2025年9月30日火曜日

新聞で脳活を

                                              
   カミサンが移動図書館から借りた本の中に、石川久『70歳からの脳が老けない新聞の読み方』(アスコム、2025年)があった=写真。

著者は脳神経外科医で、1万人以上の脳を診てきた経験から、新聞には脳活効果があるという。そのノウハウを紹介している。

新聞記者をしていた経験からいうのだが、認知症予防の視点から新聞を考えたことはなかった。

しかし、原稿用紙に記事を書く「新聞記者」が、キーボードを打つ「新聞打者」になってから、書くことをやめたら脳は退化する、という思いが消えない。

で、ブログは晩酌をやりながら下書きをして、翌朝、キーボードをたたいて仕上げる。下書きの素材はやはり、備忘録を兼ねた手書きのメモ(日記)である。前に、「スマホ脳」に絡めて次のようなことを書いた。

――私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。

人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。それを避けるために、意識して実践しているのがメモの手書きだ。

在宅ワークが基本なので、パソコンのわきにA4判のメモ用紙(新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面)を常備している。朝から夜寝るまで、見たこと・聞いたこと・感じたこと・考えたことをメモし続ける。

日常を記録することで、日常に埋もれているニュースを掘り起こすこともできる。一種の自己鍛錬として、これを10年以上続けている。

 書くことは肉体的な行為だ。書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってもよい――。

 とにかく、書くことが脳活になる。経験的にそう認識していたのだが、さらに新聞を読んで考えるだけでも脳活になる、という指摘にはおおいに勇気づけられた。

 たとえば、①記事に登場する人物の名前を探してどんな顔だったか思い浮かべる②興味のあるキーワードを探して読み込んでみる③声に出して読む④見出しを手がかりにイメージを膨らませる⑤一つの記事の中で一番画数の多い漢字を探す――。

 さらに、掲載写真を細かいところまで観察して模写してみる、広告を隅々まで読んで引かれたコピーを探す、もある。

 これらを実践することで脳活になる。具体的には、短期記憶力、集中力、基礎思考力、意欲、注意力がアップするという。

 パズルの脳活効果もバカにできないとか。パズルが解けると、脳からドーパミン(快楽ホルモン)が出る。ドーパミンはやる気を引き出す。

 なるほど、新聞に数独が載り、それをやり始めるとネットのナンプレにまで手が伸びるのは、快楽ホルモンのおかげだったか。

要は、好奇心。これを持続することで老化のスピードは抑えられるということなのだろう。

2025年9月29日月曜日

秋の衣食住に

                                
 秋の彼岸に合わせるように、夏から続いていた酷暑がひとまず去った。日が沈むと涼しくなり、夜が明けるとひんやりしている。

 若いときはそのくらいの寒暖の差は平気だったが、後期高齢者になった今は、鈍感ではいられない。風邪は万病のもと。用心、用心――となる。

タオルケット1枚だった寝具に、薄い夏用ふとんを掛けて、背中が冷えないようにする。上は下着の丸首シャツだけだったが、今は長そでのパジャマが加わった。

晴れた日中も室内にいると、半そでシャツでは腕が寒く感じるときがある。で、秋の彼岸の墓参りを機に、上着も長そでに替えた。

晩酌のおかずも変わった。冷製味噌スープが熱々の味噌汁に戻り、前夜の残り物(焼き肉など)も、冷製ではなくチンして食べる。チェイサー用のポットの水も氷なしになった。

つい先日まで、暑いときには一日に2本は食べていた「ガリガリ君」も、この何日かはごぶさただ。

暑さがちょっとぶり返した土曜日(9月27日)に小さいガリガリ君を食べたものの、あらためてまとめ買いすることは、今季はもうないだろう。

茶の間のガラス戸も、玄関の戸も、いや窓という窓は全開していたのが、庭が暗くなる時間に合わせて、早めに閉めるようになった。扇風機も止めている時間が長くなった。

昼間から家に入り込んでいた虫たちは、(戸閉めが早くなったためかどうかはわからないが)朝になると棚や畳の上で横たわっていることがある。

なんという蛾、なんという蝶なのか。翅の色や模様がおもしろくて、動かなくなった虫をながめてはネットで検索する。

それが彼岸のあと、蛾、トンボ、蝶と続いた。夏井川渓谷の隠居で回収した虫(たぶんゲジゲジ)のぬけ殻(小瓶に入っている)と合わせて、手元にある「標本」をパチリとやった=写真。

虫たちも短いいのち必死に生きて、たまたま庭の延長のような茶の間に飛び込んで来て、そこで息絶えた。

身元(種)が分かれば庭の草むらに返す。が、それがなかなか判明しない。二つの目玉のような「巴(ともえ)」紋のある蛾は、前にも現れたハグルマトモエかと思ったが、翅の形が違う。標本だから分かったのだが、裏面は鮮やかな赤橙色をしている。

蝶はいまのところお手上げ。トンボはナツアカネか、アキアカネかわからない。識別ポイントは胴体横の黒い帯らしいが、しろうとには同じに見える。

そして、酷暑から普通の暑さに戻った今、これからも要注意なのが蚊だ。庭ではヤブカが大敵だが、夕方になるとイエカが飛び回る。茶の間では朝起きたときから寝るときまで、いや24時間、蚊取り線香が欠かせない。

蚊のチクリがやむのは、近年では11月に入ってからだ。少なくともあと1カ月半は蚊取り線香の世話になる。そう覚悟していた方がよさそうだ。

2025年9月27日土曜日

海岸林がまた茶髪に

                               
 秋分の日は墓参りを兼ねてカミサンの実家を訪ねた。親せきの人が何人か焼香に来る。その応対をしているなかで新舞子海岸(平藤間)の松枯れが話題になった。

海からは遠い二ツ箭山(小川)のふもとに住むカミサンのいとこの話である。最近、海岸道路を通って驚いた。「なんだい、あれは。また松くい虫にやられたんでねぇべか」

私もびっくりしたばかりだった。秋分の日の2日前、日曜日に夏井川渓谷の隠居から泉ヶ丘、薄磯と巡って、四倉までカツオの刺し身を買いに海岸道路を利用した。

「なんだ、この『茶髪』は」。やはり異常な松枯れの連続に驚いた=写真(助手席からカミサンが撮影)。

 もう何十年も前になる。松くい虫にやられて海岸のクロマツが「茶髪」になった。被害の拡大を防ぐため、何年かヘリコプターで薬剤散布が行われた。やがて市民の間から反対運動が起き、ヘリによる防除は中止になる。

これが、記憶にある最初の松枯れだ。次は14年前、2011年3月11日に発生した東日本大震災による「塩害」でクロマツが枯れた。

巨大地震に伴い、東北の沿岸を中心に大津波が襲った。いわきでも豊間・薄磯を中心に甚大な被害が出た。薄磯の北方、沼ノ内~四倉のクロマツ林も波をかぶった。

 すると次第にマツが枯れ始め、あちこちで「茶髪」になった。植物の先生によると、津波の塩分を根から過剰に摂取したために、浸透圧によって脱水症状をおこしたのが原因らしい。

