2023年7月15日土曜日

軒下の小自然

        
 「こがねちゃん」が消えた。台所の軒下、地上70センチあたりに網を張り、やがて190センチほどのところに網ごと移動したコガネグモのことだ。

 6月28日にこの引っ越し行動をブログに書いたら、翌29日、コガネグモはさらに東側の屋根の下に移動していた。

 あまりに暑い日が続き、台所のガラス戸を開け閉めするようになると、網が緩んだり、元に戻ったりする。戸に網の一端をつないでいたためで、これでは「こがねちゃん」も居心地が悪い。

 引っ越して何日もたたないのに、今度はガラス戸の影響を受けない軒先に引っ越しを余儀なくされた。

ところが、試練はそれで終わらなかった。再度引っ越した日の午後2時ごろ、猛烈なにわか雨に見舞われた。福島地方気象台の記録によると、いわき市平では2~3時台に計23.5ミリの雨が降った。

雨上がりに軒下の「こがねちゃん」を見ると、姿がない。翌日も、翌々日も見たが……。どこかに網を張っている様子はなかった。

 それから何日かたって、カミサンから声がかかった。「こがねちゃん」が最初、網を張ったそばにパセリが植えてある。それを摘みに行ったら、異変に気付いた。「虫がいる!」

 パセリ、虫――とくれば、キアゲハだ。急いでパセリを見ると、やはりキアゲハの幼虫だった=写真。 

一昨年(2021年)の11月下旬、台所の軒下にパセリのポット苗を定植した。あまり手をかけなくても増えるというので、カミサンが重宝し、ときどき葉を摘んでは料理に使うようになった。

夏になると、花茎を40センチほどのばし、先端に小さな花をいっぱいつけた。すると、キアゲハの幼虫が卵からかえって葉を食べるようになった。それに気づいたのが、やはり去年の今ごろ。

そのとき、奇妙な動作に遭遇した。写真を撮るために、撮影の邪魔になる花茎をよけてカメラを近づけると、幼虫の頭部からニュルッとオレンジ色のツノが現れた。なんだ、これは?

すぐネットで調べ、さらに図書館からチョウの専門書を借りてきて読んだ。アゲハチョウ科の幼虫には、「臭角(しゅうかく)」という、通常は内部にしまわれている防衛器官がある。

身の危険が迫ったと感じたとき、このツノを内部から出して悪臭を発し、「敵」を遠ざけるのだという。つまりは、自分のそばまで接近してきた私の指に対して防御本能がはたらいたわけだ。

去年は、2匹の幼虫が葉を食べつくした。花も消えたから、あとは枯れるだけかもしれない。そんな思いがよぎったが、パセリはちゃんと生き残った。今年も立派に葉を茂らせた。

幼虫は最初、4匹だったのが、あとから順次かえったのか、計6匹になった。今は姿を消した「こがねちゃん」に代わって、キアゲハの幼虫を観察している。

大きいのは間もなく蛹になるとしても、まだ2センチほどの幼虫はどうなるか。蛹になる前にパセリの葉がなくなってしまわないか、少し心配だ。

2023年7月14日金曜日

キュウリのお福分け

                     
 家庭菜園でもキュウリの収穫が始まったようだ。まだ梅雨は明けない。が、連日の酷暑と雷雨で、インド・シッキム地方原産のキュウリはぐんぐん生長している。SNSでも収穫を始めたという情報が載り始めた。

 それを裏付けるように、同じ日に3人からキュウリのお福分けが届いた。近所の奥さん、カミサンの実家、そして車で5分もかからないところに住むカミサンの友達。

 本数はかぞえなかったが、合計すると10本以上はあったろう。これにスーパーから買ってきたばかりの数本が加わる。

 キュウリを栽培し、糠漬けを続けて“発見”したキュウリのうまい食べ方は、とにかく摘んだら(買ったら)「すぐ」糠床に入れる、あるいは「すぐ」料理に使う、だった。

拙ブログでもたびたび書いていることだが、同じ糠漬けでも大根とキュウリでは扱い方が異なる。

あるとき、冷蔵庫に置き忘れて水分が飛んだ大根を「捨て漬け」にした。一夜明けると、大根がしんなりしている。捨てるのはもったいない。食べたら、いい感じだった。

夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたばかりのころ、食生活研究家でミュージシャンの魚柄仁之介さん(1956年~)の本を読んだ。

