2018年2月23日金曜日

近所にホテルが建った

 いつの間にかわが家の茶の間から8階建てホテルの屋上看板が見えるようになった。おととい(2月21日)、国道6号沿いにオープンした「スーパーホテル福島・いわき」だ。
 あとでわかったのだが、双葉郡富岡町のオーナーが建物をつくり、大阪に本社のあるスーパーホテルが運営する。コンビニと同じで、フランチャイズ方式で全国展開をしているようだ。いわきのホテルは国内125店舗目という。

 地元の区長ということで、オーナーがあいさつに来た。その後、ホテル本部の社員が来て、オープン前日に落成披露パーティーを開く、ついては乾杯の音頭を――という。

 2月11日にいわきサンシャインマラソンが開かれた。前夜、首都圏からわが家にランナー2人が来て泊まった。去年(2017年)はなかったのっぽビルを見て、「スーパーホテルができたんですね」という。出張で利用したことがあるそうだ。それで、ビジネスマンに支持されているホテルだと知った。

 パーティーに先立ち、ホテル内を案内してもらった。シングル、ファミリー用、常磐湯本から温泉を運んでくる大浴場などを見た。「快眠」と「無料健康朝食」を売り物にしているそうだ。パーティーでは、サンシャインマラソンのランナーの話をまくらに、いわき・浜通りの復興に奮闘するビジネスマンの安らぎの宿となるよう、また地元神谷との共存共栄を願って乾杯の音頭を取った。

 夏井川の堤防から、山際の田んぼ道から、跳び箱みたいに浮き上がったホテルが見える=写真。神谷の新しいランドマークになるかどうかは、「共存共栄」にかかっている。私はそう思っている。
 
 パーティーでホテルの本部長さんと話した。「夫婦げんかをしたら泊まりに来ます」というと、大笑いされた。共存共栄にはこういう側面もある。

2018年2月22日木曜日

キュウリの古漬けも終わりに

 朝の食卓に塩抜きをしたキュウリの古漬けが出てきた=写真。「これが最後ね」「そうか、春になるのか」。言った本人が驚いた。なんでそんな言葉を発したのだろう。
「氷が融けるとなんになる?」。「水になる」ではなく、「春になる」。よく知られた子どもの感性の豊かさを示すエピソードだが、私の場合は家庭菜園の準備(土起こしと野菜の種まきなど)が頭に浮かんだのだった。

 わが家では、漬物は私がつくる。5~11月は糠漬け、12~4月は白菜漬け。つなぎにあり合わせの野菜を使った一夜漬け。それでも足りないときは、道の駅よつくら港などへ行って“おばちゃんの味”を買う。

 去年(2017年)の夏は、夏井川渓谷の隠居の菜園でキュウリを栽培した。あちこちから“お福分け”も届いた。糠漬けだけでは余ってしまう。十数年ぶりに塩漬けにした。数えたわけではないが、30本以上はそうしてあめ色の古漬けになった。

 いわきでは一年中、糠漬けをつくろうと思えばつくれる。しかし、師走になると糠味噌が冷え切ってかき回すのがいやになる。で、糠床は「塩のふとん」をかぶせて休ませる。代わって、白菜漬けをつくる。糠漬けも白菜漬けも――は、食欲旺盛な子どもたちがいるときならまだしも、夫婦2人だけでは余ってしまう。

「これが最後ね」といわれてから何日かたって、古漬けのキュウリが入った小壺が食卓から消えた。白菜漬けも、八つ割りにしたものが二つか三つ残っているだけだ。

 この冬は、いい白菜が手に入りにくかった。3月に入ってもそうだろう。となれば白菜漬けも終わり、糠床をいつもの年より2カ月早く目覚めさせるしかないか。でも、まだ冷たいだろうな。かきまわしたくないなぁ。一夜漬けでしばらくしのぐか――などと逡巡している。どんな漬物をつくり、食べるかは、私にとってはけっこう大きな問題なのだ。特に、端境期の春先は。

2018年2月21日水曜日

カレーのレシピは娘に

 2月もはや下旬。寒暖の波を繰り返しながらも、気温のグラフは上昇線を描いている。夏井川流域の「梅前線」は平地から渓谷の手前、小川町上小川字高崎地内にまで到着した=写真。今年(2018年)は少し遅いような……。
 梅の花が満開のなかの死だった。きのう(2月20日)、73歳で亡くなった知人の通夜へ夫婦で行ってきた。2人の娘さんのうち、下の子が喪主になった。近くに住んでいて、ふだんから故人と行き来していたからだろう。

 知人はカレー店のオーナー。4日前の拙ブログでも触れたが、昔、家が近所で、子どもの幼稚園が同じだったため、朝は私が子どもたちを幼稚園へ送り届け、午後はオーナーの奥さんが迎えに行った。

 子どもたちがまだ幼稚園へ通っているうちに、平・神谷(かべや)へ引っ越した。やがて行ったり来たりする頻度が減り、子どもたちも大人になった。父親はしわが寄り、頭髪が後退した。彼女たちの母親とはときどき、スーパーなどで顔を合わせているから、こちらの“変貌”ぶりは承知している。

 焼香にあわせて喪主にあいさつする。「だれだっけ?」といった顔をした。それはそうだろう。「○×のとうちゃん」。次の瞬間、「○×君のおじちゃん、おばちゃん!」。そういって、カミサンの腕をつかんだ。

 もう1人の娘さんに頭を指さして「こうなったんだよ」というと、「大人のたしなみとして何もいいません。45になりました」。頭の回転が速い子らしい言葉が返ってきた。悲しい席の場なのに、ついはじけてしまった。ホトケ様もそのくらいは許してくれるだろう。

 このあと、通夜振る舞いの席に移動した。おっ、カレーがある。「ドージーのカレーですか」「そうです」。文庫本半分くらいの発泡スチロールの食器に盛られたカレーライスを食べる。やや甘いかな。舌が真っ先に甘みに反応したが、遅れてまろやかな辛みが広がる。20年ぶり、いや30年ぶりくらいにコクのある味を堪能した。お代わりをしようとしてやんわり断られた人もいる。

 あとで母親に聞く。下の子が入院中の父親の指南でカレーを試作した。最後は父親伝授のワザをレシピにまとめて、通夜の客に出したのだという。

梅の花の次には桃の花が咲く(父親は娘に桃と名づけ、花と名づけた)。父親のカレーの味を娘が家庭で引き継ぐ。ここでは一足早く桃の花が咲いた――この一点だけでも、カレーに生きた父親は安心して彼岸へ渡れるだろう。

