田畑が宅地に替わる状況は東日本大震災前からあった。震災がそれを加速した。拙ブログから抜粋して変化を追ってみる。
震災から11カ月がたった2012年2月――。双葉郡から避難して来た人が増えた。わが家(米屋)にそういう人が来る。散歩コース沿いにある戸建ての空き住宅やアパートがふさがった。
旧国道沿いの駐車場で工事が始まったと思ったら、たちまちアパートが建った。各部屋のガラス窓にはすべて「予約済」のステッカーが張られてある。道路向かいの家並みの裏、農業排水用の小川をはさんだ北側に水田がある。一部が埋め立てられ、アパート2棟の建築が行われている。こちらも「満室御礼」の看板が立っていた。
被災家屋の解体と建て替え、そしてアパートの新築と、いわきでは宅建業界が大忙し。住宅に関して言えば、解体と建設が同時進行的に行われている。
それからさらに半年後の2012年9月――。新旧国道の間に家が立ち並ぶ。家並みにはさまれて畑が残る。その一部、といっても小学校の校庭の半分くらいはある、そこが2階建てのアパート4棟と駐車場、入居者の家庭菜園になるという。津波被災者、あるいは原発避難者のためのアパートではなく、単に若いファミリー向けが3棟、独身者向けが1棟ということだった。
いわき市は市街化区域内に多くの未利用地を抱えている。わが家の裏手の畑がそれに当たる。家並みに囲まれた周辺の田畑も一部、宅地化された。震災後、そうしたケースが散見されるようになった。都市計画上は歓迎すべきことなのだろうが、地域との“共生”という点では悩ましさが増す。
さらに震災から5年後の2016年2月――。時間の経過とともに、小川(農業排水用)の北側の田んぼが宅地に変わり、アパートや戸建て住宅ができた。2月のある日、義伯父の家の裏からクレーン車の長い腕が伸びていた。家を建てているところだった。田んぼがまた消えた。
中神谷に移り住んだのはもう37年前。そのころ、道路のすぐ向かいにも田んぼが残っていた。初夏は夜になると、カエルの大合唱が聞こえた。やがて田んぼは埋め立てられ、道路向かいは駐車場に、その奥は宅地になった。そこに義伯父が家を建てて首都圏から移住した。
田んぼは何枚残っているのだろう。家から半径100メートルの範囲内を、散歩を兼ねて見て回った。37年前には田んぼが十数枚、いやもっとあったか。畑も小学校の校庭分くらいは残っていた。今は、畑はアパートができて半分に減り、田んぼは3枚あるだけだ。田畑に囲まれて家々が立っていたのが、家々に囲まれて田んぼや畑がある。ずいぶん様変わりした。
さて、震災から8年目の今年(2018年)、耳に入ってくる話といえば――。新築アパートなのに、もう空き部屋がある。建設業界の震災バブルは終わった。全般的に受注が減っている。建設業界は、震災前は青息吐息だった。復興需要で「いきぼえ」(いわき語で「勢い」)が上がった。それにもブレーキがかかってきた、ということだろう。
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