水分の飛んだ大根が台所にあった。それを漬物にした。たくわんをつくるとき、大根を干す。原理は同じ。水分が飛んでいる分、簡単に、しんなり漬かる――。以来、大根については、魚柄流糠漬けを実践している。

キュウリは大根とは逆に、水分を保った状態で漬ける。水分が飛ぶと、中が綿のように白っぽくなる。こうなると、食べてもまずい。

さて、目の前にドンと並んだキュウリをどうするか。私は5本を一度に糠床に入れた。あとはカミサンがいろいろアレンジした。

糠漬け=写真=は毎回食べる。これは、私が用意する。肥大したものは透き通るくらいの小口切りにしてキュウリもみにする。味噌汁にも入れる。ワカメとの酢の物も出た。

小さいものはざくっと切って、ニンニクと醤油、味醂で味付けをする。これは冷やすと、いい酒のつまみになる。生をスティックにして味噌で、あるいはマヨネーズで、というのはまだやっていない。

古漬けも今年(2023年)はまだ2、3本しか口にしていなかった。理由は簡単だ。自分でキュウリを栽培していないので、お福分けがあっても食べ切ってしまう。余らない。

浅漬けはキュウリのあおさを楽しむ。古漬けは逆に、あめ色になったところを小口切りにして水につけ、塩分を抜く。

浅漬けはシャキシャキ、古漬けはパリパリ。とにかく味に変化をつける。そうでもしないことには飽きがくる。次は何が出てくるだろう。

2023年7月13日木曜日

午後は雷雨に

                      
 酷暑が続く。7月12日には福島県にも「熱中症警戒アラート」が発表された。今年(2023年)初めてだという。その中を、マスクをして歩いて事業所周りをした。

 4年ぶりに地区の体育祭が再開される。事業所から協賛広告を募り、競技の最後に大抽選会を開く。

開催は9月最初の日曜日だが、プログラムのチラシ製作・配布から逆算して、この日に事業所周りをしないと間に合わない。

 区内会の会計さんとともに、前回、協賛広告を出してくれた事業所を訪れる。その場で協賛金を出してくれるところもあるが、だいたいは1週間後、また訪ねて集金するようになる。

 日差しが強いうえに、道路からの輻射熱が体を射る。事業所を訪ねたついでに小休止をしたり、建物の日陰で汗をぬぐったりした。冷たいお茶を出してくれるところもあった。

 ざっと1時間、20カ所ほどを回り終えると、着ているものがぐしょぐしょになった。こんなときには水風呂につかり、体のほてりを冷まして着替えをする。そして、とにかく水を飲んで横になる。

 午後になると、今度は雷雨がやって来た。このところ、連日、雷注意報が発表される。朝からカッと照りつけていた太陽がいつの間にか雷雲に隠れ=写真、たちまち雨を降らせる。

 平では10日、夕方から宵にかけて雷雨になり、11日も午後2時、3時台に雷雨が来た。そのつど、カミサンと手分けして1階と2階の窓を閉める。11日には2階の物干し場に干してあった布団の取り込みを忘れて濡らしてしまった。

 翌12日。カミサンから「物干し場もちゃんと見て!」と念を押される。「夕立」には早い午後1時過ぎ、やはりいきなり降り始めた。物干し場のふとんを取り込んだが、少し雨に濡れた。

 雷雲が現れると、パソコンで福島地方気象台のホームページを開き、「防災気象情報」をクリックして、「雨雲の動き」を見る癖がついた。

 いわきの上空に雨雲が来ているかどうかをリアルタイムで確認し、おおよその見当をつける。いったん雨脚が弱まったと思っても、次の雨雲が控えている。そんなときには、閉めた窓をすぐには開けない。

