2024年10月18日金曜日

夜更けの訃報

                 
   夜更けの10時前、電話が鳴って目が覚めた。息子からだった。友人の名前を告げて、「今、亡くなった」という。

友人とは家族ぐるみのつきあいだった。子どもは子どもでつながり、友人の娘の親友と息子が一緒になった。それで連絡が入ったようだ。

庭先でのタケノコパーティー、ホタル狩り。その他もろもろの市民活動……。訃報に接して、友人との半世紀近い思い出が脳内をめぐった。

翌日、夫婦で弔問に行った。友人はこの世のしがらみから解き放たれたように、今までで一番といってもいい温顔だった。

晩になると、東の空に満月が現れた=写真。スーパームーンだという。思わず、黄泉路を行く友人の足元を照らしてほしい、そう祈らずにはいられなかった。

地域紙の記者になって初めてできた、取材先の知り合いの一人だった。その後、アフターファイブでの付き合いを重ね、次第にツーカーの間柄になった。

人づてに「入院している」と聞いたのは10月の初めだった。それから病状が急変したのだろう。10月16日夜9時前、息を引き取った。あと10日もたてば、喜寿の77歳だった。

「いわきフォーラム’90」というまちづくり支援団体に絞って書く。平成2(1990)年から定期的にミニミニリレー講演会を開いてきた。友人はその中心メンバーだった。

誰もが講師で聴講生――がモットーだった。声がかかって、私もこの組織に加わった。

いわきに住む東大名誉教授が憲法講話をしたり、農家のお年寄りがシベリア抑留体験の話をしたりした。

阪神・淡路大震災が起きたときには、私も講師を買って出た。「災害のあとに」と題して話した。7歳のときの大火事体験とその後の暮らしの変化を知ってほしかったのだった。

 講師は多士済々。震災前には佐藤栄佐久元福島県知事が「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」と題して話した。

 震災後には、元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 震災直後の3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。

 一般のニュースでは知りえない深い話に触れる、またとない機会だった。友人の人脈の広さ、講師やテーマを絞る確かさにはただただ敬服した。

 実は、私が現役のころ、コラムでミニミニリレー講演会に触れ、1000回を目指すくらいの覚悟でやってほしいと、過剰な期待をかけたことがある。

令和元(2019)年の夏、節目の500回を目前にして、古巣のいわき民報がミニミニリレー講演会を記事にした。

そのなかで友人が語っていた。1000回を目標にしているのは「いわき民報に言われた」からだと。

こちらのエールを受け止め、コロナ禍で中断を余儀なくされても、持続する意志は衰えなかった。実に得難い人だった。

0 件のコメント: