車を運転して目的地に着く。ドアを開ける。車から降りて閉める。と、「バチッ」。静電気で火花が起きたのだ。
この「バチッ」は、慣れればOK、というようなシロモノではない。いつも感電して「痛(イタ)ッ!」となるから、ビクビクしながら車を降りる。車だけならまだしも、建物でも「バチッ」とくるときがある。
私は今、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」であらかた昼の時間を過ごす。地下駐車場に車を止めて、車外に出る。「バチッ」とこないときは、軽やかな足取りでエレベーターの乗り場へ向かい、駐車場とエレベーター乗り場を仕切るドアのノブをつかむ。と、そこで「バチッ」とやられる。「ナンダ、この建物は」と初めは腹が立ったが、なんのことはない、冬場の乾燥期が続いて私自身が帯電していたのだ。
インターネットで情報を探ったら、こういうことらしい。
車を運転しているうちに、車の背もたれと自分の背中がこすれて帯電する。外へ出てドアを閉めようとした瞬間に、蓄えられた電荷が「バチッ」と火花を発して放電する。それが痛さの原因だ。
予防策は意外と簡単だった。
足を地面につける前に、車の金属部分に触れる。それでアースされた状態になるので、火花放電はなくなる。それでもドアノブの「バチッ」が心配だ。そんなときにはコンクリートの壁に手を触れてからドアノブに触るといいですよ、とあった。
早速、5日から二つを実行している。結果はOK。車を降りるときも、ドアノブに触るときもビクビクしなくてすむようになった。
2008年3月5日水曜日
タガが緩む
琺瑯(ほうろう)引きの容器で「白菜の切り漬け」をつくっている間に、白菜用の漬物桶を洗って乾かしておいたら、すっかりタガが緩んでしまった。板と板との間にすきまさえできている。水を入れると、すきまから水がジャージャー漏れる。
こうなると、すぐには使えない。たらいに水を張り、そこへ水を入れた桶を浸けて、板にたっぷり水分を吸わせてやる。そうしないとすきまがなくならないのだ。
一昼夜、桶を水に浸けておいたら、やっと水漏れが止まった。
桶が桶でなければ白菜漬けはできない。白菜から水が出て初めて、白菜はしんなりと塩になじみ、昆布で旨味を、干したかんきつ類の皮やタカノツメで風味を増す。
白菜漬けは冬場の食べ物。作ってもあと2回くらいだろう。一度に2株、4キロ前後を漬け込むと、20日間くらいは食べられる。2カ月でざっと3回というのが、わが家の白菜漬けのサイクルだ。
3月、4月と白菜漬けを食べたら、黄金週間明けには糠漬けに切り替える。それが例年のパターンである。
そのとき、使い終わった桶をどう保管するか。使わないでおくと、やはり乾く。で、物置の暗い所に、タガが緩まないように伏せておく。重力を利用するのだ。伏せておけばほこりもたまらない。
桶は使い続けてこそ桶だが、使わないときにも桶の特徴を生かして保管してやらないといけないようだ。
こうなると、すぐには使えない。たらいに水を張り、そこへ水を入れた桶を浸けて、板にたっぷり水分を吸わせてやる。そうしないとすきまがなくならないのだ。
一昼夜、桶を水に浸けておいたら、やっと水漏れが止まった。
桶が桶でなければ白菜漬けはできない。白菜から水が出て初めて、白菜はしんなりと塩になじみ、昆布で旨味を、干したかんきつ類の皮やタカノツメで風味を増す。
白菜漬けは冬場の食べ物。作ってもあと2回くらいだろう。一度に2株、4キロ前後を漬け込むと、20日間くらいは食べられる。2カ月でざっと3回というのが、わが家の白菜漬けのサイクルだ。
3月、4月と白菜漬けを食べたら、黄金週間明けには糠漬けに切り替える。それが例年のパターンである。