 前にも書いたことだが、私が小学校低学年のころ(つまり昭和30年代前半)、阿武隈の山里では夏、よく夕立がきた。

夕立は夏休みの記憶と結びついている。川で水浴びをして家に帰ると、たびたび雷雨がやって来た。

すると、店をやっていた両親に代わって、祖母が孫を指図して家の雨戸を閉めさせ、電気を消して蚊帳のなかに避難するようにいった。

仏壇の線香立てを廊下に持ち出し、線香に火をつけて雨戸のすき間から煙を外へたなびかせる。「雷様(らいさま)」よけのまじないだった。

 このごろの雷雨続きに、子どものころの夕立を思い出したが、もうまじないを信じるトシではない。代わって、雷鳴を気にしながらパソコンで「雨雲の動き」を見る。そんなふうに変わった。

2023年7月12日水曜日

外来のカメの話

                     
 日本野鳥の会いわき支部の元事務局長・峠順治さんから、支部報「かもめ」第159号(2023年7月1日発行)と、峠さんがアカミミガメに関してまとめたレポートのコピーをいただいた=写真。

 支部報に、いわき地域学會の仲間でもある鳥海陽太郎さんが「ミナミメガダカ」について書いている。

 メダカはメダカではないのか。ミナミメダカって? まずはミナミメダカの情報を探る。アクアマリンふくしま(小名浜)に「BIOBIOかっぱの里」がある。そこにミナミメダカが展示されている。

 解説によると、日本国内に分布するメダカは長い間1種類とされていた。しかし、遺伝子レベルの研究が進み、形態の違いから「キタノメダカ」と「ミナミメダカ」の2種類に分けられた。福島県内には両種が分布する。

アクアマリンは小名浜にある。で、BIOBIOかっぱの里ではいわきのメダカのミナミメダカを展示している、というわけだ。

 鳥海さんは、ミナミメダカが環境省では絶滅危惧Ⅱ類、ふくしまレッドリストでは絶滅危惧ⅠB類にランクされている希少種であることを紹介しながら憂慮する。

「いわきの水辺は、卵胎生熱帯メダカ『グッピー』が温泉地の水域に拡散した経歴のある土地柄なので、いわきの『ミナミメダカ』の遺伝子汚染はすでに始まっている?」

 峠さんは、鳥海さんの文章に触発されて、アカミミガメによる在来生物への影響について振り返った。

 2001年6月に発行された支部報「かもめ」第48号に、定例探鳥会の報告が載る。そのとき、夏井川河口に隣接する後背湿地に体長20センチと30センチのミシシッピーアカミミガメがいた。

福島県は今年(2023年)3月、県内に生息している外来種をまとめて公表した。「ふくしまブルーリスト」という。

リストに掲載された動植物は641種にのぼる。そのうち、自然環境への影響が大きい「県侵略的外来種」は101種だ。

この101種は影響度の高い順から、①緊急対策外来種18種②重点対策外来種49種③その他の総合対策外来種21種④産業管理外来種13種――に分けられる。ミシシッピーアカミミガメは緊急対策外来種に入る。

2001年の時点で、峠さんらは2匹のアカミミガメは雌雄と思われる、家庭でペットとして飼われていた個体が逃げ出したのか、飼育に飽きるか手に負えなくなって放されたものだろうとしつつ、こう警鐘を鳴らした。

「この貪欲な肉食性の外来のカメが、いわきの自然を豊かに残すあぶれ沼で繁殖しようとしているのは、由々しき問題である。早急な対策が望まれる」

それを起点に、白水阿弥陀堂の池のハスとアカミミガメの関係、新川で特定外来生物のカミツキガメが捕獲されたことなどを紹介した。

カミツキガメに関する拙ブログを一部引用していることから、こちらにもコピーが届いたというわけだ。身の回りには植物も含めて外来生物があふれている――そのことをあらためて思った。

2023年7月11日火曜日

危険な蒸し暑さ

                     
 7月9日の日曜日は、夜明けに雨が降ったあと、曇ったり晴れたりしながら気温が上昇した。朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけたが、風がそよとも吹かない。これにはこたえた。

 日陰になっている畑のへりに生ごみを埋め、周囲に繁茂している草を少し引っこ抜くと、たちまち汗みどろになった。

 時間にして1時間弱。井戸水を飲みながらの土いじりだが、どうも今までとは暑さが違う。午前中はこれで終わり、あとは午後に――と決めたものの、午後もそのまま隠居の中で過ごした。

