2018年12月20日木曜日

谷間のイイギリの木

 夏井川渓谷の木々は、カエデも含めてすっかり葉を落とした。常緑のモミや赤松、アセビを除いて、灰色の冬の装いが整いつつある。
そのなかで、籠場の滝の近く、県道小野四倉線沿いに真っ赤な実を垂らした木がある=写真。イイギリだ。20年以上この木のそばを通っているが、赤い実に気づいたのは初めてだ。

近くにマンサクがある。早春、黄色い花をつける。同じように、ハンノキも枝から赤紫色の花穂を垂らす。これらの木は路上を覆うように枝を広げている。運転していれば自然に目に入るので、渓谷の隠居へ通いはじめたころから知っていた。イイギリはややわきにあって、背が高い。それで気づかなかったのだろう。

燃え上がる赤の絢爛から白骨のような殺風景へ――。一本一本の木の肌や枝ぶりがよくわかる。なによりいっさいを振り落として深い眠りに入り、冬をやりすごす。この時期になると、田村隆一の「木」という短詩を思い出す。
 
 木は黙っているから好きだ
 木は歩いたり走ったりしないから好きだ
 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
 
 ほんとうにそうか
 ほんとうにそうなのか
 
 見る人が見たら
 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
 木は歩いているのだ 空にむかって
 木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
 木はたしかにわめかないが
 木は愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
 枝にとまるはずがない
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
 空にかえすはずがない
 
 若木
 老樹
 
 ひとつとして同じ木がない
 ひとつとして同じ星の光りのなかで
 目ざめている木はない
 
 木
 ぼくはきみのことが大好きだ

 黙っている? 歩かない、走らない? 愛とか正義とかわめかない? 木に対する“常識”に、詩人は疑問を投げかける。詩人は「非まじめ」だ。「まじめ」も「不まじめ」も超えた「非まじめ」とは、この場合、前例にとらわれず、新たな発想で自由に表現する、ということだ。「見る人が見たら」以下のことばがそれを示す。今まで考えもしなかった木の本質・役割を提示した。なるほどな、とつい納得する。

 さて渓谷に入って隠居へ行くまでに、もう1本、イイギリの木がある。10年前の真冬に隠居から街へ帰る途中、渓谷を抜けるあたり(小川町・高崎)でブドウのように真っ赤な房状の実をいっぱいつけている大木が目に入った。それが、イイギリと知った最初だ。ほかにも生えているのだろうが、県道を車で走っていて目につくのはこの2本だけだ。

モノクロの山の強烈な赤い点々。イイギリの実は、味がイマイチらしい。で、あえて冬まで赤みを保ち、鳥に種を運んでもらう戦略をとった? それが、イイギリの愛?

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