 枯れた松は伐採・切断され、見晴らしのよくなった跡地には松の苗木が植えられた。津波被害が甚大だった久之浜や薄磯、豊間などでは防災緑地が築かれ、やはり苗木が植えられた。

 地元では新舞子のクロマツ林は「道山林」と呼ばれている。由来は江戸時代初期、上総から磐城平に移った内藤の殿様(法名「道山」)が、海岸近くの田畑を守るために松を植えたことによる。

以後、歴代の領主・幕府代官が保護し、明治2年の版籍奉還後は国有林に編入された。

 震災から14年。クロマツの苗木も順調に生育し、一面若い緑に覆われるようになった矢先の「茶髪」である。

この海岸道路は2~3カ月にいっぺん、薄磯のカフェ「サーフィン」の行き帰りに利用している。

前回はそんなに違和感を持たなかったから、最近、急激に松枯れが進んだのではないか。

SNSにはやはり、海岸の松枯れを伝える写真が投稿されていた。それだけ衝撃的な変化だったに違いない。

夏井川渓谷でも松枯れ被害は後を絶たない。30年ほど前、アカマツの大木がやられ、いったん収まったと思ったら、東日本大震災の前後からまた若いアカマツに茶髪が見られるようになった。

新舞子の茶髪も若いクロマツが多い。原因は松くい虫だろうか。それとも、別の何か、だろうか。気になるところではある。

2025年9月26日金曜日

夫婦ユニット

                                  
   前にこんなことを書いた。仕事とは別に、アフターファイブは自分の好きな表現活動に使う。そういう市民が多いまちは楽しい。

文化とは本来、「暮らし方」のことだ。暮らしのなかに演劇があり、音楽がある。市民芸術のすそ野が広いまちに住んでいると心地良い――。

その延長での市民ミュージシャンの活動だ。フェイスブックで「孫」の母親が秋まつりのライブを告知していた。

いつもは女性3人組の「明星」として歌手活動をしているが、今回は夫婦ユニット「平星(へいじょう)」として出演するという。

「孫」の父親も男性2人組の「平凡ズ」としてライブ活動を続け、歌とギターの演奏を披露している。

ふだんはそれぞれ別個に活動しているわけだが、「夫婦共演」は私が知る限りでは初めてだ。野次馬的な興味がわいて、カミサンと聴きに行った。

いわき市平薄磯の海岸に駐車場とつながる形で多目的広場がある。ここで9月21日、「行ってみっぺよUSUISO3地区秋まつり2025」が開かれた。

 ライブではいわきの伝統芸能・じゃんがら念仏踊り、カラオケのど自慢が披露されたほか、市内で活動をしている市民ミュージシャンが歌と演奏を披露した。

「平星」の持ち時間は午後1時半からの30分。この日は日曜日で、夏井川渓谷の隠居で土いじりをする日でもある。泉ケ丘のギャラリーいわきで開かれている吉田重信展も見たい。

というわけで、隠居へは早朝に出かけ、ギャラリーには11時着、そのあとどこかで昼食、午後1時過ぎには薄磯へ。そんな段取りでヤマ(渓谷)~マチ(泉)~ハマ(海岸)を巡った。

薄磯に着いたら北から南へ、海岸に沿って強風が吹いている。楽譜が飛ばされる。テントがグラグラ揺れる。野外のステージは、天気には恵まれたがなかなかスリリングだ。

 夫婦ユニットは、妻が歌い、夫がエレキギターで伴奏するというスタイルで昭和の歌謡曲を披露した。

 なかでも圧巻だったのは、今は「伝説」となった女性歌手の代表曲を歌ったときだ。歌手をまねて顔にほくろ(黒くて丸いシート)を張り、さらに聴衆の間を巡って同じようにほくろを張っていくと、客席に笑いが起き、その笑いが波のように何度も高まり、広がった。

 聴き手も喜んで頬を出す。この一体感を生み出したのは、人を引き付ける話術と率直さだろう。

「孫」の母親は演奏グループの一員として「ダンサー」をやり、「俳優」としても舞台に立つ。それは見て承知していた。

「歌手」としては今回が初めてだった。いやあ、思っていた以上の声量と声質に感動した。本人いわく、夫婦ユニットは「夫婦(めおと)漫才ユニット」。確かにそういう面もあったな。

2025年9月25日木曜日

もう一つの光

                                            
   いわき市の現代美術家吉田重信さんは、太陽光を利用して展示空間そのものを作品化するインスタレーションで知られる。

その「光の作家」が9月28日まで、ギャラリーいわき(泉ケ丘)で個展「死光(しびかり)」を開いている=写真(案内はがき)。

 「死光」とは聞きなれない言葉だ。案内はがきに記された本人の言葉から、二つの意味が浮かび上がる。

 一つは古語。「死に際の立派なこと」などを意味する。もう一つは「ある種の細胞が死を迎える際に光を発する現象」をいうそうだ。

 生物学的な現象とはどういうものか。本人の弁に従って、ネットで調べるとあった。死につつある線虫に紫外線を当てると、死への過程で青い蛍光が放たれる。光は次第に強くなり、死の瞬間に最大化するという。

 「青い光」、それは太陽光とは違った「もう一つの光」である。吉田さんはそれも踏まえて「現存在のあり方」そのものを問い直すべきではないかという。

 そういう問題意識から生まれたはがき大のモノクロ写真が展示されている。キャプションには撮影場所と撮影年月日、そして時刻が書き加えられている。

たとえば、案内はがき。「夢殿『2021.10.31.13.08』」は、法隆寺の夢殿の屋根に飾られた「舎利瓶(しゃりびょう)」=炎に包まれた宝珠に太陽が重なった瞬間(2021年10月31日13時08分)をとらえている。

撮影場所は六角堂(茨城県)、南紀白浜、春日大社、建仁寺、足尾銅山、新潟市、三条大橋、いわき市など全国に及ぶ。

 なかでも中禅寺湖の二荒山神社の作品は、見た瞬間に「レイライン(光の道)」という言葉が思い浮かんだ。

前景に神木のある境内、石段の下、鳥居の手前に人間が2人、その向こうに中禅寺湖。そして、鳥居の真上には太陽。太陽と鳥居、人間とその影が、いわばレイラインで一直線に結ばれている。

鳥居からこちら側は「聖」の空間、向こうは「俗」の空間。逆光の中にそんな聖と俗の対比を見ることも可能だろう。

夏至や冬至、春分・秋分といった節目の日に太陽の光と結ばれる「聖地」がある。その構造を、地学的データやGPS(全地球測位システム)を利用して科学的に分析した話を聞いて以来、自然の中でレイラインを読む楽しみが増した。