2018年2月20日火曜日

112年前の大火で引っ越した一家

 2月18日は明治39(1906)年におきた「平大火」の日。カレンダージャーナリズムの癖が出て、その日にブログで取り上げた。
 たまたま同日、常磐湯本町の知人から電話がかかってきた。夕方、わが家で会った。祖父が平・三町目で紺屋(染物業)を営んでいて、被災した。「仲間と劇場(平座)をつくったばっかりで、燃えてしまった。それで土地を売って湯本に引っ越して来た」という。「きょうが大火の日ですよ」「あららら」
 
 1週間前のブログに書いた「『十一屋』は3軒あった」うちの1軒の子孫だ。師走に知人から、家に残っている古い写真と戸籍関係の資料を借りて、あれこれ調べているうちに、三町目に「十一屋」、その向かいに「染物十一屋」、四町目に「染物のちうどん十一屋」があることがわかった。三町目の「染物十一屋」が祖父の家だった。

『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)になにか載っているかもしれない――。きのう(2月19日)当たったら、平座の記述があった。口絵に外観=写真・上=と、開場記念興行広告=写真・下=も載っていた。
「明治35年、川隅豊吉、荒木忠光、加納五郎等が東北一の劇場の創設を念願し、(略)東京新富座をモデルとして平座の新築を始める。一時中断したのち、38年9月、日露戦役の戦勝記念にと平駅前(略)に化粧部屋など27、回り舞台8間半という演劇の殿堂が完成した」。ところが、開業わずか5カ月で東北一の殿堂が灰燼(かいじん)に帰した。それで、負債を抱えこんでしまったようだ。

 加納五郎は、片寄平蔵とともにいわきの石炭業を興した加納作次郎の養子・作平の子だ。知人の先祖とは親戚筋にあたるというから、五郎から誘われたのかもしれない。

 大災害によって住んでいたところを離れ、家業を替えざるを得なくなる。生活が一気に暗転するという点では、暴風に吹き飛ばされたようなものだ。一家は焼け出されたうえに負債を抱え、土地を売って湯本へ引っ越し、祖母方の親戚などの支援もあって印刷業を始めた。先祖の墓は平にある。

 この100年余の間には関東大震災があり、アジア・太平洋戦争があった。阪神・淡路大震災も、東日本大震災もおきた。知人の家のように変転を余儀なくされた個=庶民の歴史の積み重ねの上に今がある――そのことをあらためて思った。

2018年2月19日月曜日

日なたの春と日かげの冬

 きのう(2月18日)の日曜日は、3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。前夜に続いて強風が吹き荒れた。小川町・上小川字高崎地内の先、“地獄(十石)坂”を越えて渓谷に入ると、日かげにうっすらと雪が積もっていた。
 いや、積もるほどではない。雪がふっかけてそのまま解けずに残っている感じだった。タイヤの跡が幾筋も付いている=写真。このまま夜になると氷の膜になりかねない、スタッドレスタイヤでも危ないなぁ――そんなことを考えながら進むと、日なたの道路は乾いている。

 隠居に着いてすぐ、洗面所を見た。室温氷点下5度。1月末にチェックしたときに、チッタンチッタン水が垂れていた。元栓をちゃんと閉めなかったために、水道管から洗面台につながる蛇腹管が凍結・破損したようだ。で、元栓を閉め直し、念のために洗面器を置いて水漏れに備えた。水はたまっていなかった。
 
 よし、次は庭の菜園からいわき一本太ネギを引っこ抜くか、となったものの、高く寄せた土が凍っている。マスクをしても鼻水が垂れる。やめた。下の庭にあるフキノトウの探索に切り替える。が、これも枯れヨシが積もっていて確認できない。早々に切り上げた。強風にどんどん体温が奪われる――それを実感したので。
 
 あとは渓谷の上流、川前の店へプロパンガスの代金を払いに行くだけ。ほとんど使っていないが、月々の基本料金は払わないといけない。街へ戻る準備をすませて出かけ、料金を払った。8カ月もためていた。
 
 店主の話だと、雪は朝に降った。この春先、いわきの山道では日なたの春と日かげの冬が交互に現れる。真冬よりかえって運転には注意が要る。

2018年2月18日日曜日

明治39年の平大火

 およそ100年前のいわきのことを調べている。磐城平時代の山村暮鳥と仲間を追っているうちにそうなった。同時に、いわきの今の文化状況の根っこには暮鳥がいる、今のいわきを知るには100年前のいわきを知る必要がある――このごろはそんなことも意識するようになった。100年単位でモノゴトを考える習慣を身につけねば――哲学者の内山節さんが言っていたことも大きい。
 これも100年単位の範疇には入るだろう。明治39(1906)年2月18日、つまり112年前のきょう昼前、平・新田町(しんたまち)の料亭から出火し、折からの北西風(きのうの夜と同じような強風だったにちがいない。けさもまだ吹いている)にあおられて大火事になった。

 斎藤伊知郎『写真で見るいわきの歴史 懐郷無限』(1978年)=写真=によると――。火の粉は数カ所に飛び火し、たちまち新田町一円を焼き尽くしたあと、本町通り、平駅前、白銀町まで燃え広がった。火勢は夕方5時ころには鎮まったが、新川町、月見町、南町、十五町目、中町、大町、大工町までひとなめにした。
 
 新田町の火元のすぐ近くに日本聖公会平講義所があった。里見庫男『地域の時代へ』(2000年)によると――。平講義所は明治36(1903)年、まず紺屋町に開設された。2年後には新田町に移転し、被災する。暮鳥が平に着任するのは、平大火から6年後の大正元(1912)年秋だ。
 
 講義所は、火事のあとも新田町にあった。焼け残った家の一角でも借りたのだろうか。暮鳥は赴任後、結婚する。講義所はあまりにも狭い。で、平・才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。隣は弁護士の新田目(あらため)善次郎宅。すぐ向かいは清光堂書店才槌小路分店だった。この分店で生涯の友となる吉野義也(三野混沌=のちに若松せいと結婚)と出会う。

 災後7年目の平の町に立った暮鳥の内面を、東日本大震災から7年がたとうとする今のわれわれの気持ちを重ねて想像してみる。『懐郷無限』には、「町長は幸い日露戦争の炭鉱景気の絶頂期を利用して一応復興を成功させた」とある。すでに大火の痕跡は消えて、通りは真新しくなっていた? それだけだったか――“100年思考”で問いかけの幅を広げることで見えてくるものがあるのではないか。

2018年2月17日土曜日

飛ぶハクチョウ

 いわきサンシャインマラソンの朝。首都圏から走りに来た客人をいわき駅前へ送ったあと、夏井川の堤防を帰ってきた。新川が合流する地点にハクチョウがいる。この時間、よそへ行ったり、よそから来たりして、あわただしい。少し下流で、海の方からやって来るハクチョウに遭遇した=写真。
 それから2日後の、知人の旅立ちだった。きのう(2月16日)のいわき民報に死亡広告が載った。「○×ちゃんだ!」。カミサンが驚きの声を上げる。カレーで知られる店のオーナーだった。享年73。