そのとき、使い終わった桶をどう保管するか。使わないでおくと、やはり乾く。で、物置の暗い所に、タガが緩まないように伏せておく。重力を利用するのだ。伏せておけばほこりもたまらない。
桶は使い続けてこそ桶だが、使わないときにも桶の特徴を生かして保管してやらないといけないようだ。
2008年3月4日火曜日
花前線
いわき市平中神谷の夏井川堤防――。
春霞に誘われて、3日の夕方、散歩をした。あとで知ったのだが、春霞は黄砂だった。
阿武隈の山並みが絹のカーテンの向こうで次第に影絵と化し、赤い太陽が稜線に向かって沈もうとしている。太陽の光を一筋長く反射している川にはハクチョウとカモたち。
対岸の小高い丘の上にある梅福山専称寺(浄土宗)を見れば、境内の斜面が所々、白く染まっている。「梅の名所」で知られる寺もいよいよ、ふもとから中腹にかけて梅の花が満開になりつつあるらしい。
小名浜測候所の生物季節観測によれば、いわきでは梅は2月15日に開花した。平年より3日早く、昨年より7日遅い。ヤブツバキも意外と早く、昨年12月24日には開花した。前年より5日早い(平年値は1月17日)。
家の近所を歩くと、あちこちの庭で白梅が満開だ。近くの神社のヤブツバキも赤い花を付けている。2日に平のお城山を歩いたが、そこの梅も、ヤブツバキも花盛りだった。
二つの花前線は今どのあたりか。
2日に確かめたところでは、白梅は小川町上小川字牛小川(夏井川渓谷)に到着した。ヤブツバキはまだそこまでは行っていない。渓谷の入り口、小川町上小川字高崎の東北電力夏井川第3発電所あたりにとどまっている。
とはいえ、黄砂が舞い、霞が漂う季節になった。花前線はこれから駆け足で夏井川をさかのぼって行くことだろう。渓谷ではマンサクの花が咲き出した。
2008年3月3日月曜日
春が来た
3月2日の日曜日、いわき市平の郊外に車を走らせた。
私はこの十数年、休日を夏井川渓谷で過ごしている。と、書きながら、「過ごす」ということに多少、違和感がある。時間に余裕があれば前の晩から一人で行くのだが、「自由業」の今はかえって雑用が増えた。渓谷の集落からみれば、一泊二日なら多少は「留まる」と言っても許されるだろうが、日帰りでは「来る」でしかない。
で、最近は日曜日の早朝、カミサンを起こして「おい、行くぞ」となる。カミサンは、以前は日曜日に列車で夏井川渓谷へやって来た。日曜日の早朝、一番列車か二番列車で「小さな旅」を楽しむ。それを、夏井川渓谷の最寄りの駅である江田駅まで迎えに出る。
そして、3月。
1日は土曜日、2日は日曜日、晴れ。
週末と月の替わりが重なったこともあって、2月とは鮮やかに空気と風景が変わるのが分かった。
わが家を出たら、平の中神谷・上神谷、小川町上小川の町中や片石田近辺でスコップをかついだり、手にしたりしている人が歩いているのを見た。同じ小川町の上平では、夏井川支流の堤防の野焼きが行われていた。
<ああ、江はらいだな>
動脈のように張り巡らされた田んぼの用水路の泥を払い、ごみを除去する、春恒例の共同作業である。これを各地で一斉にやるのだろう。堤防の野焼きも、農作物の害虫を減らすためには欠かせない作業だ。
畑に出ている人は見かけなかったが、いわきの浜の知人は1日に馬鈴薯の種芋を植え付けるための準備を始めた。3月の声を聞く同時に、今年の農作業が始まったと、はっきり言える。
夏井川渓谷でも春を実感した。無量庵の菜園の白菜があらかたヒヨドリにつつかれて穴があいていたのだ=写真。
師走、白菜に防寒用の鉢巻をしてやった。が、2月になるといよいよ山野にえさが乏しくなったのか、ヒヨドリが襲来するようになった。それを承知で何株かは鉢巻をせずにおいていたのだが、ヒヨドリに遠慮はない。結局、人間とヒヨドリとで白菜の収穫を分け合ったようなかたちになった。
背戸峨廊のこと