 それを意識したのかと聞けば、そうではなかった。2人の人間がその位置に立つまで少し待っただけだという。

吉田さんと話しているうちに、彼が光を作品に取り入れるために使っている「道具」にも興味を覚えた。

インスタレーションには太陽光採光システムを利用し、映像作品にはレンズにプリズムを装着したビデオカメラも使われた。

そして、今回の「死光」はアイフォン(スマホ)で撮影した。デジカメを利用した古い作品も、もちろんある。

大きく拡大しても解像度がいいので、作品化が可能だそうだ。そこまできているのか。彼の話を聞いて、デジカメにとどまっている人間はただただ驚いた。

2025年9月24日水曜日

ヒガンバナは今年も遅かった

                                 
    春のソメイヨシノと渓谷のアカヤシオ、夏のヤマユリ、秋のキンモクセイ、冬のスイセン……。

わが生活圏(夏井川渓谷の隠居の周辺も含む)で、その年初めて開花したり、香りに気づいたりした日を記録している。

 夏鳥のツバメやホトトギス、冬鳥のコハクチョウやジョウビタキなどもそうだ。菌類を含む私的な生物季節観測である。

 秋は、キンモクセイ(隣家の物置の前にある)よりも、夏井川の堤防に群生するヒガンバナの開花が気になる。

例年より遅い・早い――は、ブログの記録とメモを続けて身に付いた感覚を基に判断する。

夏の天候と開花時期は連動している。今年(2025年)は開花がずれ込むはず、そうみていた通りになった。過去のブログ記事も参考にしている。それらを再構成して、今年の様子をみる。

いわきの平地のヒガンバナは、夏が天候不順の冷夏だと9月になるかならないうちに咲き出す。去年はその逆だった。

秋分の日と日曜日が重なった9月22日。渓谷の隠居へ行く途中、平・上平窪の田んぼ道でヒガンバナの花を見た。

8月だけでなく、9月も暑い日が続き、秋はいつくるのやら、という異常気象になった。

私がマチからの帰りによく利用する夏井川の堤防は、近くの農家の人が時々、土手の草を刈る。夏の終わりが近づくと野生化したニラの花が咲き、スルボが咲く。

9月に入るとヒガンバナが……。頭では時折、花の記憶がよみがえるのだが、去年はなかなか出合えなかった。

上平窪でヒガンバナの最初の花を見た翌々日、マチへ行った帰りに夏井川の堤防に出た。そのころになってやっと、緑に覆われていたところも、草が刈られたところも、赤い花が浮き出るように咲いていた。

今年は堤防で工事が行われており、日中、行き来ができるのは土・日曜と祝日だけだ。それに加えて秋になっても酷暑が収まらない。それで、堤防には赤い点々がなかなか現れなかった。

小川の草野心平記念文学館で会議があった9月18日、車に給油した足で草野から四倉の柳生街道へ抜け、時折、田んぼのあぜに目を凝らした。

仁井田川沿いの山田古湊付近でやっとひとかけら、赤い点々を見つけた。今年初めてのヒガンバナだった。それ以外、たとえば平窪でも、小川でも田んぼのあぜに赤色はなかった。

20日に内郷で国際交流イベントがあり、アッシー君を務めるのを利用して、「土曜休工」の堤防を行き来した。そこでやっと開花を確かめることができた=写真。

いよいよ秋である。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、秋の彼岸に入って急に涼しくなった。21日夜はこの秋初めてパジャマを着た。

ヒガンバナは文字通り、秋の彼岸にならないと咲かなくなった、なんてことになれば、やはり心配なのだが。

2025年9月22日月曜日

耕地整理中の田の草

                    
 わが家から夏井川渓谷の隠居までは車で30分余り。平の神谷~中塩~平窪は田んぼ道、そのあとは県道小野四倉線(途中、国道399号と重複)を利用する。

 渓谷は行くたびになにか「発見」がある。自然は絶えず流動している。その生成転移が面白くて通い続けている。

 同時に、そこまでの移動も変化に富んでいる。その中身もまた、自然の流動に起因するものがほとんどだ。

 一つは野鳥。田んぼにコサギやダイサギ、アオサギがいる。もう一つは稲穂。田んぼによって違いがある。

 5月の大型連休を境に、刈田が青田に変わり、夏に向かって生長する姿を見てきた。そして今は稲穂が垂れ、収穫期を迎えつつある。

先日の雨風で稲穂がなぎ倒された田がある。雨風に負けずにすっくと立って頭を垂れている田がある。雑草のない田と、雑草にまみれた田と。田んぼも一枚一枚表情が異なる。

雑草は稲穂より背が高い。ノビエというやつだろうか。ノビエはタイヌビエ、イヌビエ、ヒメタイヌビエなどの総称で、タイヌビエが最も代表的な水田の雑草だという。

ヒエといえば、米と同じ食用穀物だが、それはいわば人間の手が加わった栽培種で、野生種のノビエとは全く別物とみるべき、なのだそうだ。

ネット情報によれば、両者の違いは「脱粒性」にある。野生種は栽培種と違って、登熟(実が稔ること)する中で次々に種子がこぼれ落ちる。ほっとけば毎年いっぱい発生する、というわけだ。

さて、家を出て常磐線の踏切を渡る。と、すぐ「神谷耕土」が広がる。今年(2025年)は圃場整備のために稲作を中止した田んぼが多い。

4月下旬、田んぼにブルドーザーが入り、表土のはぎとり・集積が始まった。やがて一枚の田んぼが大きくなり、ブルはさらに別の場所へ移って同じ作業を繰り返した。今もその工事が続く。

真っ先にブルが入った田んぼにはやがて草が生え、直まきした稲の穂のような青田になった。その田んぼを見ているうちに興味がわいた。なにもないまっさらな田んぼである。そこから最初に何が生えてくるのか。

乾田だったのが、雨で水が張られた状態になったときもある。で、その後は見るたびに草が生長し、緑の海になり、生長した姿がこれである=写真。

9月14日朝。出羽神社の祭礼(式典)に出席したあと、いったん帰宅し、隠居へ行くために、再度、神谷耕土を通った。

踏切を渡るとすぐ、助手席のカミサンに頼んで、稲穂ならぬ田の草をパチリとやった。ノビエと思われるがどうだろう。

田んぼは、人間が必要な時に必要な手を加えることですっきりした稲穂の海になる。自然に任せたら、たちまちノビエの海に代わる。耕地整理中の休耕田を見続けているうちに、そんな感想がわいた。