 私ら家族が別の地区に住んでいたときの話――。結婚して子どもができたあと、家が近所で、子どもの幼稚園が一緒だったので知り合った。私が朝、それぞれ2人の子どもを車に乗せて幼稚園へ送り届ける。帰りはオーナーの奥さんが4人を乗せて戻る。それから40年近くたって、子どもたちが親を看取る年になった。
 
 今の家へ引っ越したあと、家族で遊びに行ったことがある。まだレコード全盛の時代、CDを見せてかけてくれた。レコードとの音質の違いがどうの、というようなことをいっていたのを覚えている。CDが発売されたのは1982年。発売と同時に装置を買い込んだのではなかったか。

 平・白銀町で大きな店を切り盛りしていたころ、家族でよくカレーを食べに行った。そのとき、オーナーにキャベツの千切りの極意を教わった。「芯に対して直角に」。しばらく包丁を握ってキャベツと向き合ったものだ。
 
 店が平・レンガ通りに移ってからは、街で会えばあいさつする程度になった。店にも、もう10年以上行っていない。店の前を通るたびに「いるかな」と見やっていたが、突然の訃報だ。驚いた。
 
 ハクチョウは間もなく北へ帰る。オーナーの魂もふるさとの茨城へ帰るのか。

2018年2月16日金曜日

ペルーの蒸留酒

 無色透明。アルコール度数40度。いわきを離れて福島へ移る若い人と、ミニグラスで乾杯した。「ゲホッ!」。のどに流し込んだ瞬間、2人でむせった。のどに刺激的な味と香りだった。
 あとでネットで調べてわかった。「ピスコ」というペルーのワインの蒸留酒だった=写真。ラベルに「アロマティコ」とある。「アロマテラピー」の、あのアロマだろう。香りの強さがうなずける。

 若い人が旧知の後任者を連れてあいさつに来たとき、たまたまカミサンの知り合いが持って来た。「ウチに置いてても飲まないから」。ときおり、衣類や野菜を持って来る。衣類はリサイクルに回す。野菜はありがたくいただく。木箱入りのピスコもありがたくいただいた。

 ピスコはミニグラス1杯だけにして、あとは若い人が持参した缶ビール、それが尽きてからは焼酎の田苑に切り替えた。

 数日後に田苑が切れたので、恐るおそるピスコを飲んだ。田苑もそうだが、ストレートで口に含み、すぐお湯を流し込んで、胃袋でお湯割りにする。たちまち体がほてってきた。アンデスの山で栽培されたブドウからできたブランデーだけのことはある。

 これをきっかけにピスコを飲むということはないが、瓶のかたちがいい。ナスカの地上絵のひとつ、ハチドリが瓶にプリントされている。デザインに引かれた。飲み終わったら、テレビのそばに飾っておこう。

 事前に調べておいて、能書きをたれながら乾杯したら、もっと思い出深い送別の宴になったかもしれない。

2018年2月15日木曜日

モテネギとオクイモの味噌汁

 少し古い話になるが――。2月4日にいわき昔野菜フェスティバル(いわき昔野菜保存会主催)が開かれた際、里芋とオクイモ、モテネギが参加者におみやげとして配られた(いわき市発行の『いわき昔野菜図譜』やレシピ集では「おくいも」「もてねぎ」と平仮名表記だが、ここでは片仮名表記にした)=写真。
 オクイモはいわき市山玉町で栽培されている在来作物のジャガイモ。半分に切ると、中身が真っ白だ。でんぷん質が多く、栽培者の家では昔、この芋から片栗粉をつくっていたそうだ。

 いわきでしか手に入らないジャガイモを、市内の料理人が重宝している。クレープ、ピュレ、ヴィシソワーズ、ポム・パイヤソン、コロッケ。コロッケ以外はイメージが浮かばないが、なにかうまいものになるらしい。

 ネギは普通、「ねぎ坊主」から種を採って栽培する。モテネギは、ねぎ坊主ではなく、株分けで増やす「分げつネギ」だ。小川町下小川で栽培されている。今年の昔野菜フェスで昼食の昔野菜弁当に、トン汁がサービスで付いてきた。中にモテネギが入っていた。やわらかかった。酢味噌あえなどに向いているようだ。

 阿武隈の「おふくろの味」が舌の細胞にしみこんでいるせいか、ネギといえばジャガイモの味噌汁、が真っ先に思い浮かぶ。その際、“基準”にしているのがふるさとの田村地方で栽培されている曲がりネギの「三春ネギ」だ。白根はもちろん葉もやわらかい。そのうえ、香りがあって甘い。

 オクイモとモテネギも味噌汁にした。どちらもやわらかい。好みの食感だ。モテネギの甘みは? 三春ネギや「いわき一本太ネギ」まではいかない。やわらかさがモテネギの個性だろう。在来のネギの味をまたひとつ知った。

 オクイモ、そしてモテネギといわれるようになったわけは――。オクイモは晩生種、おくてのイモだ。それで「オクテのイモ」が縮まって「オクイモ」となったのではないかという。モテネギはいわきの方言由来だろう、という。いわき市教育委員会が発行した『いわきの方言調査報告書』(2003年)に「もでる(もてる)=作物が茂る。分けつ(注・正確には「げつ」)する」とある。なるほど。

 なんでもそうだが、なにかを調べれば調べるほど新たな疑問がわいてくる。同時に、栽培の歴史を利用しただけの、実態に合わないブランド戦略なんかも見えてくる。昔野菜の種には、なによりも「物語」がある。

2018年2月14日水曜日

植田まで1時間

 いわき市は広い。北の夏井川下流域=平中神谷(なかかべや)から、南の鮫川下流域=植田町までは車でおよそ40分。
 三十数年前、植田にあったいわき民報社勿来支局に3年間勤務した。自宅と支局の行き来には、主に阿武隈の山すそ、国道6号の旧道(江戸時代の「浜街道」、明治になってからは「陸前浜街道」)を利用した。
 
 きのう(2月13日)午前、植田町の特別養護老人ホーム「ハートフルなこそ」を会場に、いわき南部地区保護司会女性部会の研修会が開かれた。旧知のOさんに頼まれて、「吉野せいといわきの女性たち」と題して、主にいわきの大正時代の話をした。
 
 10時40分から――といわれていた。支局勤務時代の40分のイメージがある。30分前には着くようにしたいと思って、旧道ではなく、国道6号の常磐バイパスを利用することにした。バイパスは、わが家の近くが終点だ。これにのれば植田までは20分ちょっとで行ける。
 
 ところが、3連休明けの影響なのか、日曜日明けはいつもそうなのか、最初の10分ほどはスムーズだったが、鹿島に入るとたちまち渋滞した。渋滞にはまってはいられない。バイパスを下り、常磐へ抜けて国道6号を利用したが、泉トンネルでまた渋滞した。トンネルの先は区画整理で人口が急増中の地区。信号待ちで長い車列ができたのだった。
 
 結局、着いたのは10時40分前後。1時間5分かかった。Oさんらが園庭で待っていた。
 
 話を終えて、みんなとランチを共にする。知った顔が2、3人いた。1人からチョコレート=写真=をいただく。<あ、そうか、あした(2月14日)はバレンタインデーか>。義理チョコさえ無縁の人間には、うれしいプレゼントだった。
 
 家に帰ると、夏井川渓谷に住む友人がまきストーブでふかしたサツマイモを持ってきた。夕方は、客人がメヒカリの一夜干しを持参した。勝手に一日早いバレンタインデープレゼントと思うことにした。そういえば、何日か前からカミサンが生チョコをおやつに出すことがあった。自分で食べたいために、バレンタインデーを理由にして買ったのだろう。

2018年2月13日火曜日

「十一屋」は3軒あった

 今のいわき市平字三町目の本町通りに、「十一屋」という「煙草元売捌(さばき)/洋小間物商」があった。

 創業者は幕府に仕えた侍で、磐城平藩主安藤信正の引きで“脱サラ”し、平城下の三町目に旅館・雑貨・薬種・呉服などの店を出した――。不破俊輔・福島宜慶共著の小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年)に、そうある。“評伝小説”だから事実は押さえているのだろう。
 
 21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する途次、磐城平の城下に寄っている。そのとき泊まったのが、この十一屋だ。

 愚庵は旧磐城平藩士で明治の歌人、正敏は愚庵の三つ年上の友人で、十一屋とは親戚だった。北海道へ渡って漁業経営者になる。「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」。正敏にはそういう“前史”があった。

 大正になると、詩人山村暮鳥と十一屋の大番頭さんが昵懇(じっこん)の間柄になる。つまり、幕末・明治・大正と、いわきのみならず日本の近代史を彩る人間を掘り下げ、光を当てるうえで「平の十一屋」は欠かせないスポットだ。

 師走に入ったころ、十一屋の子孫で常磐・湯本に住む知人から、家に残っている古い写真と戸籍関係の資料を借りた。写真の裏にはたいがい人物の名前やメモが記されている。その“裏書き”と戸籍簿を照らし合わせながら系図を組み立ててみた。

 十一屋は、時期はわからないが三町目から四町目に移っている――これまで断片的に耳に入ってきた情報からそう思い込んでいたが、それは間違いだった。移ったのではない。分家して四町目にも十一屋ができたのだ。写真の裏書きによると、その時期は明治18(1885)年だ。

 湯本の知人は「先祖は三町目で染物屋をやっていた。明治39(1906)年の平大火で焼け、土地を地元の有力者に買ってもらって湯本へ移った」という。染物屋? 三町目? 四町目の十一屋ではない?

 斎藤伊知郎『いわき商業風土記』(1973年)に、明治40年代前半の本町通りの商店配置図が載る。同通りは西から一町目、二町目と続く。本では縦組み=右から左への流れに影響されてか、町ごとに地図を切って、一町目から載せている。実際とは逆の配置だ。この地図をコピーして西から東へとつないで、拡大鏡を使って眺めたら……。
 
 驚いた。十一屋が3軒あった。三町目に「十一屋小島未造」、その向かいに「染物十一屋小島寅吉」=写真・上、四町目に「染物のちうどん小島忠次」=写真・右。「未造」は本家の「末蔵」、「忠次」は分家の「忠吉」のことだろう。世代的な飛躍もありそうだが、少なくとも本家とそれに属する染物屋、分家が同時に存在していたことがわかった。

 三町目で染物屋といえば、「寅吉」。知人の祖父だ。染物には水が欠かせない。なぜ三町目のそこで、そして分家も四町目で――となるが、裏手にはまだ武家屋敷と町人屋敷とを分ける掘割(今の飲み屋街・田町でいえば「紅小路」より北側の部分)が残っていた。そのことが関係していたにちがいない。
 
 まだまだ精査しないといけないが、とりあえず十一屋が3軒あったということで、これまでの“誤読”を超えることはできた。

2018年2月12日月曜日

サンシャインマラソン

 きのう(2月11日)は昼前、いわき市中部の泉・渡辺地区を車でうろうろした。泉ケ丘のギャラリーいわきで阿部幸洋新作版画展が開かれている(13日まで)。開廊時間は午前10時と思い込んで、その時間に着くように出かけたら11時からだった。 
 しかたない、1時間ほどあてもなく泉郊外の渡辺地区を御斉所街道近くまでドライブしたり、カミサンの希望で泉駅付近の店を行ったり来たりした。ずっとFMいわきでいわきサンシャインマラソンの実況を聞いていた。画廊からの帰りも放送を聞き続けた。

 レースとしての実況中継はNHKなどのテレビやラジオでおなじみだが、FMいわきの実況は、ポイント・ポイントからの「来ました、ゼッケン番号○×番が通過しました」が主で、あとはスタジオと現場をつなぐ普通のイベント放送と同じ組み立てだった。ま、それで大会を支えるボランティアや沿道の応援の様子はよくわかったが。

 全国から1万人前後が集まった。なかには仮装して出場した選手もいる。参加することに意義があるという市民ランナーも多い。そういう寛容な選手を狙ったのか、コミュニティ放送らしい大胆な企画もあった。走っている選手にしゃべらせる。「酷なことをします」――アナウンサーの本音につい笑ってしまった。

 実は前夜、10キロ女子の部に出場する首都圏の知人2人がゲストハウス(故義伯父の家)に泊まった。「ホウレンソウ鍋がいい」というので、いわき駅前で材料を買ってきてもらった。拙ブログで確かめたが、去年も同じことをしている。朝、シャトルバスが出るいわき駅前まで送って行ったのも同じだ。バスに乗りこむ選手の長い列ができていた=写真。ホテル・民宿は満室、ホームステイも市内のあちこちで行われたのではないか。

 2人は、東日本大震災後、いわき支援に入ったシャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフだ。いわきリピーターでもある。ほかにもいわきリピーターがたくさんいたことだろう。あとで無事完走したという報告が、フェイスブックに載った。

 いわきサンシャインマラソンは、小学生も出場できる。もちろん、フルマラソンではない。3・4年の部、5・6年の部ともに2キロで競う。小2の孫が来年は3・4年の部に挑戦するらしい。新聞に折り込まれたチラシによれば、フルマラソン以外は小名浜のアクアマリンパークがスタート地点だ。来年は応援に行くか。

2018年2月11日日曜日

「猫のお福分け」

 きょう(2月11日)は東日本大震災から6年11カ月の月命日。いわきサンシャインマラソンの日でもある。前夜に降った雨は、未明にはやんだ。
 けさの新聞は石牟礼道子さんの死を大きく取り上げている。享年90。前日、石牟礼さんの訃報がテレビで流れたあと、ツイッターやフェイスブックに哀悼のことばがあふれた。