エッセイストの辰濃和男さん(元朝日「天声人語」筆者)は自然への愛情、造詣が深い。その文章から、人間はいかに自然に生かされているか、自然の恩恵を受けているか、といったことを深く考えさせられる。
辰濃さんが描く自然は、観光客が「ああ、きれいだね」と眺めて過ぎ去る絵はがきのような自然ではない。そこへ分け入り、体感し、考えたことを、温かく気品のある言葉でつづる。だから、雑誌などで名前を目にすると必ず文章を読む。単行本も買う。
『歩けば、風の色――風と遊び風に学ぶ2』は愛読書の一つだ。中に「背戸峨廊を歩く――草野心平の『水の道』」が収められている。「背戸峨廊」は夏井川の支流・江田川(えだがわ=いわき市小川町上小川)の愛称だ。夏井川渓谷の近くにある。
「背戸峨廊」の文章を読みたくて『歩けば、風の色』を買った、と言ってもよい。
いかにも「背戸峨廊」の厳しさが出ている。が、一つ気になったのが「背戸峨廊」のルビだ。「せどがろう」ではなく「せとがろう」になっている。入手した資料が「せとがろう」となっていたのだろう。
「背戸峨廊」の4文字を分解すると――。
まず、「背戸」。どんな辞書でも「背戸」は「せど」である。「家の裏手の川」をさして「背戸の川」という。その背戸である。方言でもなんでもない。れっきとした共通語だ。次に「峨廊」。文字通り「峨峨たる回廊」である峡谷を表現している。
「背戸峨廊」はいわき市小川町出身の詩人草野心平が名づけたと言われているが、地元の受け止め方は少し違う。「せどがろう」に心平が字を当てた、というのが当たっている。それにはこんな背景がある。
江田川と山をはさんで夏井川に注ぐ川がある。加路(かろ)川という。江田川は猟師かイワナ釣り師しか入り込まないような峡谷。それよりは開けた加路川流域には、小集落が点在する。加路川を視野に入れて暮らす人々からすれば、江田川は「かろ」がなまって「せどのがろ」、つまり「山の裏手の加路川」ということになる。
その人たちが呼び習わしていた「せどのがろ」(「せどがろ」)に心平が「峨峨たる回廊」のイメージを重ね合わせた、と言えばより事実に近いか。
一人歩きを始めた「せとがろう」は道路の案内標識にも及んでいる。同じ小川町の下小川に設置された標識は「背戸峨廊」の下の英語表記が「Setogaro Gorge」=写真上=だ。早い機会に訂正してほしい。ついでながら、辰濃ファンとしても『歩けば、風の色』が次に改版されるときには、「せどがろう」とルビが直るのを願っている。
いわき市立草野心平記念文学館ができてからは、学芸員が「『せどがろう』ですよ」と念を押すせいか、さすがに「せとがろう」と間違ってルビが振られた記事は少なくなった。
さて過日(2月20日)、「背戸峨廊」のコース最奥部「三連(みれん)の滝」の氷結写真が新聞に載っていたのに刺激されて、一番手前の「トッカケの滝」をのぞいてきた。「三連の滝」よりはかなり下流のためか、滝の氷はほとんど解けてなくなっていた=写真下。
峡谷にも春の光が躍り始めたようである。
2008年3月1日土曜日
「ペドロの作文」
アントニオ・スカルメタというチリ生まれの作家がいる。映画「イルポスティーノ」の原作「ネルーダの郵便配達人」を書いた。(と言っても、先日初めて知った。BS2をかけたら、たまたま「イルポスティーノ」をやっていたのだ)
「イルポスティーノ」はまさに「ネルーダの郵便配達人」の物語だ。
イタリアの小さな島で亡命生活を送るチリの国民的詩人、パブロ・ネルーダ(1971年にノーベル文学賞を受賞)のもとへ、毎日、郵便物を届ける。
やがて交流が始まり、郵便配達人は詩に目覚める…。
原作を読みたくなって、いわき駅前の市総合図書館へ行ったら、ない。代わりに「ペドロの作文」(絵=アルフォンソ・ルアーノ)という絵本がある。早速、借りてきて読んだ。
チリのアジェンデ政権がクーデターで倒れ、軍事独裁が始まる。
ある日、学校へ軍人がやって来て「わが家の夜のすごしかた」というタイトルで子供たちに作文を書かせる。
9歳のペドロ少年は、両親がのんびりとチェスなどに興じている様子をつづる。
実際には独裁に反対し、「自由な国がいい」と思っているのだが、本当のことは書けない。書けば両親が連行される――そんな不安がチェスの作文を生んだ。
作文を読んだ父親が愁眉を開く。絵本もそこで終わる。
「『そうか』パパがいった。『こんど、チェスを買ってこなくちゃな』」
8歳や9歳の少年でも大人の魂胆を見抜いてしまう。それをペドロ少年は文字通りの作文でこたえ、両親を救った。
「イルポスティーノ」はまさに「ネルーダの郵便配達人」の物語だ。
イタリアの小さな島で亡命生活を送るチリの国民的詩人、パブロ・ネルーダ(1971年にノーベル文学賞を受賞)のもとへ、毎日、郵便物を届ける。
やがて交流が始まり、郵便配達人は詩に目覚める…。
原作を読みたくなって、いわき駅前の市総合図書館へ行ったら、ない。代わりに「ペドロの作文」(絵=アルフォンソ・ルアーノ)という絵本がある。早速、借りてきて読んだ。
チリのアジェンデ政権がクーデターで倒れ、軍事独裁が始まる。
ある日、学校へ軍人がやって来て「わが家の夜のすごしかた」というタイトルで子供たちに作文を書かせる。
9歳のペドロ少年は、両親がのんびりとチェスなどに興じている様子をつづる。
実際には独裁に反対し、「自由な国がいい」と思っているのだが、本当のことは書けない。書けば両親が連行される――そんな不安がチェスの作文を生んだ。
作文を読んだ父親が愁眉を開く。絵本もそこで終わる。
「『そうか』パパがいった。『こんど、チェスを買ってこなくちゃな』」
8歳や9歳の少年でも大人の魂胆を見抜いてしまう。それをペドロ少年は文字通りの作文でこたえ、両親を救った。
大火事の夜
若い仲間の「本や ふるさとマルシェ」のブログ(2月28日「かぼちゃと防空ずきん」)を読んで触発されたので書く。
中身は彼のブログを読んでもらうとして、わがふるさとの田村郡(現田村市)常葉(ときわ)町が昭和31年4月17日夜、吹きすさぶ西風に「一筋町」(俗に「ふんどし町」という)の3分の1が燃えて灰になった夜、同級生はどこへ、どう避難したのか。
それを、今年(2008年)2月上旬に開いた中学校の「還暦同級会」(その年齢を迎えたので早々と実施した)でやっと確かめることができたのだった。
同級生が数人、いわき市にいる。何年か前から毎年、忘年会をやるようになった。去年は春に夏井川渓谷で花見もした。ある年の忘年会で、なんとはなしに大火事の話をしたら、それぞれが違ったことを話した。
そのころ、常葉町には小学校が4校あって、幹線道路(現国道288号)沿いの3校の児童たちが中学校では一緒になる。小学校名でいえば、西から西向(にしむき)小・常葉小・山根小(もう一つ、大滝根山に近いところに関本小がある。同小の児童はそのまま関本中に進んだ)。
大火事に見舞われたのは真ん中、常葉小学区の町場。西向小出身の同級生は「東の空が真っ赤になっていた」。山根小出身の同級生は「西の空が真っ赤になっていた」。ところが、私同様、家が焼け落ちた常葉小出身の同級生は、火の粉に追われるように山を越えて逃げた。
<大火事体験は一人ひとり違うのか>
以来、同級生に会って酒を飲めば「あれ、ほれ、あの火事」(と、だいたいできあがりつつあるときに)「町が焼けたとき、どう逃げた」と聞くのが習い性になった。
で、還暦同級会である。
酒を酌み交わしながら、何人かから「あのとき、どこへ逃げた?」と聞いては、メモを取り続けた。
私と一緒に町の裏山へ避難し、翌早朝、私とともに全国紙の記者に写真を撮られた同級生(道路の斜め向かいに住んでいた)は
「おじたちのカバンも肩からさげていたんだ」。
<そうだった>