2025年9月20日土曜日

人気の梨コイン自販機

                                 
   パソコンを開くと、自分のブログのページが現れる。画面右側には、「人気のある投稿」「最近のコメント」「ブログアーカイブ」その他のコーナーが縦に並ぶ。

 「人気のある投稿」には5本の拙ブログが表示されている。直近の記事がほとんどだが、ときどき過去の記事も載る。

なぜ今ごろ? 内容は思い出しても、いつアップしたか、すっかり忘れていることが多い。

 今も一つ、いわき市小川町下小川地内にある梨のコイン自販機について書いた記事が入っている。

 アナログメディアの象徴ともいうべき新聞は、時間がたてば古くなる。いわゆる「古新聞」だ。

ところが、デジタルメディアであるインターネットは、新しいも古いもない。人が必要とするとき、それが最も新しい情報になる。

「サンシャインいわき梨」の出荷が最盛期を迎えた。そのニュースが流れたころ、「人気のある投稿」のトップに、2021年9月21日付の「梨のコイン自販機」が表示された。

4年前の記事だが、梨の季節を迎え、どこに行ったら買えるのか。何人かがネットで情報を探っているうちに、拙ブログにたどり着いたのだろう。自販機だけの部分を要約して再掲する。

――毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、国道399号(兼県道小野四倉線)を利用する。

上平窪(平)の坂を越えて下小川(小川町)に下ると、道路沿いに農家の庭先直売所がある。近年はその先、同じ道路沿いの関場に梨のコイン自販機がお目見えした。

一帯には梨畑が多かった。今も道路沿いに何カ所かある。この道路を行き来していると、梨農家の1年がわかる。芽かきや摘蕾・摘花・摘果作業があり、収穫がすめば晩秋~冬の剪定作業が待っている。

庭先直売所はたまに利用する。コイン自販機はまだだ。隠居で土いじりをした帰り、初めて自販機から梨を買うことにした。

ちょうど午後3時ごろだった。いつもその時間に補充するのかどうか、奥の家から若い女性が袋詰めの梨を運んできた。

カミサンが販売機からではなく、直接、女性から梨を買った。今は「豊水」が出回っている。4個で300円だった。名前の通り、水分がたっぷり含まれていた――。

今年(2025年)もコイン自販機が営業を始めた。8月が過ぎて9月に入ると、自販機の前の路上に車が止まっていることが多くなった。

カラ梅雨から猛暑が続いて、小粒だが甘みは十分だという。それもあるのだろう。いつもの年よりは車が目立つ。

私らも先日、4年前と同じ自販機の前に車を止め、同じように梨を補充しようとした女性から、直接、梨を買った。

家では毎日、皮をむいてカットし、冷やしたのを食べている=写真。ほてった体にはこれが実にうまい。

とにかくこの夏は暑かった。今も暑い。ガリガリ君、冷製味噌スープ(味噌汁)、冷製焼肉(前夜の残り)……。あらかた冷やせるものは冷やして食べる。今年はお福分けも含めて、いわき梨をよく食べた。いや、まだ食べる。

2025年9月19日金曜日

厄日

                                         
    9月17日は朝から晴れて真夏日になった。このところ少し気温が下がったと思ったら、また「残酷暑」である。

 秋分の日まではあとわずか。太陽は南に移動し、玄関のたたきから踏み台へと差し込む光が長くなった。

 午後も遅い時間になると、西の窓から夕日がのぞき、寝室から隣の部屋まで長い時間、光を射続ける=写真。

 そういえば――。朝の「反射光」を思い出した。小学生が集団登校をする時間帯だった。

 接骨院行きを休んだカミサンが店から茶の間に戻って告げた。「カーブミラーが反射している。そこだけ光っておもしろい」。歩道に出ると、西に伸びる通りの1カ所が、球状に光を発していた。

民家の庭の隅に道路を映すミラーがある。その裏側が朝日を反射していたのだ。確かに、これでは西へ向かう車はまぶしいにちがいない。

同じことが逆方向、東に伸びる通りでも起きる。昼前の11時ごろだった。マチからの帰り、近所にある建物の前、三角の金属アーチが太陽光線を反射してまぶしかった。

対向車両のフロントガラスや外装、駐車場の車、家の窓ガラス。車を運転していると、太陽の位置、時間、季節によって、こうした反射光に遭遇する。

17日は、この反射光が始まりだった。茶の間に戻って一足早くBSで朝ドラ「あんぱん」を見ようとしたら、突然、テレビの画面が消えた。

新品を買って取り付けたばかりなのに、「カードが挿入されていない」という表示が出る。何度かカードの出し入れをしたが、症状は変わらない。

カミサンが家電のホームドクターに電話すると、間もなくやって来た。ほかのカードも使ってみたが、やはり映らない。「どうも本体のようだ」。中古の代替品を取り付けてくれる。

このあとマチへ行き、帰りに行きつけのガソリンスタンドに立ち寄ると、周囲にロープが張られている。たまたま旧知の経営者がいたので、聞くと「工事をしている、明18日朝7時に営業を再開する」という。この日は給油をあきらめた。

カミサンはカミサンで、家の前の郵便局に行ったらATMが故障していたという。さらに、ドレッシングを宅配している業者からは「目のトラブルで今月は宅配を休む」という連絡が入った。

昼食をとりながら、「きょうは厄日だね、注意しなくちゃ」といったあとのことである。

午後2時を過ぎたころ、隣室でドタッという音がした。茶の間から首を伸ばして見ると、帳場の前でカミサンが横になっている。

「つまずいて転んだの」という。左腕が少し赤くなってはいたが、骨に異状はなかった。やっぱり厄日である。この日は眠りにつくまで緊張が続いた。

翌18日は早朝、私より早くカミサンが起き出し、台所で包丁を握っていた。腕は? 振って見せる。なんでもない。それでやっと心配が晴れた。

この日は朝、予定があったので、車に給油をしてそのまま出かけた。テレビも新品と取り換えることが決まったそうだ。買い手からすれば当然のことではあるが。

2025年9月18日木曜日

防犯カメラ

                                 
   警察が傷害事件や殺人事件の容疑者を取り調べると、怨恨、憎悪、嫉妬などといった動機が浮かび上がってくる――。世の中が移り変わっても人間の心理はそう変わらない。

ところが、動機のよくわからない犯罪もまた起きる。最近の例では、マンションのエレベーター内で女性を刺殺した神戸の事件がそうだ。

女性が、たまたま容疑者の目に止まり、あとを付けられた。女性は、容疑者とは全く面識もない。「人を刺したい」、あるいは「人を殺したい」というための尾行だったのか。

たとえ動機があったとしても許されるものではない。が、それとは全く無縁の身勝手な、動機とも言えない動機でコトに及んだとしたら……。被害者は気の毒というか、無念というか、言葉もない。遺族の気持ちもそうだろう。

容疑者は広域を移動していた。その足取りが、街にある防犯カメラの映像をつないでいく「リレー捜査」で解明され、スピード逮捕された。

翻って、わが近所はどうか。金融機関やコンビニだけでなく、商店にも防犯カメラが取り付けられている。それで先日、傷害事件が早期解決をした。車も「走る防犯カメラ」になる。

