幕末の磐城平城下に「十一屋」という旅宿があった。さむらいの「士」を分解すると、「十一」になる。若い人から教えられて、なるほどと思った。武士が脱サラして商売を始めたので、そう名付けたのかもしれない。
新島襄、21歳。乗船した帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(いわき市)に寄港する。襄は閼伽井嶽登山を試みたが、「烈風雷雨」で断念し、磐城平城下の十一屋に泊まった。函館から密航してアメリカへ留学するのはそのあと。
不破俊輔・福島宜慶共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター)にも十一屋が出てくる。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」
愚庵は正岡子規に影響を与えた明治の歌僧。正敏は愚庵の竹馬の友で、一時は北海道でサケ漁業経営者として成功した。ともに元磐城平藩士だ。愚庵に「江正敏君伝」がある。
明治40(1907)年に、いわきで初めて発行された民間新聞「いはき」に「十一屋」の広告が載っている。「煙草元売捌/洋小間物商/清
平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とある。「清」は、実際には輪っかの丸に清だ。
大正に入ると、詩人山村暮鳥が十一屋に出入りするようになる。十一屋の大番頭さんと昵懇(じっこん)の間柄だった。店の前の路上で種物売りをしていた好間・川中子(かわなご)の「猪狩ばあさん」をモチーフにした詩「穀物の種子」もある。
以上は幕末~大正期の十一屋のおさらい。その後、十一屋の移った場所がわかる地図「大・平町職業要覧明細図」(昭和11年製作)を偶然見た。明細図には東西に延びるメーンストリートの本町通りを中心に、平町の店舗・住宅が名入りで描かれている。
いわき地域学會主催の第3回いわき学検定1次試験が10月7日、2次試験がきのう(10月28日)、市生涯学習プラザで行われた。
同プラザはティーワンビル4、5階に入居している。4階エレベーターホールと隣のロビーにかけて、壁面を利用して平・本町通りの拡大地図(大・平町職業要覧明細図)と写真パネルが飾られている。いわき市制施行50周年記念と銘打ってあるから、去年(2016年)展示されたのだろう。そこに、その後の十一屋があった。三町目から四町目に移っていた=写真。
あとで明細図とグーグルアースで通りの今昔を比べる。通りの南側には丸市屋、宍戸屋、関内薬局、丸伊酒店といった店がそのまま残っている。北側は、マルトモ書店が消え、ホテルが建つなどだいぶ様変わりした。十一屋は丸伊酒店の向かい側にあった。
同じように十一屋に注目している仲間が教えてくれた。四町目に移ってからは、うどんとそばで有名だった。要は食堂だ。「平へ行ったら、十一屋のそばを食べる」というくらいに知られていたらしい。だからどうなんだといわれそうだが、十一屋には歴史の落ち葉が積もっている。その後の十一屋の場所がわかっただけでも大収穫だった。
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