2018年12月13日木曜日

蒸しかまどと近代考古学

今年(2018年)7月19日付の拙ブログに「『平町特産』の蒸しかまど」のことを書いた。きょう(12月13日)はその続編、“古新聞シリーズ”10だ。
 戦前、いわき地方で発行された日刊紙のひとつに「磐城新聞」がある。いわき市立図書館がほかの新聞と併せて電子データ化したので、必要なときには図書館のホームページを開いて読む。しかし、いつかは現物を手にしたいものだ、と思っていたら――。

 日曜日(12月9日)午後遅く、若い仲間から連絡が入って、某所に「瀬戸物がいっぱいある」という。古物商でもあるカミサンが反応した。しかたない、アッシー君になって出かけた。瀬戸物組とは別に、ほこりの舞う倉庫で書籍類を眺めているうちに、昭和13(1938)年の磐城新聞が目に留まった。今の朝刊と同じブランケット版で、ペラ1枚2ページ(タブロイド判でいうと4ページ分)だ=写真上。
1月26日付~2月3日付の8部(1月31日付は休刊日のために、ない)を借りてきた。なかに「石山式 石綿ムシカマド」の広告(1月27日付)があった。当時、いわきを代表する問屋、釜屋商店が写真付きで蒸しかまどを宣伝していた=写真中。

ちょうど1カ月前、いわき地域学會の仲間から、「考古学ジャーナル」という雑誌(今年10月号)の抜き刷り=写真下=をもらった。「地域史のなかの近代考古学――いわき市の事例から」というタイトルで、「暮らしの諸相」のなかで蒸しかまどを取り上げていた。末尾の参考文献のひとつに拙ブログの「『平町特産』の蒸しかまど」が載っている。ブログを文献として扱ってくれたことがありがたかった。
 蒸しかまどは昭和初期の新しい炊事具。「東北地方南部では土ガマも利用された。通称『蒸しガマ』『蒸しかまど』と呼ばれるもので、筒形の土製容器の中に焜炉(こんろ)を装着してアルミ鍋で米を炊いた。燃料は煙の出にくい木炭を使用したが、籾殻(もみがら)を利用する場合もあった」

 そのあとにこう続く。「石城郡平町(いわき市平)で昭和前期に生産されたものである。簡単に移動できること、煙が出ないこと、飯が美味しく炊けることなどから、かまどを持たない住宅や市街地の料理屋などで重宝され昭和30年代頃まで使用された」

 阿武隈高地のわが実家でも、高度経済成長期に入って電気炊飯器が登場するまでは蒸し釜でご飯を炊いた。子どもが火の番をした。容器はアルミ鍋ではなくて羽釜だった。10年余り前、カミサンの実家にある物置を解体したときにも、以前使っていたという蒸し釜が出てきた。今、それは夏井川渓谷の隠居にある。使おうと思えば使える。

古新聞から「近代考古学」に話が飛んだ。近代考古学は、一般にはあまりなじみがない。が、考古学に近代が付くくらいに生活の様式・道具などが劇的に変化した、それらがうずもれ、忘れ去られつつある、ということなのだろう。ちょっと前までの事象・事物でさえ、民俗学から考古学の対象になる――という解釈でいいのか、仲間に会ったら聴いてみよう。

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