6月には、いわき市が自治会を対象に、防犯に関するアンケートを実施した=写真。

市は防犯カメラ設置のための支援モデル事業を展開している。設置の有無や設置希望の有無、防犯灯などについて意見を聞いた。

「防犯カメラに見られている」。この認識が浸透すれば、犯罪は抑止される。犯罪抑止と事件が起きたときの迅速解決には防犯カメラが有効、というのは確かにあるだろう。

しかし一方で、プライバシーの保護や設置・維持コストの問題がある。通りにある金融機関などの設置状況を勘案すると、わが地区はとりあえず現状の防犯灯で対応できる、とみていいのではないか。

防犯カメラが必要なのはむしろ中山間地である。3年前、夏井川渓谷の隠居と道路の境に設けた柵が壊された。車の「当て逃げ」だったので、警察に連絡した。

警察が捜査を始め、現場検証をしたあとのやりとり。 「ここらへんで防犯カメラがあるところ、というと?」「市の川前支所にあるかどうか」

防犯カメラがあれば捜査がしやすい。なくても、必ず事故を起こした車を突き止める、時間はかかるかもしれないが――というので、安心して結果を待った。

それから3週間、車両が特定された。渓谷の住人を介して、運転していた人間から謝罪の電話が入った。「イノシシが急に現れてハンドルを切ったら、柵にぶつかった。すぐ家を訪ねたが、空き家だった」

渓谷の場合、県道沿いに小集落が点在する。地元の負担も大変だが、それぞれの集落に防犯カメラがあれば、事件・事故の早期解決が期待できる。「当て逃げ」事故以来、そんな思いが頭から消えない。

2025年9月17日水曜日

ふっつぇ大根の芽生え

                                         
 8月の日曜日は、3日と24日しか夏井川渓谷の隠居へ行けなかった。そのことは前に書いた。

 いつもの年だと、月遅れ盆明けの日曜日(今年は17日)には、辛み大根が若葉を広げているのを確認する。

 8月に入ると同時に双葉が現れるのだが、その時点ではほかの草にまぎれていてよくわからない。で、確認はいつも盆明けになる。

 17日に行けなかった分、24日は真っ先に芽生えの有無を確認した。草に遮られながらも、あちこちで新しい命が生まれていた。

 31日は地区の市民体育祭があって、やはり隠居へは行けなかった。次の日曜日(9月7日)、ここはちゃんと辛み大根と向き合おう――そう思い定めて、早朝7時に市長選の投票をすませて隠居へ直行した。

 隠居に着くとすぐ、辛み大根の様子を確かめた。いい具合にそのあたりだけシダレザクラが影をつくっている。キャリアカーに座り、三角のねじり鎌を使って辛み大根の新芽の周りの草を引っこ抜いた。

 メヒシバ、スベリヒユ。それから名前のよくわからない草たち。これらを引っこ抜くと、黒い虫(カブラハバチ)に食われてボロボロになった若葉が、あっちにもこっちにも現れた=写真。

 痛めつけられてはいるが、これで光をいっぱい浴びられる。頃合いをみて肥料をやる。それで冬にはずんぐりむっくりの辛い大根になるはずだ。

 食べても硬いだけだから、おろし専用である。そのほかに一つ。今年(2025年)初夏に開かれたいわき昔野菜保存会の総会・交流会で、「絹さや」同様、「さや大根」(未熟な果実)が食材になることを知った。

 今年はそのさやも収穫し、何度かゆでて食べた。それほどうまいものではないが、さやが始末に負えないほど生(な)るので、さや減らしにはうってつけだ。

 さて、これはさや大根について書いたブログの余波のようなものだ。昔野菜保存会の事務局に、「バナナマンの早起きせっかくグルメ‼」の番組スタッフから問い合わせがあったそうだ。

秋にもさや大根を収穫しているのかどうか――さや大根を教えてくれた会の仲間に聞くと、収穫するのは春だけ、ということだった。私のブログを読んで問い合わせがきたようだ――と事務局から知らせが届いた。

 私がブログで触れたのは、こんなことだった。「大根は地中で長く肥大した根を食べる。秋まきなら冬、春まきなら夏と、年に2回は栽培・収穫できる」

 なら秋にも「さや大根」が……となったのだろう。確かに、春まきをやれば秋にもさや大根が収穫できるはずだ。

ただ、私の周りではさや大根を食べる習慣がない。ましてや、秋のさや大根はそうだろう。

わが隠居の辛み大根もまた、冬のおろし大根と来春のさや大根のために不耕起で育つのを見守っている。

2025年9月16日火曜日

新聞記者の執念

                                           
   オールドメディア(新聞)でメシを食ってきたためだけではない。小学校高学年のころから、新聞を読むのが好きだった。

実家は阿武隈の山里の床屋。日中は客のために、店に新聞を置いていた。客がいなくなった午後遅く、学校から帰るとよく店で新聞を読んだ。

ニュースだけではない。連載小説も愛読した。子どもだから読めない漢字もある。それでも何とか読み方を想像して先に進む。

現場から離れた今は一読者に戻って、毎日、活字の海をサーフィンする。よく言われることだが、新聞の特徴は種々雑多なニュース(情報)が何ページにもわたって、ページごとに「一覧」として表示されることだ。

なかでも注意して見るのは大きな見出しではなく、主に左隅っこにある「ジャミ記事」。「竜頭蛇尾」でいうと、各ページのトップは「竜頭」で、これは自然に目に入る。「蛇尾」は小さくて、意識して読まないと見過ごしてしまいがちだ。

そうやって右上から左下へ視線を移している途中、縦に長い囲み記事が目に入った。9月5日のことである。

県紙に載った「サンパウロ共同」発の記事で、見出しは「不動産広告に80年不明の絵画/ナチス略奪 南米で発見」、そして額縁に入った婦人の肖像画のカラー写真が添えられていた。

カミサンが新聞を読んだあと、そこだけ切り抜いて折り込みチラシの一種「お悔み情報」の裏に張り、手元に残しておくことにした=写真。

記事の概略はこうだ。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツがオランダで略奪した絵画作品のうち、1点がアルゼンチン東部のマルデルプラタで見つかった。

イタリアの画家ギスランディが17~18世紀に描いた女性の肖像画で、オランダのユダヤ人美術商が所有していたものだった。

翌日の全国紙の記事も加味すると、ナチスの元高官は大戦後、アルゼンチンに逃亡し、マルデルプラタに住んだ。

その家が遺族によって売りに出され、不動産業者がネットに広告写真を掲載した。すると長年、この高官の過去を追い続けていたオランダの新聞記者が、部屋を紹介する写真の中に略奪された絵画作品が写り込んでいることに気づいた。

共同電からは、本人が記事にしたかどうかはわからない。が、略奪絵画の発見をオランダの地元紙(つまりはこの新聞社に記者が所属?)が取り上げ、アルゼンチンの警察が動いた。