 1月31日、朝日新聞文化面に石牟礼さんのエッセー「魂の秘境から 7 明け方の夢」が載った=写真。石牟礼さんは猫好きだったらしい。若い友人が訪ねて来て、ケータイで猫の写真を見せた。「猫のお福分け」にあずかった気分になる。「お福分け」という言葉に引かれて、切り抜いておいた。
 
 朝日のエッセーを読み直す。猫は石牟礼さんにとって水俣の海の異変を告げるシグナルだった。昭和30年代の初めごろから、猫が「狂い死に」するようになった。そのわけを知りたくて、石牟礼さんは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩く。「猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった」

 遅まきながら思ったのは、これは口述筆記かもしれない、ということだ。石牟礼さんの文章は聞き取りを基本にして組み立てられた。記録文学のジャンルに入るのだろうが、水俣の土地のことば(方言)を編み込んだ比喩の独自性に重いリアリティーを感じてきた。エッセーではそういう比喩性が感じられなかった。

 それはさておき、記者もまた記録することの意義を自分に問いかけ、問い直す必要があるのではないだろうか。
 
 新聞記者に問われるのはと、今さらできなかったことをいうようなものだが、事件・事故といったストレートニュースだけでなく、なにか自分でテーマを見つけてアフターファイブに取材を重ねる――そのくらいの気概があっていい。「苦海浄土」はそのためのバイブルになる。

 地域には地域固有の課題がある。地域と運命共同体の地元メディアは、その課題と向き合わざるを得ない。沖縄は米軍基地、長崎・広島は原爆、熊本は水俣病、福島は原発事故。それぞれの課題の根っこにあるのは、個々人の尊厳に対する侵害、それに「ノー」ということだろう。

 石牟礼文学は、その意味では地域を深く掘り下げて普遍に至った「世界文学」だ。池澤夏樹さんが編集した世界文学全集に日本から唯一、石牟礼さんの「苦海浄土」が入ったのもうなずける。文章の独自性・創造性は比喩しだい。それを石牟礼さんは示した。

2018年2月10日土曜日

ボルヒェルト全集

 いわきの作家・吉野せいの短編集『洟をたらした神』には、16編の作品が収められている。うち「水石山」など6編の原型はいわき民報に掲載された。
 新聞では「菊竹山記」という通しタイトルが付けられた。先日、昭和45(1970)年11月16日付の第1回「水石山」を読んでみた。初回からいきなりボルヒェルト(1920~47年)の名前が出てくる。末尾に「筆者=三野混沌夫人」とあるが、混沌さえ知らない読者はどこのだれだかわからない女性の文章にとまどったのではないか。

 混沌の新盆のあと、せいは家族で水石山へ行く。山頂の風景を眺めているうちに、昔読んだボルヒェルトの「タンポポ」を思い出す。

 ボルヒェルトはドイツの作家だ。第二次世界大戦直後のわずかの間に、詩と短編小説を書いて27歳で亡くなった。小松太郎が日本語に翻訳して、早川書房から『ボルヒェルト全集』を出したのは、昭和28(1953)年。そのとき、せいは50代半ばだった。

「毎日三十分の運動にひき出される囚人が、通路の傍らにみつけたいじけた一輪のたんぽぽの黄色。これは生きてるのだと息をのんだそれのように、スロープのもうせんの中に、処々細々と咲いた河原撫子(かわらなでしこ)の田舎びたピンクの花の高貴さ! それを走り寄って、嬉々と摘みとる人の姿を悲しく眺めた」
 
 この新聞初出形は、単行本では次のように加筆される。「毎日三十分の運動にひき出される死刑囚人が、ある日通路の傍にみつけた一輪のたんぽぽの黄色、ああこれは生きている。自分よりもきっと長く生きつづけられるだろう。憎らしいほど羨ましいけれど、何で又こんな場所をえらんでいじらしく咲いたのだ。俺の前をつながれて歩いてゆくなかまたち、どうかよろけてあの花を踏まないでくれ」

 ボルヒェルトを読まねば――。「タンポポ」を収めたボルヒェルトの本は常磐図書館にある。総合図書館に取り寄せてもらうか、直接常磐図書館へ行くかしよう、と考えていた矢先だった。近所の故義伯父の家に分散しておいた本棚を眺めていたら、『ボルヒェルト全集』全一巻(早川書房、1973年)があった=写真。

 忘れていた。2回目の全集が出たとき、雑誌「現代詩手帖」かなにかで紹介されたにちがいない。そのころ、同誌を毎月買って読んでいた。以来45年間、“積ん読”ままになった。

 主人公(つまり、ボルヒェルト)は獄庭を集団で散歩中、こっそりタンポポを摘み取って部屋に持ち帰り、湯のみに差して、「すっかり解放されて幸福な」気分になる。そういう終わり方だった。せいが描いた「たんぽぽ」にはその先があったのだ。

2018年2月9日金曜日

いわき昔野菜フェス・下

 いわき昔野菜フェスティバルでは、必ず学術講演がある。江頭宏昌山形大農学部教授が講師を務める。昔野菜フェスティバルを主催するいわき昔野菜保存会のアドバイザーのような存在だ。
 今年(2018年)の講演=写真=のタイトルは「『伝える』意味を改めて考える」だった。「改めて」が入ったのは、2011年の初回の講演が「在来作物を伝える意義」だったからだろう。

 初回の講演で江頭さんは、未来学者アルビン・トフラーの『第三の波』を紹介しながら、通常の経済とは別の「非金銭経済」の出現について触れた。「社会の冨」が金銭だけでなく金銭以外のものも含むようになった、「生産消費者(プロシューマー)」が登場してきた――。生産消費者とは、たとえばDIY、ガーデニング、家庭菜園を楽しむ人であり、ボランティアやNPOの活動もそれに含まれる。

 週末に土いじりをしている身として、以後、自分を「生産消費者」と位置づけるようになった。「生産もする消費者」と意識することで、プロの生産者の思いにも、純粋な消費者の思いにも共感できる回路ができたように思う

 今回の講演ではまず、山形の「宝谷(ほうや)かぶ」の事例を取り上げた。食べてくれる消費者がいないと生産者は減る。消費者が生産者とかかわりあうことで、生産量も生産者も増えた。が、地域の過疎化・高齢化がネックになる。高齢で引退する。亡くなる。「風前のともしびか」と思われたとき、生産者の孫が「種を絶やしたくない」と後継者になった。

 なぜ在来作物は残ったのか。江頭さんは①おいしいから②親戚・知人に“お福分け”すると喜ばれる③先祖伝来の種を自分の代で切らしたくない④飢饉への備え――の4点を挙げた。

