2008年3月1日土曜日

大火事の夜

若い仲間の「本や ふるさとマルシェ」のブログ(2月28日「かぼちゃと防空ずきん」)を読んで触発されたので書く。

中身は彼のブログを読んでもらうとして、わがふるさとの田村郡(現田村市)常葉(ときわ)町が昭和31年4月17日夜、吹きすさぶ西風に「一筋町」(俗に「ふんどし町」という)の3分の1が燃えて灰になった夜、同級生はどこへ、どう避難したのか。

それを、今年(2008年)2月上旬に開いた中学校の「還暦同級会」(その年齢を迎えたので早々と実施した)でやっと確かめることができたのだった。

同級生が数人、いわき市にいる。何年か前から毎年、忘年会をやるようになった。去年は春に夏井川渓谷で花見もした。ある年の忘年会で、なんとはなしに大火事の話をしたら、それぞれが違ったことを話した。

そのころ、常葉町には小学校が4校あって、幹線道路(現国道288号)沿いの3校の児童たちが中学校では一緒になる。小学校名でいえば、西から西向(にしむき)小・常葉小・山根小(もう一つ、大滝根山に近いところに関本小がある。同小の児童はそのまま関本中に進んだ)。

大火事に見舞われたのは真ん中、常葉小学区の町場。西向小出身の同級生は「東の空が真っ赤になっていた」。山根小出身の同級生は「西の空が真っ赤になっていた」。ところが、私同様、家が焼け落ちた常葉小出身の同級生は、火の粉に追われるように山を越えて逃げた。

<大火事体験は一人ひとり違うのか>

以来、同級生に会って酒を飲めば「あれ、ほれ、あの火事」(と、だいたいできあがりつつあるときに)「町が焼けたとき、どう逃げた」と聞くのが習い性になった。

で、還暦同級会である。

酒を酌み交わしながら、何人かから「あのとき、どこへ逃げた?」と聞いては、メモを取り続けた。

私と一緒に町の裏山へ避難し、翌早朝、私とともに全国紙の記者に写真を撮られた同級生(道路の斜め向かいに住んでいた)は
「おじたちのカバンも肩からさげていたんだ」。
<そうだった>
私は自分のランドセルだけ。彼は自分のランドセルのほかに、中学生のおじたちの肩掛けカバンを二つ、たすきがけにしていたような記憶が突然、よみがえった。

近くの同級生は、東の坂の上、町外れ近くから路線バス(その日の運行を終えて車庫にでも止まっていたのか)に乗って山根小学校へ逃げたという。入学前、よく一緒に遊んだ女の同級生もバスでそっちの方へ逃げた。徒歩で逃げるしかなった男の同級生もいた。

私と一緒に逃げた同級生は、こんなことも言った。
「『○×の小屋に逃げろ』って言われたんだけど、そこにいたらオレたち焼け死んでいたね」

道路に出て西空をながめ、紅蓮の炎と火の粉の艦砲射撃に立ちすくんで、ただただ走り回る大人の影絵を眺めているしかなかった小学校2年生の私と彼と、近所のおばさんたち。

記憶にはないが、初めて知った「オレたち焼け死んでいたね」。
<そうだったのか、T君>
50年が過ぎてもぞっとすることがあるものだ。

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