しかし、家宅捜索をしたときには発見されず、後日、遺族が弁護士を通じて絵画を当局に引き渡した、というものだった。

新聞記者は、ふだんはニュース取材に追われている。ナチスが略奪した絵画や高官の過去は、いわば記者のライフワークと結びついたもので、アフターファイブの取材対象だったに違いない。その問題意識が略奪絵画の発見につながった。

新聞の一覧性の面白さ、新聞記者の執念。久しぶりに血=知が騒いだ。ついでながら、画家ギスランディとは……。新たな興味がわいてきた。

2025年9月13日土曜日

家電のホームドクター

                                 
    わが家のテレビはこの14年でいうと3台目だ。東日本大震災の直前と2016年、そして2022年に取り換えている。

そのテレビがおかしくなった。一日に何回も画像が止まり、音声が途切れて、画面が暗くなる。

同時に、「BCASカードとのアクセスが成立しません カードを抜き差ししても直らない場合はカスタマーセンターに連絡してください」という文字が現れる。

カミサンの親友の家が震災で解体されることになり、「欲しいものはどうぞ」というので、洗濯機や食器などとともに引き取ったテレビだ。よく持ったというべきだろう。

「家電のホームドクター」がいる。やはりカミサンの同級生で、前の取り換え時にも世話になった。今度も連絡して来てもらった。

テレビは2006年製。使っていたのは震災までの5年間。そのあとはわが家で眠っていたから、使用期間は実質8年というところか。2007年に開局したBS11イレブンは、当然見られない。

前も中古だった。3台目も古かった。5年持つかどうか――。3年前の春に書いたとおりに早く寿命が尽きた。そのときのブログを再構成する。

【2011年3月初旬】新しいテレビがわが家にやってきた。前のテレビがダメになった。修理が可能なら直して。しかし、新品より高いなら買い替える。

で、買い替えたとたん、大地震がやってきた。台所の食器棚から皿などが落下してガチャガチャ激しく音を立てた。

庭に飛びだして、いったん揺れが収まったところで家の中に戻ると、テレビが台から落下し、ノートパソコンが飛んでいた。そのあと、テレビが伝える大津波の映像に息をのんだ。

【2018年10月中旬】テレビがダメになって、「家電のホームドクター」から中古のテレビを手に入れたのが2016年ごろ。

そのテレビがおかしくなった。人間の顔が土気色だ。画面も全体に青っぽい。リモコンで調整しても変わらない。

量販店だと通りいっぺんの対応に終始し、結局は買い替えとなったのだろうが、ここはホームドクターががんばった。

メーカーのサービス部門の人が来て、テレビのカバーをはずし、本体を取り換えた。カバーをしてスイッチを入れると、人間の顔に生気が戻っていた。正常な色が復活した。

【2022年4月初旬】テレビの色がだんだん悪くなる。いよいよ更新時期か。買い替える前に、11年前に引き取ったテレビが映るかどうか確かめることにした。

ホームドクターがやって来てカードを差し込み、コードをつなぐと鮮明な画像が現れた。買い替えないですんだ。

――そして2025年の9月11日、ホームドクター経由で4台目が来た=写真。今回は手ごろな中古がないので新品にした。

家計的にはきついが、BS11イレブンが見られる。エンタメを見る楽しみが増えた。老夫婦にはやはりオールドメディアのテレビが欠かせない。

2025年9月12日金曜日

お笑いタレントの本

 「これ、おもしろかったよ」。カミサンが移動図書館から借りた本を差し出した。著者は若林正恭。「聞いたことないなぁ」。内心いぶかりながら手に取る。

 本のタイトルが変わっている。『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA、2018年7版)=写真。

 口絵写真をめくっていたら、テレビでおなじみの顔が現れた。お笑いコンビ「オードリー」のツッコミ役ではないか。

 相方は春日俊彰。髪型は八二分け、服装は半そでのワイシャツにピンクのベスト、そしてネクタイと、窮屈なくらいにきちっとしている。

 それに比べたら若林正恭は、見た目は地味だ。が、テレビ番組ではMCを務めることが多いようだ。

 ちなみに、MCとは「メイン・キャスター」とばかり思っていたが、バラエティー番組の場合は「マスター・オブ・セレモニー」(進行役)の略らしい。

 お笑いタレントが書いた本である。同じお笑いタレントの又吉直樹は小説『花火』で芥川賞を受賞した。

矢部太郎は、漫画の『大家さんと僕』がベストセラーになり、手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。

彼の『マンガぼけ日和』(かんき出版、2023年)は、やはり移動図書館~カミサン経由で読んだ。認知症のことを、英語では「ロンググッドバイ」という。このくだりが特に印象に残っている。

さて、本業からすれば余技。余技でも作家や漫画家として高い評価を得ているので、どちらも本業といってもいいくらい、最近のお笑いタレントは、二足も三足もわらじをはいている。

若林正恭もそうだったのか。とはいえ、読んでみないことにはわからない。パラパラやり始めると、目に飛び込んできたフレーズがある。

アラフォーだというのにニュース番組が理解できない。で、東大の大学院生を家庭教師に雇う。その彼に経済や歴史、社会について感じた疑問をぶつける。

バブル崩壊以後、終身雇用や年功序列が前近代的なものになる。それに代わって、成果主義の時代がやってくる。その象徴が「新自由主義」だ。

「新自由主義に向いてる奴って、競争に勝ちまくって金を稼ぎまくりたい奴だけだよね?」

というところまで思いが至り、ではこのシステム以と無縁の国はどこか、しかも陽気な国は――となって、がぜんキューバに興味を持つ。

ある年、夏休みが5日間取れることがわかった。すると、念願のキューバ旅行を思い立ち、スマホひとつで航空券とホテルを予約する。

そんな問題意識から訪れたキューバ紀行エッセーだ。内容は省略するが、本のタイトルも新自由主義をキーワードにすると、「なるほど」となる。

「表参道のセレブ犬」は勝ち組、キューバの「カバーニャ要塞の野良犬」はそれを超越した自由な魂といったところか。

    同じタイトルの本が文春文庫にもある。こちらは、キューバのあと、やはり一人で訪れたモンゴルとアイスランドの旅行記を収録している。これも図書館から借りて読んでいる。 

2025年9月11日木曜日

1カ月ぶりの「エリー」

                                
   9月7日の日曜日はいわき市長選の投開票日だった。朝7時には投票所(地元の小学校体育館)へ出向き、5番乗り(カミサンは4番乗り)で投票を済ませたあと、夏井川渓谷の隠居へ直行した。

 途中、稲刈りの終わった田んぼがあった。雨まじりの風で稲穂がなぎ倒された田んぼも目に付いた。

 8月31日の日曜日は地区の市民体育祭が開かれ、隠居へは行けなかった。その前の日曜日10、17日は、カミサンの足の具合がイマイチだったので、やはり行くのを断念した。8月は、つまりは3日と24日の2回しか行っていない。

