今年(2018年)はたまたま中央公民館から月に1回、8月を除く5~9月まで計4回の市民講座を頼まれた。吉野せいの短編集『洟をたらした神』(中公文庫)をテキストに、作品に出てくる語句を注釈しながら横道にそれ、文学を越境してまた戻ってくる、といったやり方で話をした。同時に、8月後半から1カ月ほどは、ひたすら吉野せい賞の応募作品を読み続けた。
選考委員になって10年。『洟をたらした神』の注釈づくりを始めて数年。この秋は市民講座のこともあって、脳内がせい賞の応募作品とせいの作品で満たされた。せいの命日の11月4日・日曜日、草野心平記念文学館で表彰式が行われる。そこで総評と選評を述べれば、今年の選考委員としての役目が終わる。
ところで、若いせいの思想形成に大きな影響を与えた人に、鹿島村(現いわき市鹿島町)の八代義定(1889~1956年)がいる。大正時代、牧師として磐城平に赴任した詩人山村暮鳥の理解者・協力者で、考古・歴史研究家、旧鹿島村長としても知られる。昭和27(1952)年には第1回福島県文化功労賞を受賞した。仕事の延長でいわきの近代詩史を調べているうちに、義定に出会った。
義定とせいの関係は次世代に引き継がれた。『洟をたらした神』が劇化され、せいの死をはさんで平と小名浜で上演された。小名浜での益金が市に寄付され、吉野せい賞が創設された。今年亡くなった義定の次男、八代彰之さんが小名浜での公演の中心になった。
義定の長女は、福島高専の1年先輩の母親。小名浜の自宅へ飲みに行ったり、泊まったりしているうちに、義定の子どもや、孫である先輩のいとこたちとも知り合いになった。今、せいの作品注釈をライフワークにし、吉野せい賞の選考委員を務めているのも、義定とせいの関係の延長線上にいたからではないか、と思うことがある。その不思議を。
今年は初めて、秋の彼岸に好間の龍雲寺へ足を延ばし、吉野家の墓に線香を手向けた。墓地=写真=の先は、夫とせいが開墾生活に苦闘した菊竹山。北西に500メートルほど離れたところに吉野家がある。墓参りをしてわかった。「『洟をたらした神』の世界」がこうして、また少し広がった。知る楽しみも、ともに。
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