ここ何年か、いわき市立図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開いて、昔の新聞を読んでいる。それで、「いわきの新聞史」の骨格があらかた見えてきた。
いわき地方最初の商業新聞は、明治40(1907)年5月に創刊された「いはき」だ=写真。発行人は平の新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。クリスチャンで、創刊2号には遊郭設置反対論が載る。体制が整った時点では月3回の旬刊紙だった。電子化されたのは創刊号から翌41年4月11日付・23号までだが、欠号・欠面もある。
礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称された。昭和8(1933)年6月25日、63歳で急逝すると、各紙・誌が死亡記事を載せて追悼した。
そのひとつ、月刊「ジャーナリズム」7月号を要約すると――。氏は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。
礼次郎が発行した「いはき」や掲載広告について、拙欄で書いたことがある。今回は「虚報」問題を――。
明治41年1月25日付の<東西南北>欄に、「去(さる)十五日発行(実際には1月9日付発行の前号)」の同紙に掲載した「嫁の浮気の記事」のすべてを取り消す、という記事が載った。
嫁の浮気が記事になる時代だったのかという驚き以上に、人間の悪意・ねたみ・そねみは、サルの時代から変わらないという思いも抱いた。メディアはだます、メディアはだまされる――今もないとはいえない危うい一面だ。
ここに書くのもはばかられるほどに、“悪行”を記して「どこ迄(まで)不貞腐れの女にや」と、記者はため息でもつくように筆をおく。ところが、すぐ抗議を受けたらしい。「記事は精探の結果或者の中傷に出(い)でたるものにて事実無根なる事判明したれば該記事は全部茲(ここ)に取消す」。まんまと乗せられた。お粗末といえばお粗末だが、いわきの新聞は出発点からして「虚報」と無縁ではなかった。
背景には「貞女両夫に見(まみ)えず」式の良妻賢母、男尊女卑思想があった。江戸時代の瓦版も心中のほかに妖怪、奇形など、あることないことを伝えたが、その根っこにあるのは、「他人の不幸は蜜の味」という人間の潜在意識だろう。
とひとまず終わって、これはおまけ――。取り消し記事のすぐ前にこんな短記事があった。「平町字材木町○○○○○(実名)氏の長男なる力士平の石は今回十両下四枚目に昇進したるを以て○○○氏はホクホク喜び逢ふ人毎に吹聴し居(お)るとはめでたし」。いわき出身の力士がいた。ネットでチェックしたら「平ノ石」で、最高位は前頭4枚目だった。少し調べてみようかな。
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