 そのための「文化の三点セット」がある。KJ法で知られる文化人類学者川喜田二郎さん(故人)に教えられたことだという。「モノ(道具)・知識・教習」だ。「教習」とは「実地に学ぶ」ということだろう。サーフィンを例に挙げれば、ボードを手に入れた、本を読んで知識を吸収した、しかし、肝心の海で実地に学ばないことには「波乗り」はうまくならない。

 最後に、江頭さんは「伝えることの意義」について、あらためて強調した。①自分が体験した「感動」がないと伝わらない②伝えるべきものの本質を見極める③幸せを願う④簡単にあきらめない――。フェスティバルが終わって懇親会に移ったとき、生産者でもあるメンバーが「あきらめない」ことに勇気づけられた、と語った。

2018年2月8日木曜日

いわき昔野菜フェス・中

 いわき昔野菜発掘事業の成果として、いわき市から昔野菜図譜3冊、レシピ集3冊の計6冊が発行された。事業初年度の夏に2回、市の広報と、事業を受託したいわきリエゾンオフィス企業組合のインタビューを受けた。以来、毎年発行される冊子の巻頭言を頼まれ、フェスティバルにも参加している。 
 6年に及ぶ事業最後の成果を伝える『いわき昔野菜のレシピ 3』に、付録として新たに発掘された昔野菜、小川町下小川のサトイモ「長兵衛」のほかに、常磐藤原町の「湯長谷半白(ゆながやはんじろ)きゅうり」「赤にんにく」「なっとう豆」が紹介されている。
 
 報告書では、生産者は匿名だったが、今年(2018年)のいわき昔野菜フェスティバルでわら納豆づくり講座=写真=が企画され、その講師が藤原の生産者だと知った。根本政清さん。農の営み、食の加工の達人だ。こうした達人は市内にまだまだいるにちがいない。
 
 根本さんは父親から、原料の「なっとう豆」とわら納豆のつくり方を受け継いだ。父親は3年間、茨城県で山の仕事に就いた。その間に「なっとう豆」の栽培と納豆のつくり方を覚えた。小粒の、いわゆる「水戸納豆」だ。
 
 わらがなくてもできる納豆のつくり方も紹介した。タッパーを使うといいのだそうだ。大豆をゆでる―タッパーに入れる―市販の納豆を少し加える―こたつでもいい、およそ一昼夜、40度に保温する―大豆に白い膜が張れば発酵は完了―タッパーを冷蔵庫に一日入れることでアミノ酸が生成され、味が熟れて風味が増す。
 
 納豆菌は自然界に普通に存在する。特に、わらに付く。わらを煮沸しても納豆菌は死なない。で、大昔、わらと大豆が偶然結びついた結果、納豆ができた。そこから「わらづと納豆」が生まれた。市販の納豆にも納豆菌が付いている。
 
 昔野菜の面白さは、それぞれの作物・種に「物語」があることだ。早煮えの小豆「むすめきたか」が茨城でも栽培されている。「種はいわきから来た」とかで、豆の研究者から情報提供の連絡が入った。

 越中富山の薬屋さんがお土産に北陸のネギの種を持って来た。郡山・阿久津曲がりネギがそうして地域に広まった。その田村郡バージョンが「三春ネギ」だろう。市場経済にはなじまないが、家族への、親戚・友人・知人への愛がある。その愛が栽培と継承を支えた。なっとう豆にも家族を思う栽培者の心がしみている。“タッパー納豆”に挑戦してみるか。

2018年2月7日水曜日

いわき昔野菜フェス・上

 早春恒例のいわき昔野菜フェスティバルが日曜日(2月4日)、中央台公民館で開かれた。昔野菜弁当付きで参加費1000円だったが、定員100人に近い人が参加した。市民団体のいわき昔野菜保存会が主催した。
 午前中は生産者による栽培講座、藁(わら)納豆づくり講座が行われた。昼に昔野菜弁当を食べたあとは、初回2011年からの講師、江頭宏昌山形大農学部教授が「『伝える』意味を改めて考える」と題して講演した。保存会の一員なので、昼の催しに続いて夜の懇親会にも参加した。
 
 きょう(2月7日)は昔野菜栽培講座について。保存会のメンバーでもある農業川内一浩さん(錦町)が、枝豆のアオバタ・春野菜のおいしい菜・種ではなく株の“分げつ”で増えるモテネギの栽培体験を話した=写真。
 
 川内さんはサラリーマン生活のあと農業を継ぎ、4年前から本格的にいわき昔野菜を栽培している。畑の面積7反のうち6反(1800坪=5950平方メートル)を昔野菜の圃場(ほじょう)にした。発掘された昔野菜73種類のうち38種類をつくっている。今年(2018年)は60種類の栽培を目指す。「種を採るのが目的」だという。保存会の「種の管理人」でもある。
 
 体験談の一部――。アオバタは6月1、15、25日の3回に分けて種をまく。収穫時期を一斉にではなく、少しずつずらすためだ。おいしい菜は春の味。菜の花がおいしいらしい。茎は指で折り取る。すると、これは私の経験でもあるが、次から次にわきから“やご”=菜の花が出てくる。白菜で試したことがある。“やご”のおかげでしばらくやわらかい菜の花を楽しむことができた。
 
 モテネギは、1本が10本くらいになる。植える時期が決まっている。5月連休明けから月末にかけて、株をバラバラにして10センチ間隔で植える。畑に植えたままにしておけば1年中食べられるという。昼にトン汁がサービスされたが、それにモテネギが入っていた。とてもやわらかい。やわらかさがモテネギの個性だろう。
 
 保存会のメンバーの共通認識は、「種は市民の共有財産」。昔野菜は大規模流通システムにのらなかった、いや排除されたからこそ、“自産自消”と“お福分け”のなかで種などが伝承された。「地域の文化財」といわれるゆえんだ。規格化された野菜にはない個性がある。その一端が栽培講座からも感じられた。

2018年2月6日火曜日

テレサの番組は見てしまう

 日曜日(2月4日)、いわき昔野菜フェスティバルが開かれた。夜の懇親会にも出席した。帰ると、「(田村市の)実家から電話があった、63歳のいとこが亡くなったって」とカミサンがいう。
 きのうの朝、実家の兄に電話して確かめる。亡くなったのは叔父の子ども(小名浜の日本水素の社宅で生まれ育った三姉妹の末っ子)だ。土曜日の夜に目を閉じた。ガンだった。彼女はどう思っていたかわからないが、私にとっては妹のような存在だ。2歳上の長女は姉さん、1歳下の次女は学業のライバル。高専に入って、ときどき、社宅を訪ねた。6歳下の小学生の末っ子がニコニコして迎えてくれた。
 
 なんで一番下が?――と思いながらも、実家の兄との会話がリフレインしてならなかった。「胃ガンの系統だからな」。叔父がそうだった。私の姉も、それで亡くなった。ほかにも祖父などがガンで亡くなっている。
 
