞状などのあれこれを2人に解説した=写真。不思議な光景だった。
 
 親せきから「恵里(えり)の本家」と呼ばれている家だ。才重さんはムラのリーダーだったのだろう。田舎にあっていろいろ本を読み、新聞・雑誌を手にして、日本の行く末を考えていたからこそ、国際結婚推進論者になったのかもしれない。
 
 今年は「終戦70年」の節目の年。「カレンダージャーナリズム」と揶揄されながらも、8月には見ごたえのあるテレビ番組、読みごたえのある新聞記事が少なくなかった。それに加えて、保守ではあっても排外主義ではない人間がいた、孫がそれを記憶していた(親が語って聞かせていたか)、ということを知って、特別な「じゃんがらの夏」になった。これも「じゃんがらの力」だろう。

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