2023年7月8日土曜日

御蔵島のシイタケ

                      
 7月7日の続き――。御典医桂川家に生まれた今泉よねが幕末の江戸の様子や自分の家族、出入りしていた洋学者らを回想した『名ごりの夢――蘭医桂川家に生れて』(平凡社ライブラリー、2021年)から、御蔵島のシイタケの話を。「みくら島」の章=写真=に出てくる。

 同島は伊豆七島の一つで、都心からは南へ約190キロ離れた太平洋上にある。その島と桂川家にいつのころからかつながりができた(「みくら島」には経緯が語られているが省略する)。

 「秋の風情になって来ますと、いつも思い出すのは御蔵島です。(略)その島の人が年にたしか一度江戸表へ出てきまして、島にはない物を買っては、島の物を売って帰りました」

 その折、桂川家へは「薪とか椎茸とか、時には他の産物を置いてまいりました。こちらからはその代わりにお膏薬をもらって帰りましたが、その椎茸のやわらかで肉が厚くおいしいことといったら、今はもうとうてい味わわれない味です」。

 生シイタケとも、干しシイタケとも書かれていない。やわらかくて肉厚なことから、生シイタケを連想するのだが、収穫から荷積み、海上輸送の時間を考えると、干しシイタケの可能性もないわけではないだろう。

 阿武隈高地でも江戸時代、シイタケ栽培が行われていた。いわきでは、先進地の伊豆半島から出稼ぎ人がやって来て、栽培を指導した。二ツ箭山の奥、戸渡(小川)にはシイタケ山があった。

川内村には値段の記録が残っている。『川内村史・資料篇』によると、同村ではシイタケとコウタケを江戸へ出荷した。

安政7(1860)年3月時点での相場は、シイタケ1両当たり1貫550匁、コウタケ2貫400匁とシイタケの方が高かった。シイタケはささかご・むしろ包みにして平城下から、コウタケは箱に入れて送った。

慶応2(1866)年12月には、1両当たりシイタケ中級品500匁、シシタケ(コウタケ)1貫400匁と、3~2倍にはね上がる。

というわけで、生産する側の情報はある程度探ることができる。しかし、江戸に住む消費者の声に触れたのは初めてだ。

「三尺四方もあろうかと思われる大きなかぶせ蓋の箱――分厚な板で頑丈にこしらえた大箱(略)に、ぎっしりと椎茸がつまってあとから方々へ分配するのにも困ったほどですし、邸でも当座は椎茸ぜめの有様」だった。ということは、やはり生シイタケだったのか。いや、でも――という思いは残る。

シイタケはニューギニアからサハリン(樺太)まで分布する。南洋上空に漂っていたシイタケの胞子が、台風の背中に乗って北へ、北へと運ばれた――そんな空想も許されるだろう。

阿武隈高地は、東日本大震災に伴う原発事故が起きるまでは、シイタケ原木の一大供給地だった。原木シイタケ栽培農家も多かった。「みくら島」を読みながら、シイタケにまつわるあれこれを思い出した。

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