満直は若いとき、妻子を連れて北海道へ渡り、開拓農民として苦闘の日々を送った。常設展示室と企画展示室の奥、アートパフォーミングスペース入り口で、今年6月、学芸員が撮影した釧路国阿寒郡舌辛村二十五度線(現釧路市阿寒町紀ノ丘地内)の「猪狩満直開墾地跡」の動画がエンドレスで流れている。
以前は草刈りをしてくれる人がいたらしい。生えている木々は少なく若い。画面やや右奥にシラカバが1本、左手にはカシワの木が何本か。ササが覆う林床にはエゾブキが繁殖している。
満直の最初の妻は、過酷な暮らしのなかで病死する。2人の間には3人の子があった(1人は1歳ちょっとで亡くなる)。二番目の妻は心身が強かったのだろう、6人の子をなした(1人は7カ月で彼岸へ渡る)。彼が40歳でこの世を去るとき、4男3女が残された。
三女S子さん(89)と四女で末っ子のM代さん(82)を知っている。いわき地域学會の初代代表幹事、故里見庫男さんが中心になって満直の顕彰活動を続け、全集1巻の発刊、北海道といわきでの詩碑建立などを実現した。“里見旋風”に巻き込まれて冊子づくりなどに関係した。その過程で二人と親しく言葉を交わすようになった。
おととい、企画展会場でS子さんとM代さんに会った。連絡し合ってきたのかと思ったら、そうではなかった。小名浜に住むS子さんは友達と、平にいるM代さんは息子の嫁さんと孫の3人でやって来た。M代さんとは動画=写真下=を見ながら話した。
M代さんは満直の北海道時代を知らない。父親が亡くなったとき、M代さんは1歳5カ月だった。父親の記憶もないに等しい。父親の症状が悪化し、身体の衰弱が進んでいたころ、M代さん自身、「死んでもおかしくない状態で生まれてきた」。遺品も「文学館に寄贈されたからない」という。
そのとき、脳内に電気が走った。<そうか、そうだったのか。S子さんも、M代さんも、「父親と父親の形見に会いに来た」のだ>。私らは詩人猪狩満直と遺品を見に来たのだが、彼女たちは違っていた。
それから、「猪狩満直開墾地跡」の動画に映っている草木の話になった。「ここにシラカバらしいものが1本ある。これはカシワの葉ではないか。シラカバが生えるような厳しい環境のところで暮らしたんだねぇ」と私。すると、M代さんがヤチダモの話をした。
あとで、『猪狩満直全集』に当たる。詩集『移住民』のなかに、伐り出した材木を馬橇(ばそり)で運ぶ詩がある。「ヤチダモの十尺/十尺の二〇/この材は何に使ふんだろ/そんなことは考へなくったっていい/ただ橇にのっけて引っぱればいい」。ヤチダモを20本も運ばないといけない、そんな気持ちを詠んだ詩だろう。ヤチダモは家具や装飾材に使われた。バットにも。利用価値の高い木材だった。
「開墾仲間」と題した短編小説にこんなくだりがある。「七月の太陽は、北国の奥地をも酷熱の光で焼くことを忘れなかった。/白樺はそのみどりを、白雲の流れるコバルトの空へ噴水のやうに撒(ま)き散らした。畑の中では大豆小豆が青々と繁り、そのこわきの楢の大木では、りーじじじじじと、蝦夷蝉が鳴いた」
動画のなかで盛んに鳴いている蝉がいた。「エゾゼミではないか」。そうM代さんに告げたが、「開墾仲間」を読んで確信した。チラシの裏面にその開墾地跡の写真が使われている。ヤチダモらしい木も写っていた。湿っぽい土地でもあったらしい。開墾に血と汗を流さざるをえない環境だったことがうかがえる。
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