2018年2月20日火曜日

112年前の大火で引っ越した一家

 2月18日は明治39(1906)年におきた「平大火」の日。カレンダージャーナリズムの癖が出て、その日にブログで取り上げた。
 たまたま同日、常磐湯本町の知人から電話がかかってきた。夕方、わが家で会った。祖父が平・三町目で紺屋(染物業)を営んでいて、被災した。「仲間と劇場(平座)をつくったばっかりで、燃えてしまった。それで土地を売って湯本に引っ越して来た」という。「きょうが大火の日ですよ」「あららら」
 
 1週間前のブログに書いた「『十一屋』は3軒あった」うちの1軒の子孫だ。師走に知人から、家に残っている古い写真と戸籍関係の資料を借りて、あれこれ調べているうちに、三町目に「十一屋」、その向かいに「染物十一屋」、四町目に「染物のちうどん十一屋」があることがわかった。三町目の「染物十一屋」が祖父の家だった。

『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)になにか載っているかもしれない――。きのう(2月19日)当たったら、平座の記述があった。口絵に外観=写真・上=と、開場記念興行広告=写真・下=も載っていた。
「明治35年、川隅豊吉、荒木忠光、加納五郎等が東北一の劇場の創設を念願し、(略)東京新富座をモデルとして平座の新築を始める。一時中断したのち、38年9月、日露戦役の戦勝記念にと平駅前(略)に化粧部屋など27、回り舞台8間半という演劇の殿堂が完成した」。ところが、開業わずか5カ月で東北一の殿堂が灰燼(かいじん)に帰した。それで、負債を抱えこんでしまったようだ。

 加納五郎は、片寄平蔵とともにいわきの石炭業を興した加納作次郎の養子・作平の子だ。知人の先祖とは親戚筋にあたるというから、五郎から誘われたのかもしれない。

 大災害によって住んでいたところを離れ、家業を替えざるを得なくなる。生活が一気に暗転するという点では、暴風に吹き飛ばされたようなものだ。一家は焼け出されたうえに負債を抱え、土地を売って湯本へ引っ越し、祖母方の親戚などの支援もあって印刷業を始めた。先祖の墓は平にある。

 この100年余の間には関東大震災があり、アジア・太平洋戦争があった。阪神・淡路大震災も、東日本大震災もおきた。知人の家のように変転を余儀なくされた個=庶民の歴史の積み重ねの上に今がある――そのことをあらためて思った。

0 件のコメント: