2018年11月9日金曜日

石に刻む怖さ

 車でいわき市南部へ出かけた帰り、あるところで信号が赤になった。そばの石材置場にたまたま目をやると、「水徳六訓」と題する碑があった=写真。水鳥・川・海・雨だれ……。「水」写真コレクターなので、思わずパチリとやって、データをパソコンに取り込んだ。
「あらゆる生物に生命力を与えるものは水なり」「常に自己の進路を求めて止(や)まざるは水なり」などと、水の特性にからむ文章が彫られていた。

その会社の社訓だろうか? 社長の人生訓だろうか? 硬いものを扱っている商売だが、企業としては、あるいは個人としては水のように融通無碍な生き方をしたい――そんな思いが込められている? ネットで調べたら、原作者として大物右翼(故人)の名前が出てきた。

文章のなかに1カ所、直したい文字(助詞)があった。といっても石だ、消しゴムで消して書き直せるようなものではない。

 石に文章を刻む怖さを、先日、知った。頼まれて撰文原案を直し、「あとはそちらでどうぞ」と言って渡した。それが甘かった。文法的な間違いはない。誤字があるわけでもない。あとで付け加えられた部分だけ、文章のリズムが違っていた。

私は舌頭で音読しながら文章のリズムをととのえる。それが崩れた。たとえれば、同じペースで歩いていたのが、そこだけ急につかえて足踏みさせられたような感じ。碑文を読んだ人は、そこまでは気づかないかもしれない。が、文章づくりにかかわった人間としては、詰めの甘さに落ち込んだ。

 記者をやっていたので、誤字・誤植があると穴の中に入りたくなる。テレビ・ラジオと違って、紙媒体は紙がある限り、誤字・誤植も残る。石に刻まれたものは紙より恐ろしい。100年、200年と人の目にさらされ続ける。文章のリズムもそうだろう。

石に刻む文章を扱っている、という自覚が足りなかった。撰文を引き受けた以上は最後の最後まで責任を負うべきだった。同じリズムで通すべきだった。そうすれば、より完成度が上がり、後味もよかったのに。写真に撮った碑文を読むたびに脂汗がにじむ。

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