大気の底面(宮沢賢治のことばでいえば、「気圏の底」)、つまり人間が暮らしている大地の表面が、この日は朝から蒸し風呂のようだった。

土いじりを少ししただけで隠居にこもったものの、室温も30度弱だ。谷風が吹けば、扇風機代わりになるが、その風がない。扇風機をかけても、熱があまり逃げない。結局、横になっても睡魔は下りず、目をつぶっているだけだった。

「そろそろヤマユリが咲き出すかも」。朝、わが家から隠居へ向かいながら、頭にヤマユリの花が思い浮かんだ。

今年(2023年)は植物の目覚めが早い。渓谷の「花ごよみ」も例外ではない。4月のアカヤシオが3月に咲き、5月のシロヤシオが4月に咲いた。

渓谷を縫う県道小野四倉線沿いのヤマユリは例年、7月後半に咲き出す。ほかの植物同様、ヤマユリも早めに咲くのではないか。そう期待しながら進むと、ハクチョウが越冬する夏井川(小川町)の山側で一輪、ヤマユリが開花していた。

平地で咲いているなら渓谷でも――。つぼみが白く変色し、今にも咲き出そうとしているヤマユリがあった。咲き出したばかりのヤマユリもあった=写真。

やはり、早い。きょう(7月11日)はそれから3日目。もう至るところで花が咲き出し、「ヤマユリ街道」になったことだろう。

ヤマユリの花からエネルギーをもらったのはいいが、あまりの蒸し暑さだ、じっとしているだけでも頭が重い。思考力が落ちている。

夜も蒸し暑くてよく眠れなかった。頭がモワッとしているのはおそらく睡眠不足だからだろう。結局、扇風機をかけてじっとしているだけで一日が終わった。

危険な蒸し暑さ――。若いときは、そんな認識はなかったが、加齢と温暖化が進んだことで、今はそれを実感するようになった。

「福岡県と大分県に大雨特別警報」。月曜日は朝からNHKが特番で九州北部の大雨情報を伝えた。最近、よく耳にする「線状降水帯」、これが発生しているということだった。

いわきでも「令和元年東日本台風」の際、初めて大雨特別警報が発表された。山間部の三和地区では、2日間で総雨量448.5ミリを記録した。主に夏井川水系で被害が続出し、9人が亡くなった。

九州北部ではいくつもの河川で氾濫が起こった。テレビが伝える龍のような濁流を見ながら、あのときの記憶がよみがえった。

2023年7月10日月曜日

『ラジオと戦争』

  図書館の新着図書コーナーでその本を見たとき、内容は想像がついた。アジア・太平洋戦争が起きると、新聞とラジオは「大本営発表」を垂れ流すようになる。そのラジオ版だろう――。

 『ラジオと戦争――放送人たちと「報国」』(NHK出版、2023年)=写真=が、本のタイトルだ。著者は大森淳郎。名前に記憶があった。

東日本大震災と東電福島第一原発事故が起きた直後、放射線量による汚染状況が全くわからなかった。

 事故が起きるとすぐ、NHKのETV特集取材班が学者とともに調査・取材に入る。そして、事故から2カ月後、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送される。人々はこのとき初めて具体的な汚染状況を知った。

のちに取材班の仕事は『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年刊)にまとめられた。

 取材班の一人だった大森さんはその後、仙台放送局に移り、そこでもドキュメンタリー番組を作り続けた。

 あのとき――。飯舘村の南隣にある浪江町赤宇木(あこうぎ)の住民は、高濃度に汚染されながらも、ほったらかしにされたままだった。

たまたま通りかかったNHKのETV特集取材班によって、高濃度汚染が集会所に避難している人々に伝えられた。

 その縁もあって、大森さんは、突然、「帰還困難区域」になった赤宇木の取材を続ける。平成27(2015)年には、<東北Z>で「100年後の誰かへ――浪江町赤宇木(あこうぎ)・村の記憶」戦前編、同戦後編が放送された。最後に流れる製作スタッフの字幕に大森さんの名があった。