 彼女の魂は小名浜へ戻ってきただろうか。戻ってきたとしても、社宅はとうにない。遠浅の海も松林もない。臨海工場群を見て行き惑うだけだったのではないか。叔父夫婦、つまり両親も退職後、長女のもとに移り住んで都会の人になった。墓もそちらにある。
 
 夜、BS朝日の「テレサ・テン~歌声は国境を越えて」を見た。毎年、どこかのBS局がテレサの特集番組をやっている。同工異曲だが、哀愁を帯びた透明な歌声に引かれて、たいがいはチャンネルを合わせる。還暦を機に始まった海外修学旅行で台湾へ行ったこと、仲間の一人がテレサの大ファンだったことが大きい。
 
 午後6時から9時までの3時間、テレサと同じ丸顔の末っ子の顔を思い浮かべながら見続けた。「ふるさとはどこですか」=写真=の歌になったとき、そのふるさとをなくした人間がいるのだと、少し心が湿った。

2018年2月5日月曜日

白菜が届く

 やっと白菜が手に入った。漬け込んでホッとしている。 
この半月ほど、どこで白菜を手に入れるかが悩みの種だった。スーパーへ行くと、4分の1玉200円だ。1玉800円の白菜は漬けたくないな……。逡巡が続いた。

 師走に入るとすぐ、いわき市三和町の直売所へ出かけて白菜を買った。2回目は田村軍小野町の直売所を訪ねた。3回目は、小名浜のお寺の初観音に開催される「かんのん市」で手に入れるつもりだったが……。野菜高騰の折、たちまち白菜が売り切れた。

 しかたない。遠回りしてでも直売所で白菜を買わねば――。沿岸部の田んぼの一角にある直売所で、小さな白菜を2玉買った。1玉200円だという。通常なら100円程度の小玉だが、大きくて安い白菜が手に入る状況ではない。買って漬けた。

 この小玉の扱いを間違えたらしい。いつものように割って干し、葉の1枚1枚に塩をまぶしたが、水が上がったあとも塩がなじまずに残った。浸透圧で白菜がしんなりする量以上にまぶしたか、玉が小さいうえに水分がだいぶ飛んでいたか。いずれにしても、漬物としては失敗だ。

 不出来な漬物も間もなく尽きる。道の駅よつくら港で白菜を250円で売っているという情報をフェイスブックでつかんだ。別の日の朝、出かけたら白菜はなかった。当たり前だ。みんなが欲しがっている。たちまち売り切れたことだろう。「白菜は?」「(生産者が)来るのは午後と言ってたから、持ってくるとすればそのときですね」。いやはや、空振りだ。

 で、800円のしかないかとあきらめかけていたころへ、思いがけず白菜が届いた。「かんのん市」で白菜を売っていた知人が持ってきてくれた=写真。丸大根は一緒に来た別の人からのもらい物だ。知人は車で数分の所に住んでいる。ご主人に会ったとき、白菜がすぐ売り切れた話をした。気の毒がって持ってきてくれたのだった。

 土曜日(2月3日)に漬けたら、日曜日には白菜の上部まで水が上がってきた。けさは全体が水につかりかけている。今週末には食べられるだろう。

2018年2月4日日曜日

節分の初ガツオ

 立春のきょう(2月4日)は午前10時から、中央台公民館で「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれる。いわき昔野菜保存会が主催し、終わって懇親会がある。
両方に参加するので、一日早くいつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行った。顔を出すなり、若ダンナがいう。「カツオ、あります。(市場で)見たら、よさそうだったので(手に入れました)」。

 先客がいた。市職員OBで、主に文化行政畑を歩んだ人だ。「お元気でなにより」「いやいや、なんとか生きているだけ。もう80歳を超えたんだ」「私も(間もなく)70ですよ」「70? まだまだだよ」。80代からみたらそういうことか。

 OB氏は魚を決めかねていた。「どうぞお先に」。ではと、持参した“マイ皿”を出す。若ダンナが手際よくカツオの身を切って皿に盛りつける=写真(撮影したのはわが家の台所)。今年(2018年)のわが家の初ガツオだ。

 きのうは土曜日で、節分。節分の初ガツオとは縁起がいい。かたちだけ豆まきをして、晩酌を始める。この時期にしては、うまい。いや、この時期だからこそ、とびきりうまいカツオが入荷することがある。拙ブログで確かめた。ちょうど2年前の今ごろ、極上のカツ刺しを口にした。

 そのときの様子――。私が顔を見せると、若ダンナが冷蔵庫から赤身の魚を取り出した。マグロかな? マグロなら「マグロですが」というはずだが、黙っている。カツオだった。「銚子沖で獲れたものです」。食べると舌が躍った。“とろガツオ”だった。2月のカツオだから脂はのっていない、と思っていたが、いやぁ、1年に一度あるかないかの絶品だった。
 
 きのうのカツ刺しは“とろ”まではいかなかったが、まずまずの味だった。ほぼ3カ月ぶりのカツ刺しだ。わさび醤油に、おろしニンニクを加える。ニンニクをおろすのも3カ月ぶり。酒が進む。やっぱり、いわきの魚屋でつくってもらう刺し身はカツオが一番だ。

 毎日食べたら、まちがいなく通風になる。そうならないために、“週イチ”にとどめている。このくらいのサイクルだと、まず飽きがこない。知り合いに魚屋がいると、一年中、刺し身と魚談議を楽しめる。

2018年2月3日土曜日

口笛コミュニケーション

 水曜日(1月31日)の「笑ってコラえて」の<ダーツの旅的世界一周>にはうなった。ディレクターが日本人未踏の地を求めてたどり着いたところは、ギリシャのエヴィア島アンティア村。口笛でコミュニケーションをとる村民がいる=写真。
 鳥のさえずりのような口笛コミュニケーションに驚きながらも、思い出した本がある。作家小川洋子さんと動物行動学者岡ノ谷一夫さんが対談した『言葉の誕生を科学する』(河出書房新社、2011年)だ。鳥はなぜ歌うのか、人はなぜ言葉を話し始めたのか――。岡ノ谷さんは鳥の研究を進めるなかで、「言語の起源は求愛の歌だった」という結論に達する。

 前に取り上げたときの文章を引用する。岡ノ谷さんは、人間の言葉も小鳥のようなものから進化してきたのではないかと考える。「言語の歌起源説」だ。鳥がうたうように、人間の先祖もうたっていた。そして「ある時『歌』から『言葉』へと、大いなるジャンプをなしとげた」。

