2024年10月12日土曜日

30年越しの宿題

                              
 図書館の新着図書コーナーにいわき関連図書として、明治大学博物館発行の『内藤家文書 御役人前録』(2022年)があった=写真。

 史料の翻刻で、解読に自信のない人間には縁遠い本なのだが、今回は瞬時に「昭和新山」「内藤家臣三松百助」の言葉が頭に浮かんだ。

 30年間まったく手つかずになっていた「三松百助」の調べが少し進むかもしれない。そんな思いがわいて漢字だらけの本を借りた。

平成6(1994)年秋、小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の北海道旅行に加わった。昭和新山も訪ねた。

そのときの記録の一部。――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。

 昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1943)年暮れから20年秋にかけての2年間だ。

当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」である。

「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で、三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)を買った。

明治維新後、正夫の祖父は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。

正夫は新山を守るために元麦畑を買い取る。三朗は大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと正夫と出会い、火山への思いを知って三松家と昭和新山を引き継いだ。

正夫の祖父は「三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡奉行、御用人」などを務めたと、『火山一代』にあった――。

それから23年後の平成29(2017)年11月、北海道・洞爺湖周辺を舞台にブラタモリが放送された。タモリは三朗を案内人に、昭和新山にも登った。

『いわき史料集成4』(1987年)に当たると、磐城平から延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」には8人の三松姓が載る。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない。

先祖を突き止めたいと思いながらも、調べはまったく進まなかった。そこへ現れた『御役人前録』である。役職と就任者が記されている。

磐城平藩時代の正夫の先祖はともかく、祖父の百助については手がかりが得られるに違いない。

そう思って名前を追い続けると、終わり近く、「御取次」の項に「弘化二巳正月十九日 三松百助」とあった。

幕末の弘化2(1845)年1月19日、百助は御取次役に就任した、ということなのだろう。

解説によると、内藤藩士は組内・中小姓組・組外・足軽以下に編成されていた。「前録」に収録されているのは、「組内」の上級藩士が就任する役職だという。

会社でいえば百助は幹部社員だったか。とりあえず一つだけでも手がかりが得られたことをよしとしよう。

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