小川町三島の夏井川に残留したコハクチョウ(えさをやっている「白鳥おばさん」は「エリー」と名付けた)は、どうしているだろう。

 というのは、3日にはいたが24日には姿を見なかったからだ。行きも帰りもいなかったのは、この春に残留してから初めてだ。

 このまま姿を見せないとしたら、どこか下流へ流されたか。あるいは獣に……。前の「エレン」の場合は、大水のあとに下流で見つかっている。

 今年(2025年)はカラ梅雨以降、9月に入っても酷暑が収まらない。そのため、隠居へは早朝に出かける。9時前後の二番列車が通過するころには、土いじりを終えて隠居で休む。

 そして、昼前にはマチへ戻る。どこかで昼食をとることもあるが、たいていはサンドイッチなどを買って帰宅する。

 7日もそうやって平地へ下ると、三島の夏井川の浅瀬に白いかたまりが見えた。縦に長いサギではない。ごみ袋でもなさそうだ。とすると、朝はいなかったエリーか。

車を止めてガードレール際からパチリとやり、撮影データを拡大すると、そうだった=写真。大水にも流されずに生きていた。

三島のハクチョウたちは、3月後半にはあらかた北へ帰る。それが1羽、4月中旬になっても残留している。日曜日に通るたびに、浅瀬を歩いていたり、河原に上がって休んでいたり……。それで飛べずにとどまったハクチョウだとわかった。

「ダウンジャケット」を着たまま、日本の蒸し暑い夏を過ごさなければならないのだぞ、おい。姿を見るたびに心配が募った。

 それに、真夏は日差しを遮ってくれるはずの岸辺の竹林も、河川改修工事で消えた。あることはあるが、水辺からは遠い

 日曜日ごとの定点観測が8月は崩れた。カミサンの体調、地域の行事、そして異常な暑さ。7月も、20日は参院選の投・開票が行われ、地元の投票所の管理者になったために、隠居へは行けなかった。

それもあって、エリーへの思いがいつもより過剰になっていたらしい。1カ月ぶりに姿を見たときには心底ホッとした。

仲間がやって来るまであと1カ月。それまでなんとかがんばれよ。念力で言葉を送りながら車に戻った。

2025年9月10日水曜日

シン・習慣

                               
   この1カ月ほど、朝食が1時間ほど早まって6時過ぎになった。カミサンが早朝に対応してくれる接骨院へ行くためだ。併せてこまごまとした家事も一部引き受けることになった。

腰痛を抱えているカミサンがある日、足にしびれと痛みがあるといって、起き上がれなかった。指示に従って家事の一部を代行した。

今は前のように動いているが、ビフォー・アフターでいえば、あれもこれもおまかせ、というわけにはいかなくなった。

早朝を中心に新しい家事が増えた。「シン・ゴジラ」にならって、「シン・習慣」なんて言ってみる。前からの習慣に、ごみ出しや買い物、ネコのエサやりなどが加わったのだ。

月曜日早朝、家の前のごみ集積所にごみネットを出すことから1週間が始まる。これは長年のルーティンだ。

わが地区では月・木曜日が「可燃ごみ」を出す日で、それ以外に隔週の火曜日は「缶・ビン・ペットボトル」、水曜日は「容器包装プラスチック」などと決まっている。

そのため月~木曜日は、ごみネットを歩道に出したままにしておく。木曜日に収集車が来たあと、カミサンがネットを取り込む。

週末も出しっぱなしにしておくと、違反ごみを置かれることがある。生ごみを出された日には、すぐカラスがかぎつけ、袋を破って食い散らかす。

後始末をするのはごみネットを管理している私とカミサン。ごみネットがなければ、「ポイ置き」にはブレーキがかかるはず。金~日曜日は「ごみ回収はなし」というサインでもある。

で、ごみネットは私、ごみ出しはカミサン――だったが、今はネットも、ごみ出しも――に変わった。

すると、生け垣に巻きついたアサガオが咲いているのに気づく=写真。シン・習慣のおかげで家の周りをウロチョロする時間が増えたからだ。

朝晩、交代で「さくらネコ」のゴンとシロにえさをやる。昼は毎日ではないが、近所のコンビニからサンドイッチと飲み物を買って来る。

朝一番でカミサンを接骨院へ送ったあとは、ガラス戸の内側に立て掛けてあるカーテン代わりの発泡プラスチック断熱材を片付けて店を開ける。

それが終わると7時になる。あとはテレビをつけながら、パソコンを開いてキーボードを打ち続け、調子が良いと9時までには翌日のブログを仕上げる。

7時半にはBSプレミアムにチャンネルを変えて、30分ほど早く朝ドラの「あんぱん」を見る。

というのは、接骨院でマッサージを終えたカミサンから連絡が入って、迎えに行くのが地デジの朝ドラの時間帯だからだ。

連絡なしで歩いて戻って来るときもあるが、連絡がくればすぐ行けるように、BSで一足早く見ることにしている。

ということで、早朝5時前に起きて、あれこれやって、その日に予定が入っていなければ、9時以降は「自由時間」になる。

シン・習慣で変わったことといえば、家庭内歩行が増えたことだろうか。家事とは歩くこと、でもあるらしい。

2025年9月9日火曜日

カワウの群飛

もう10日近く前になる。日曜日(8月31日)に地区市民体育祭が行われた。関係者の一人として早朝から会場に詰めた。

帰宅したのは午後1時ごろで、すぐぬるま湯につかって汗を流し、しばらく横になっていた。

夕方、マチへ刺し身を買いに行った帰りのことである。斜め右上空に黒い隊列が姿を現した。車と同じ東の方向に飛んで行く。

水鳥のウだ。飛んでいる姿を見ただけで、ウミウなのか、カワウなのか、わかるわけではない。

単純に、川の上流にいるのがカワウ、海や川の下流にいるのがウミウ――で分けているだけだ(ここではカワウということで話を進める)。

あるとき、夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、合間に対岸の滝を見に行ったら、下流中央に露出している岩の上で3羽のカワウが日光浴をしていた。

3羽は時々、首を傾げたり、振り返ったりして警戒を怠らない。1羽が近くの岩場に飛び移る。くちばしを開き加減にして、盛んにのどを震わせる。

デジカメのレンズを最長にしてカシャカシャやり、モニター画面で拡大すると、目やあごの黄色い皮膚の裸出部はあごで終わっているもの、のどまでいっているものと個体差があった。色にも濃淡がある。カワウの若鳥らしかった。