 鳥の求愛は、歌だけではない。ダンスもある。動物行動学者からみると、フィギュアスケートも鳥の求愛の踊りが起源だ。

 小川さんがいう。「私はフィギュアスケートをよく見るんですが、高橋大輔の滑りなど、あれはもう典型的な求愛ダンスではないかと思うんです」。岡ノ谷さん、「あ、もちろんそうです」。フラダンサーの踊りも求愛ダンスだろう。しかも、頭の飾りは華麗な色彩と模様からいっても鳥そのものだ。コミュニケーションの原点は、いかに異性を引きつけて子孫を残すか、ではないのか。

 口笛言語を話すのは、ギリシャ・アンティアの村民だけではない。有名なところでは、スペイン・カナリア諸島のラ・ゴメラ島。谷をはさんで数キロ離れた所にいる仲間と口笛でコミュニケーションをとる。2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されたという。トルコにもメキシコにも口笛言語を話す人がいるらしい。

 日本にも天岩戸(あまのいわと)神話がある。アメノウズメが岩戸の前でストリップをする。八百万の神が笑い声をあげる。なぜ笑っているのか―天照大神がそっと岩戸を開けかけたところを、力持ちの神がガラッと開けて昼が戻ってくる。これなどはストレートな求愛ダンスといってもいいのではないか。

 口笛は、人間のコミュニケーションが鳥の歌から言語へと進化する過程で生まれたものだとしたら――。向かいの家へ行くのに、下りて上らないといけないような峡谷では、言語のほかに人類の記憶である口笛言語がよみがえる、という推測は成り立たないか。自分の肉体を使ったコミュニケーション手段は、ダンスや口笛のほかにもなにかあるにちがいない。

2018年2月2日金曜日

1月最後の夜と2月最初の朝

 1月最後の日の夜、天を仰いで眼福にあずかる。「スーパーブルーブラッドムーン」を震えながら見た。
 夕方、酒類を安く売っているスーパーへ田苑ゴールドを買いに行った。その帰り、ライトアップが行われている東北電力の無線塔の近くに、満月が昇り始めた=写真。

 スーパームーン(月がいっそう大きく見える)・ブルームーン(ひと月に満月が2回)・ブラッドムーン(皆既月食で赤くなる)の三つの現象が同時におこる日だった。ネットに、スーパーブルーブラッドムーンは35年ぶりだとか、153年ぶりだとかあるが、ま、きわめて珍しい天体現象ということだろう。

 スーパーとブルーの月だけで十分と思っていたが、宵が深まるとカミサンにいわれる。「月食が始まったよ」。カメラを持って何度か庭と茶の間を行ったり来たりした。満月が欠けて赤茶色になり、やがてまた満月に戻る。天空の奇跡に感動した。写真は三脚も望遠も使っていないので、人に見せるほどの出来ではなかった。

 月が替わって、2月最初の朝。9時半から平・飯野公民館で「さわやか女性セミナー」の講師を務める。ちょうど1年前、別の公民館で館長さんに会い、講師を頼まれた。「新聞から読み解くいわきの女性」と題して話した。
 
 受講生に中学校の同級生2人がいた。早めに家を出て、事務室で休んでいると、見た顔の女性が来た。目が合うと手を挙げた。えっ、おい! それだけでも驚きなのに、少したつともう1人の同級生が現れた。どういうこと?
 
 阿武隈の山里で生まれ育ち、中学校で別の小学校から来た2人と知り合った。いわきに住む小中学校の同級生は10人ほどで、7人前後が集まって忘年会を開いたりしてきた。その仲間の2人だ。事前に講師の顔ぶれを知って、たぶん連絡し合って、セミナーに申し込んだのだろう。
 
 思いがけない場所で出会って驚いた。が、応援に来てくれたのだと都合よく解釈して、元気が出た。
 
 話が終わって、「また集まって飲みたいね」というと、「私らはいつでもいいよ、男性で決めて。合わせるから」。飲み会には打ってつけの幹事がいる。彼は、わが家の近所に住む。早速連絡してみよう。
                  *
 けさは、起きると雪。南岸低気圧が通過中のようだ。道路には雪は積もっていないが、昼前までは降るらしい。(その後、朝のうちにやんで空が少し明るくなった

2018年2月1日木曜日

戊辰戦争と姫さまの死

 戊辰戦争で磐城平城が落ち、隠居の前藩主安藤信正一行が敗走する。赤井~三和~川前と逃れ、川内村に至る。ここで幼い姫さまが命を落とす。
 いわき地域学會が手がけた『川内村史』のうち、民俗篇(1988年刊)の<民話>の項に「安藤侯のお姫さま」が載る。姫さまが亡くなり、地元の猪狩家で通夜が営まれたあと、同家の山の墓地に葬られた。戒名は「平安藤源一滴善童女」。同家に末代までの供養料として脇差が託された。

 もとの墓は、何も書かれていない小さな自然石だった。昭和30年代、寺の過去帳に姫さまの戒名が記載されていることがわかった。寺の住職(詩人草野心平を川内村に呼んだ矢内俊晃師)の尽力で、平市長諸橋久太郎揮毫(きごう)の戒名が石に刻まれ、新しい墓がたった。先端にこけしの頭が彫られている。

 その過去帳の記載について、矢内和尚が川前の友人で考古研究者の根本忠孝(1893~1961年)に手紙で伝える。『橘月庵遺文 根本忠孝遺稿集』(同遺稿集刊行会、平成17年)=写真=に収められた「続・磐城戊辰戦争の片りん」で、根本が紹介している。

「平落城に際して安藤対馬守様が当地へ遁(のが)れた時に、家来の方が子供を亡くされています。当時の過去帳をみますと、『慶応四戊辰年七月十六日、平安藤源(注:「一滴」が欠落)善童女、平城、三田氏児女なり落城の節この地にて死す』と記載がありますから、御参考までに御通知申上げます」

 江戸時代の「常識」にうとい私のような人間は、文字通りに解釈しがちだ。が、それでは大きな間違いをおかしかねない。根本は矢内和尚の手紙にならって、亡くなった幼女は「家来の三田氏の児女」と解した。一方には姫さま説が根強くある。ここは歴史の専門家に教えを請うにかぎる。いわき地域学會の先輩にメールで質問した。

 先輩から届いた“解”は、①戒名の意味は、平・安藤の一滴を源とした童女となり、当時の住職の洒脱さが思われる②おそらくは側室(三田氏?)の子ども③「平城三田氏児女」とあるのは、あからさまに記すことを憚ったものと思う、仮の名ではないか――というものだった。複雑な背景がうかがえる。

 にしても、と思う。戊辰戦争を女性の視点で描いたものは寡聞にして知らない。いわきの「女たちの戊辰戦争」を知りたい。
 
 大名には参勤交代、正室と嫡男には江戸在府の決まりがあった。亡くなった姫さまの母親は国元にいる側室、ということになるのだろう。関口すみ子『ペットからお輿入れまで 大江戸の姫さま』(角川選書、平成17年)を読んで、さらに疑問が深まった。ついでながら、戒名の区切り方は「平安・藤源・一滴・善童女」か。