今のいわき市平字三町目の本町通りに、「十一屋」という「煙草元売捌(さばき)/洋小間物商」があった。
創業者は幕府に仕えた侍で、磐城平藩主安藤信正の引きで“脱サラ”し、平城下の三町目に旅館・雑貨・薬種・呉服などの店を出した――。不破俊輔・福島宜慶共著の小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年)に、そうある。“評伝小説”だから事実は押さえているのだろう。
21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する途次、磐城平の城下に寄っている。そのとき泊まったのが、この十一屋だ。
愚庵は旧磐城平藩士で明治の歌人、正敏は愚庵の三つ年上の友人で、十一屋とは親戚だった。北海道へ渡って漁業経営者になる。「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」。正敏にはそういう“前史”があった。
大正になると、詩人山村暮鳥と十一屋の大番頭さんが昵懇(じっこん)の間柄になる。つまり、幕末・明治・大正と、いわきのみならず日本の近代史を彩る人間を掘り下げ、光を当てるうえで「平の十一屋」は欠かせないスポットだ。
師走に入ったころ、十一屋の子孫で常磐・湯本に住む知人から、家に残っている古い写真と戸籍関係の資料を借りた。写真の裏にはたいがい人物の名前やメモが記されている。その“裏書き”と戸籍簿を照らし合わせながら系図を組み立ててみた。
十一屋は、時期はわからないが三町目から四町目に移っている――これまで断片的に耳に入ってきた情報からそう思い込んでいたが、それは間違いだった。移ったのではない。分家して四町目にも十一屋ができたのだ。写真の裏書きによると、その時期は明治18(1885)年だ。
斎藤伊知郎『いわき商業風土記』(1973年)に、明治40年代前半の本町通りの商店配置図が載る。同通りは西から一町目、二町目と続く。本では縦組み=右から左への流れに影響されてか、町ごとに地図を切って、一町目から載せている。実際とは逆の配置だ。この地図をコピーして西から東へとつないで、拡大鏡を使って眺めたら……。
驚いた。十一屋が3軒あった。三町目に「十一屋小島未造」、その向かいに「染物十一屋小島寅吉」=写真・上、四町目に「染物のちうどん小島忠次」=写真・右。「未造」は本家の「末蔵」、「忠次」は分家の「忠吉」のことだろう。世代的な飛躍もありそうだが、少なくとも本家とそれに属する染物屋、分家が同時に存在していたことがわかった。
三町目で染物屋といえば、「寅吉」。知人の祖父だ。染物には水が欠かせない。なぜ三町目のそこで、そして分家も四町目で――となるが、裏手にはまだ武家屋敷と町人屋敷とを分ける掘割(今の飲み屋街・田町でいえば「紅小路」より北側の部分)が残っていた。そのことが関係していたにちがいない。
まだまだ精査しないといけないが、とりあえず十一屋が3軒あったということで、これまでの“誤読”を超えることはできた。
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