そんな体験もあって、内陸でえさをあさっていたカワウたちが、ねぐらへ戻るために少しずつ合流し、最後は大編隊になった。そう推測したのだがどうだろう。

助手席のカミサンが何回かカメラのシャッターを押した。あとで撮影データを確かめ、パソコンに取り込んだが、隊列はかすかに写っているだけだった。

データを拡大すれば、1羽1羽がカワウのシルエットだとわかる。が、ポイントは横一列に並んだその長さだ。

とにかく長い。こんな長いカワウの隊列は初めて見た。それを部分的に拡大(切断)して分かりやすくしたとしても、長さは伝わらない。

が、スマホでブログを読む人は、何が写っているんだ、何も写っていないではないか、となる。

全体では横に長い62羽の隊列だが、それではやはりわからないので、半分の35羽程度まで拡大したのをアップした=写真。なんだ、空しか映っていないではないかといわれたら、もう「ごめんなさい」である。

これはだいぶ前に聞いたことだ。いわきの夏井川でウの姿を見ることはまれだった。野鳥の研究者も「いわきにいるのはウミウ」という判断だった。

が、夏井川を毎日見ていると、その常識が通用しない、という思いが強くなっていた。

毎年、ウの数が増えている。カワウではないのか。野鳥の会の「参考調査」でカワウが増えていることがわかった。

これだけの大群である。福島県のデータによると、いわき市内では北部の夏井川河口横川にカワウの「コロニー」がある。南部は鮫川御宝殿に「ねぐら」がある。

 コロニーもねぐらも一緒だろう。とすれば、カワウは横川のコロニーへ戻る途中だったか。 

2025年9月8日月曜日

『熊になったわたし』

                                           
 このところ連日のように熊のニュースが流れる。山で熊に襲われた。熊が住宅地に現れ、生ごみをあさった。家の中にまで入って来た。

 北海道のヒグマにとどまらない。本州のツキノワグマもまた人間の領域に、ひんぱんに出没する。

 いわきでも8月29日、田人町の休耕畑で熊とみられる足跡が発見され、警察が注意を呼びかけた。

9月5日には平田村に隣接する上三坂(三和町)で目撃情報が寄せられたと、防災メールが告げていた。

 図書館の新着図書コーナーに、ナスターシャ・マルタン/高野優訳『熊になったわたし――人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる』(紀伊國屋書店、2025年)があった=写真。

 本の見返しに張られた帯には「熊に顔をかじられ九死に一生を得た人類学者の変容と再生の軌跡を追ったノンフィクション」と書かれてある。

 「変容」とは傷を受けた顔の「変貌」のことではあるまい。精神的な「変化」のことだろう。「再生」はそれを踏まえたうえでの「現場復帰」のことにちがいない。

熊と遭遇した場所は、人類学者としてフィールドワーク(民族誌学の調査研究)を行っていた、ロシアのカムチャツカ半島だ。

今年(2025年)の7月30日朝、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。その半島での出来事だ。

地震がおきた場所からは北方の火山と氷河の山中、西の海岸部へ流れ出るイチャ川の流域がその現場らしい。

「解説」の力を借りて熊に出合うまでの経緯を頭に入れる。著者はフランス人で、カムチャツカ半島に住む先住民族のエヴェン人の集落に入ってフィールドワークを続けていた。

次第に打ち解け、冗談を言い合うような仲になる。そこで先住民族が驚愕するような事件が起きる。

エヴェンの人たちは狩猟を生業にしており、シベリアのほかの民族同様、動物の中では熊(ヒグマだろう)を特別な存在とみなしている。

なかでも、熊に襲われて生還した人間は「ミエトゥカ」と呼ばれる。エヴェン語で「熊に印をつけられた者」という意味だそうだ。半分人間で半分熊。これがこの本の核心部分だろう。

病院を見舞ったエヴェンの友人が言う。「熊は君を殺したかったわけじゃない。印(しるし)をつけたかったんだよ。今、君はミエトゥカ――二つの世界の狭間で生きる者になったんだ」

やがてフランスに帰って再手術をし、癒えるとまたカムチャツカ半島の土を踏む。その間の心の揺れや家族とのやりとり、現地での様子などが、人類学者としての客観ではなく、「熊になったわたし」の主観でつづられる。

現代文明のただ中で暮らし、イノシシしか視野に入ってこない人間からすると、熊は非日常の存在だが、その熊と人間が濃厚にかかわる世界では、内面にまで熊が入り込むような感覚になるらしい。変容と再生。なかなか理解しがたい心のありようではある。

2025年9月6日土曜日

看板建築

                                
   通るたびにチラッと見上げる建物がある。何軒か並んで「レトロモダン」な雰囲気を醸し出している。

そこはいわき市の中心市街地、いわき駅前のラトブ西側・銀座通り。建物はそのままでも、昔からの商店は減り、飲食店が増えた。

北側の「仲田町通り」と南側の「新田町通り」の間にその建物がある。それが「看板建築」なのかどうかはわからない。が、建物のファサード(正面)を見る限り、3階建ての造りになっている。

窓の配置や周りのデザインがおもしろくて、通るたびに眺める。だれがデザインし、だれが建築を請け負ったのだろう。

水戸市の常陽藝文センターから毎月、「常陽藝文」が届く。唯一の定期購読誌だ。2025年9月号は、茨城県石岡市の「看板建築」を特集している=写真。それからの連想で銀座通りのレトロモダンな建物のファサードを思い出した。

特集記事からの抜粋――。石岡には戦前に建てられたレトロな看板建築が多く残る。そのなかで6件が登録文化財に指定された。

2017(平成29)年には全国で初めて、同市で「全国看板建築サミット」が開かれたという。

1929(昭和4)年3月14日の夜、通りで火災が発生し、折からの強風にあおられて市街の4分の1が焼失した。その後、通りは看板建築群が並ぶ街並みに一新した。

建築史家・堀勇良氏が提案し、建築家・建築史家の藤森照信氏が日本建築学会で発表した看板建築の「定義」が紹介されている。三つある。

一つは、大正から昭和初期に造られた木造の商店・民家、あるいは双方を併せ持つ店舗用住宅。

二つ目は、街路に面したファサードを銅板、モルタル、タイルなどの不燃材料で被覆している。ただし、建物の四囲を被覆したものは含まない。

三つ目がファサードのデザインで、擬洋風商店建築の流れをくむ西洋建築風のもの。あるいは江戸小紋などの伝統的な文様を取り入れたもの。

1945(昭和20)年の終戦直前、旧平市街は西部地区、一小校舎、駅前地区と3回、空襲に見舞われた。

その意味では、銀座通りの建物群は戦前のものではない、古くても戦後に造られたことになる。

しかし、レトロモダンの趣が色濃いファサードの建物は、どこか石岡の看板建築群と通じるものがある。

3軒に分割されているファサードの建物は、鳥の目(グーグルアース)では、どうも屋根が一つのようにしか見えない。

看板建築とはいえないかもしれないが、その流れを受け継ぐものとみなすことはできるだろう。

いずれにしても大工・左官・石工といった職人技、これがなければ看板建築はありえなかった。それは確かなようだ。