いわき総合図書館の〈スポーツ〉コーナーで「相撲」の棚を眺める。『大相撲人物大事典』(ベースボール・マガジン社)があった。大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き
私の履歴書』(日本経済新聞社)も目に入った。大事典は「貸出禁」なので平ノ石(ひらのいし)辰治郎(1880~1925年)の項をコピー=写真=し、大鵬の本を借りた。
大事典によると、平ノ石はいわき市平字材木町出身で、明治33(1900)年一月場所に初土俵を踏む。十両に昇進したのは明治41年五月場所、初入幕は同44年一月場所。幕内成績は22勝24敗8分1預35休。前頭四枚目が最高位で、大正6年一月場所を最後に引退する。
身長167センチ、体重94キロと、力士としては小兵だった。得意手は右四つからの寄り、下手投げ。とったりなどの奇襲技も見せた。似た体形の舞の海は「平成の牛若丸」と呼ばれた。「明治の牛若丸」だったか。趣味は裁判傍聴。法律の解釈に長じていた。大がつく酒豪だった、ともある。
「分」や「預」は、今はない。何を意味するのか。検索して分かったのは、「分」は引き分け、「預」も引き分けの一種。両力士が疲れてこれ以上勝負をつけられないときに引き分けとなり、物言いがついたきわどい相撲も、行司か審判委員預かりとして、あえて白黒をつけないことがあった。
当時は一場所10日制で、1月と5月の年2場所だけ。「一年を二十日で暮らすいい男」の世界だったわけだ。それで裁判傍聴もできたのだろう。
大鵬は北緯50度の国境の町(南樺太の最北部)・敷香(しすか=ポロナイスク)で生まれ、5歳のときに終戦・引き揚げを経験している。8月初旬にサハリンを旅したこともあって、いつかは大鵬関係の本を読んでみたいと思っていた。『私の履歴書』は日経に連載された。文体からして大鵬から聴いた話を記者がまとめたものだろう。樺太での記憶、白系ロシア人の父親のこと、終戦時の混乱、決死の引き揚げ……。幼年期をよく生き延びたものだと思う。
「栃若」から「柏鵬」へ、主役が交代するころ、茶の間に入ってきたテレビで大相撲を観戦した。小学校高学年から中学生のころだった。子どもが好きなものとして「巨人、大鵬」は当たっていたが、「卵焼き」は、小学生のころはめった口にしなかった。弁当(給食がなかったので)の定番になるのは中学校に入ってからだ。
栃若と同時代の福島県出身力士にもろ差しの信夫山と豪快な投げの時津山がいた。少し遅れて常錦も現れた。時津山は東京生まれだが、いわき市出身となっている。14市町村が合併していわき市になる前の昭和30年代後半、平市にできた学校に入った。時津山はとっくに引退していたが、街の食堂に写真が飾られていたのを覚えている。
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さて、きょう(9月24日)はこれから買い物をして夏井川渓谷の隠居へ出かける。平市の学校に入った仲間が集まり、一泊のミニ同級会を開く。というわけで、あすのブログは休みます。
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