私は自分のランドセルだけ。彼は自分のランドセルのほかに、中学生のおじたちの肩掛けカバンを二つ、たすきがけにしていたような記憶が突然、よみがえった。
近くの同級生は、東の坂の上、町外れ近くから路線バス(その日の運行を終えて車庫にでも止まっていたのか)に乗って山根小学校へ逃げたという。入学前、よく一緒に遊んだ女の同級生もバスでそっちの方へ逃げた。徒歩で逃げるしかなった男の同級生もいた。
私と一緒に逃げた同級生は、こんなことも言った。
「『○×の小屋に逃げろ』って言われたんだけど、そこにいたらオレたち焼け死んでいたね」
道路に出て西空をながめ、紅蓮の炎と火の粉の艦砲射撃に立ちすくんで、ただただ走り回る大人の影絵を眺めているしかなかった小学校2年生の私と彼と、近所のおばさんたち。
記憶にはないが、初めて知った「オレたち焼け死んでいたね」。
<そうだったのか、T君>
50年が過ぎてもぞっとすることがあるものだ。
中身は彼のブログを読んでもらうとして、わがふるさとの田村郡(現田村市)常葉(ときわ)町が昭和31年4月17日夜、吹きすさぶ西風に「一筋町」(俗に「ふんどし町」という)の3分の1が燃えて灰になった夜、同級生はどこへ、どう避難したのか。
それを、今年(2008年)2月上旬に開いた中学校の「還暦同級会」(その年齢を迎えたので早々と実施した)でやっと確かめることができたのだった。
同級生が数人、いわき市にいる。何年か前から毎年、忘年会をやるようになった。去年は春に夏井川渓谷で花見もした。ある年の忘年会で、なんとはなしに大火事の話をしたら、それぞれが違ったことを話した。
そのころ、常葉町には小学校が4校あって、幹線道路(現国道288号)沿いの3校の児童たちが中学校では一緒になる。小学校名でいえば、西から西向(にしむき)小・常葉小・山根小(もう一つ、大滝根山に近いところに関本小がある。同小の児童はそのまま関本中に進んだ)。
大火事に見舞われたのは真ん中、常葉小学区の町場。西向小出身の同級生は「東の空が真っ赤になっていた」。山根小出身の同級生は「西の空が真っ赤になっていた」。ところが、私同様、家が焼け落ちた常葉小出身の同級生は、火の粉に追われるように山を越えて逃げた。
<大火事体験は一人ひとり違うのか>
以来、同級生に会って酒を飲めば「あれ、ほれ、あの火事」(と、だいたいできあがりつつあるときに)「町が焼けたとき、どう逃げた」と聞くのが習い性になった。
で、還暦同級会である。
酒を酌み交わしながら、何人かから「あのとき、どこへ逃げた?」と聞いては、メモを取り続けた。
私と一緒に町の裏山へ避難し、翌早朝、私とともに全国紙の記者に写真を撮られた同級生(道路の斜め向かいに住んでいた)は
「おじたちのカバンも肩からさげていたんだ」。
<そうだった>
私は自分のランドセルだけ。彼は自分のランドセルのほかに、中学生のおじたちの肩掛けカバンを二つ、たすきがけにしていたような記憶が突然、よみがえった。
近くの同級生は、東の坂の上、町外れ近くから路線バス(その日の運行を終えて車庫にでも止まっていたのか)に乗って山根小学校へ逃げたという。入学前、よく一緒に遊んだ女の同級生もバスでそっちの方へ逃げた。徒歩で逃げるしかなった男の同級生もいた。
私と一緒に逃げた同級生は、こんなことも言った。
「『○×の小屋に逃げろ』って言われたんだけど、そこにいたらオレたち焼け死んでいたね」
道路に出て西空をながめ、紅蓮の炎と火の粉の艦砲射撃に立ちすくんで、ただただ走り回る大人の影絵を眺めているしかなかった小学校2年生の私と彼と、近所のおばさんたち。
記憶にはないが、初めて知った「オレたち焼け死んでいたね」。
<そうだったのか、T君>
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