次郎柿は甘柿だ。今年(2018年)は、実が鈴なりになった。近所の公民館で放射線量を測ったら、NDだった。
「柿の実をもぎってよ」。カミサンからいわれたが、なかなか腰があがらない。土曜日(11月24日)、業を煮やしたのか、私に米屋の店番を頼んで、近所の家から「高ばさみ」を借りて柿の実をもぎり始めた。いつの間にか、高ばさみを貸してくれた若いご夫婦、その向かいの家の88歳のおじいさんも手伝ってくれた=写真上。
共同作業は、それだけで終わらなかった。翌週水曜日の28日。今度はケヤキの若木を伐採した。柿の実収穫のときと同じおじいさんと奥さんが手伝ってくれた。また店番をした。あとでカミサンが撮った写真を見る。若木といえども、切って倒すと庭を覆うほどの大きさだ=写真下。それをまた細断して、「燃やすごみ」に束ねてくれた。
話は変わる。地域社会のトラブルの例として、ごみ出し問題のほかに、こんな話を聞く。猫が好きな人の家と嫌いな人の家が隣り合っている。飼い猫、あるいはえさだけやる野良猫は、家と家の間を勝手に越境する。それで摩擦がおきる。
隣家の庭の木をうっとうしいと思う人がいる。時間的に日光がさえぎられる。カラスが巣をかける。落ち葉が降ってくる。木や動物による“不都合”にいらだつ。近隣関係は、ある意味ではそれぞれの価値観による「主張」と「我慢」の綱引きだ。もちろん、ベースに互助の精神があってのことではあるが。
さて、伐採したケヤキの幹は、若木とはいえ結構な太さだ。たまたま受注の品を持ってきた本店の義弟がケヤキの伐採に気づき、幹は師走に行うもちづくりの燃料にするという。切って「捨てる神」もあれば、「拾う神」もある。これもプラスαの共同作業にはちがいない。
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