昭和30(1955)年前後の「昭和の大合併」のあとに、日本で最大の広域都市「いわき市」が誕生した。去年(2016年)10月1日で満50年を迎えた。およそ10年前の「平成の大合併」では、いわき市を超える超広域都市がいくつもできた。いわき市がモデルケースになったと、私はひそかに思っている。
今でこそ「いわき市は多様性に富んだまち」という認識が一般的だが、合併から20年ほどは「旧市町村の垣根を取り払って一体化を」が、市議会やメディアの主要な論点だった。市制施行15年を記念してつくられた「いわきおどり」はその典型だろう。企業や団体、若い世代が参加するイベントに成長したから、一体感の醸成には貢献した。
「いわきは多様性に富んだまち」は、「広すぎて一体化はムリ、ならば地域の個性を生かせ」という認識からきている。多様性を裏付ける根拠のひとつとして、市民サイドから「いわきは流域の連合体」(やがて市長になった岩城光英氏が「いわき合衆市」=交流ネットワーク都市の考え)を提示する。
バブル経済がはじける前のこと。いわきの平地の川の上流にゴルフ場や処分場建設計画が明らかになる。反対運動が展開される。そのなかで、「行政区域」ではなく、「流域」(水環境)で地域をとらえる視点が生まれた。3・11に伴う原発事故にも、風だけでなく水(川)の視点が必要だ。
浜通りはどこもそうだが、阿武隈高地が分水嶺になって川が一気に太平洋=写真=に流れ下る。川内や葛尾、飯舘を除けば、それぞれの自治体に山・平地・海がある。いわきは夏井川、藤原川、鮫川、プラス北の大久川の4流域連合体。浜通りの各自治体にも中心となる川がある。浜通りは、いわば“東阿武隈流域連合体”だ。
なぜ「流域論」をもちだしたかというと、いわきを中心にしたSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のなかで、「浜通り合衆国」という文字が目に入ったからだ。いわき市長は年頭会見で「連携中枢都市圏の形成を視野に、検討を進める」と述べた。浜通りの連携・共創が行政の課題になってきた。市民サイドでも若い人たちを中心に、連携・共創を考える機運が生まれてきたのだろう。
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