 さて、本題。大森さんが『ラジオと戦争』で取り上げた放送人の一人に多田不二(1893~1968年)がいる。

多田は詩人でもあった。茨城県生まれで、学生時代、磐城平の山村暮鳥と文通した。暮鳥の仲間の萩原朔太郎、室生犀星らとも交流があった。免疫学者で能作者の故多田富雄の大叔父でもある。終戦をはさんでNHK松山放送局長を務めた。

ラジオは大正14(1925)年に放送が開始された。日本放送協会の前身、東京放送局がそれで、翌15年3月、新聞記者経験のある多田が入局し、講演・講座番組を担当する部署に配属された。

NHK博物館などに残る資料から、戦時下、組織人として「国策放送に同化してしまった」多田の仕事が明らかにされる。

「多田不二は戦争協力詩を書かなかった稀有な詩人である。だがそれは、多田が戦争に協力しなかったことを意味しない。ラジオ講演によって『一億国民の精神的団結を計り、長期の総力戦を遂行させ』ようとしたのであり、それは一編の『戦争に協力する詩』以上に国民を戦争に動員する力となったことだろう」

 詩人としての多田と日本放送協会職員としての多田の葛藤はあったとしても、結局は時流に沿う道を選んだ。人間はかくも弱い。いや、国策は人間の良心をも飲み込むのだと知る。 

2023年7月8日土曜日

御蔵島のシイタケ

                      
 7月7日の続き――。御典医桂川家に生まれた今泉よねが幕末の江戸の様子や自分の家族、出入りしていた洋学者らを回想した『名ごりの夢――蘭医桂川家に生れて』(平凡社ライブラリー、2021年)から、御蔵島のシイタケの話を。「みくら島」の章=写真=に出てくる。

 同島は伊豆七島の一つで、都心からは南へ約190キロ離れた太平洋上にある。その島と桂川家にいつのころからかつながりができた(「みくら島」には経緯が語られているが省略する)。

 「秋の風情になって来ますと、いつも思い出すのは御蔵島です。(略)その島の人が年にたしか一度江戸表へ出てきまして、島にはない物を買っては、島の物を売って帰りました」

 その折、桂川家へは「薪とか椎茸とか、時には他の産物を置いてまいりました。こちらからはその代わりにお膏薬をもらって帰りましたが、その椎茸のやわらかで肉が厚くおいしいことといったら、今はもうとうてい味わわれない味です」。

 生シイタケとも、干しシイタケとも書かれていない。やわらかくて肉厚なことから、生シイタケを連想するのだが、収穫から荷積み、海上輸送の時間を考えると、干しシイタケの可能性もないわけではないだろう。

 阿武隈高地でも江戸時代、シイタケ栽培が行われていた。いわきでは、先進地の伊豆半島から出稼ぎ人がやって来て、栽培を指導した。二ツ箭山の奥、戸渡(小川)にはシイタケ山があった。

川内村には値段の記録が残っている。『川内村史・資料篇』によると、同村ではシイタケとコウタケを江戸へ出荷した。

安政7(1860)年3月時点での相場は、シイタケ1両当たり1貫550匁、コウタケ2貫400匁とシイタケの方が高かった。シイタケはささかご・むしろ包みにして平城下から、コウタケは箱に入れて送った。

慶応2(1866)年12月には、1両当たりシイタケ中級品500匁、シシタケ(コウタケ)1貫400匁と、3~2倍にはね上がる。

というわけで、生産する側の情報はある程度探ることができる。しかし、江戸に住む消費者の声に触れたのは初めてだ。

「三尺四方もあろうかと思われる大きなかぶせ蓋の箱――分厚な板で頑丈にこしらえた大箱(略)に、ぎっしりと椎茸がつまってあとから方々へ分配するのにも困ったほどですし、邸でも当座は椎茸ぜめの有様」だった。ということは、やはり生シイタケだったのか。いや、でも――という思いは残る。

シイタケはニューギニアからサハリン(樺太)まで分布する。南洋上空に漂っていたシイタケの胞子が、台風の背中に乗って北へ、北へと運ばれた――そんな空想も許されるだろう。

阿武隈高地は、東日本大震災に伴う原発事故が起きるまでは、シイタケ原木の一大供給地だった。原木シイタケ栽培農家も多かった。「みくら島」を読みながら、シイタケにまつわるあれこれを思い出した。