「うえいぶ」は、いわき地域学會が発行母体となって昭和63(1988)年6月、創刊された。途中から「うえいぶの会」に引き継がれるが、どちらも同学會初代代表幹事、故里見庫男さんが牽引役になった。里見さんは古滝屋の先代社長。里見さんへの報告も兼ねて、古滝屋で最後の会合を持った。
創刊号から50号までが会場に展示された=写真。年2回発行で20年、年1回発行に切り替えて9年、合わせて29年のうち最後の9年間を編集担当としてかかわった。
最終号を出してから1年半後の解散式になったのは、購読・広告代金の回収・精算があったからだ。結果的には、赤字見通しから10万円ほどの黒字決算になり、剰余金は最初の発行母体・地域学會に寄付されることになった。
編集経験者の鈴木英司さん(市職員からのちに副市長)が30号発行を記念して、「文化福島」第380号(福島県文化センター、2003年)に寄稿した文章のコピーが本人から配られた。
「『うえいぶ』の目標は、それは課題でもあるのだが、如何(いか)に多くの人々に、その人その人の持っている『いわき』への熱い思いを文章といった表現手法で語って貰えるかということにある。そしてそのことが実現すれば、その時に、いわきの文化は、恰かも波紋が広がるように少しずつ少しずつではあっても、広まっていくのではないか」
平成21(2009)年4月、里見さんが68歳で亡くなり、追悼号を出す過程でわかったことがある。
なぜ里見さんが雑誌発行にこだわったか。大正時代の幕が開けると同時に、詩人山村暮鳥がいわき(旧平町)にやって来る。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。文学の伝道者だった。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、吉野せいらが育った。
その伝統を里見さんは大事にした。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」(里見著『地域の時代へ』2000年刊所収「山村暮鳥と東北」)
その伝統を里見さんは大事にした。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」(里見著『地域の時代へ』2000年刊所収「山村暮鳥と東北」)
解散式では、それぞれが奇しくも里見さんとの出会いや、里見さんから与えられた課題・役割について、「ひとこと」コーナーのなかで開陳した。ネットワーカーである里見さんのおかげで、今はそれぞれが自律的につながり、それぞれが自分のネットワークを形成している。
雑誌名が「うえいぶ」と決まるまでには、「パッション」とか「だっぺ」とかが議論されたという話も披露されて、わいた。
「波(うえいぶ)は、眩暈する程の永劫性と、人為の及ぶ術のないエネルギーをもって、岸に打ち寄せ、わたくしたちに多くのものをもたらす」(鈴木)。平成23(2011年)には実際に大津波に襲われた。それでも、未来へと若い人たちにいわきの文化の波をつないでいくのが残された仕事のひとつ、という思いを新たにした。
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