2023年12月11日月曜日

鳥獣害対策といわれても

        
 いわき市内でもクマ出没騒ぎがあった。それで思い出した。福島県自然保護課といわき市生産振興課の連名で、区内会に鳥獣害対策アンケートが届いていた=写真。12月中旬が締め切りだった。

 集落でどんな獣害対策を取っているか、というもので、過去のブログに当たると、令和元(2019)年12月の記録が残っていた。そのときのブログを要約・再掲する。

 ――先日、県と市の連名で農作物への害獣対策集落アンケートが届いた。2018年度のアンケート結果も同封されていた。

 農作物に害を与える動物として、イノシシ・ニホンジカ・カモシカ・ニホンザル・ツキノワグマ・カラス・ハクビシンの7種類を挙げ、前年度との増減、本年度の被害状況、被害作物、集落で実施した対策などを尋ねている。

 いわきの平地にあるわが行政区は、田畑を宅地化してできた都市近郊住宅地。農家が主体の隣の区から分離・独立した新しい区なので、農家は1軒もない。前年度もそうだったが、質問にどう答えたらいいものか悩んだ。

イノシシは丘を一つ越えたほかの行政区に出没し、農作物に被害を与えている。とはいえ、わが行政区まではめったにのしてこない。

カラスはもちろん、「燃やすごみの日」に生ごみを狙ってやって来る。ハクビシンも輪禍に遭った死骸を見ているので、いることはいるのだろう。

とはいえ、集落全体で対処しなければならないほど問題になっているわけではない。結局、カラスの数の増減くらいしか回答できなかった――。

「お尋ね者」の四つ足は、今回はイノシシ・二ホンジカ・ニホンザル・ツキノワグマ・アライグマ・ハクビシンの6種。

わが行政区は前述のように農地はゼロといってもいい。集落といっても、住宅が連坦する市街地のようなものだから、「対策は何もしていない」地区に該当する。

しかし、早朝散歩をしていたころは、ハクビシンやタヌキが交通事故に遭って死んでいるのに出合ったことはある。

「いない」とは断言できないし、家庭によっては菜園の被害があったかもしれない。としても、どこで、いつ、といった情報はない。

今回は獣のほかにカラス・スズメ・ヒヨドリの鳥類3種についても質問があったが、これまでのアンケート同様、特筆事項は思い浮かばなかった。

結局、わが地区では生活環境への影響ということになるのだろうが、それはやはり「燃やすごみの日」のカラスに尽きる。

カラスが生ごみを食い散らかすのは、ごみを出す側の人間の問題、言い換えればカラスの知能や行動についての無知が招いたものだ。

「アーバンベア」ならぬ「アーバンクロー」のことを頭に置くようにすると、カラスの生ごみ被害は減る。

2023年12月9日土曜日

初めての同時代文学

           
 現代詩の1行、「日常に堪えられない思想はだめである」が、いつの間にか私のなかで「現実に堪えられない思想はだめである」に変成していた。

 作者は先日、88歳で亡くなった三木卓さん。31歳で詩集『東京午前三時』(思潮社、1966年)を出す。それに収められた「若い思想」の中の1行だ。

 昭和46(1971)年、同じ思潮社から現代詩文庫『三木卓詩集』が出た=写真。本棚を探したら、すぐ見つかった。「若い思想」に付箋(ふせん)が張ってある。原文はやはり「日常」で、「現実」ではなかった。

 なぜこの1行が胸に刺さり、さらに「日常」が「現実」に変成したか――というと、たぶん新聞記者になったことが大きい。

記者は目の前の現実、つまりは事実をできるだけ正確に文章化しようとする。交通事故などのストレートニュースといわれるものがそれだ。

同時に、記者は「論説」や「解説」などで公人や組織を批評する。批評する人間が同じようなことをしていたのでは、信用は得られない。行動と思考が乖離し、文章が空疎なものになってしまう。

別に正義感や倫理観が人より強いわけではない。が、警察回りをしていると、つい「なんで酒を飲んで運転したのか」とか、「なんで怒りを抑えられなかったのか」などと、傍観者(あるいは建前)の目で事件・事故を見てしまう。

 そのとき、はねかえってくるのが、「そういうおまえはどうなんだ」という、もう一人の自分の声だった。

 この自問が強く深くなるにつれて、「日常に堪えられない思想はだめである」が、「現実に堪えらない思想はだめである」に変わっていったようだ。

 新聞社をやめたあと、旧知の区内会の役員さんがやって来た。「区の役員になってくれないか」

新聞ではコラムにあれこれ書いてきた。区内会などへの住民参加も呼びかけた。そんな人間がここで断れば、「いうこと」と「やること」が違うことになる。

「日常に堪える思想」の戒めに従えば、役員を引き受けないわけにはいかない。「会社人間」から「社会人間」へ、である。「いいですよ」と即答した。

 師走最初の日、三木卓さんの訃報が新聞の社会面に小さく載った。同じ日、同じ新聞に、89歳の脚本家山田太一さんの訃報が1面、追悼の記事が社会面に載った。

メディア的な価値判断(ニュース性)の違いにあぜんとした。三木卓さんは、いわばマイナーな扱いだ。

 きのう(12月7日)、図書館へ行くと、さっそく追悼コーナーに山田太一さんの本が追加されていた。三木卓さんの名前はなかった。

ここでも「特出し」するほどではないという判断だったのだろう。図書館には、彼の著書がいっぱいあるのだが。

 しばらくは手元の『三木卓詩集」をパラパラやって、ひとり静かに偲(しの)ぶこととしよう。

2023年12月8日金曜日

師走最初の白菜漬け

                     
 師走に入ると同時に、この冬最初の白菜漬けを食卓に出した=写真。11月27日の夕方に漬け込んでから3日半。少し早いかなと思いながらも、今年(2023年)最後の月になったので「試食」した。三和産の白菜で正解だった。株元が甘かった。

 ブログで何度も書いていることだが、わが家の漬物は私がつくる。春から晩秋まではキュウリを中心にした糠漬け、師走から春先は糠床を冬眠させて白菜漬けに切り替える。

 11月17日の日曜日、三和町のふれあい市場へ出かけて白菜を2玉買った。最初の白菜漬けは三和産で――。そう決めているのは、三和町がいわき市のなかでも山地に位置しているからだ。

 白菜は寒くなると、凍るまいとして糖分を蓄える。これが甘さのもとになる。真冬になれば、山地(三和など)でも平地(平など)でも甘くなるので、場所は選ばない。

 ふれあい市場で買ってから1週間余り、大根を最後の糠漬けにしたこともあって、それが切れるのを計算しながら、風のやんだ11月27日朝、2玉をそれぞれ八つに割って干した。

 干したら待ったなしだ。夕方にはユズの皮をみじんにし、唐辛子を刻み、ミカンの皮と昆布、塩を用意して、甕(かめ)に漬け込んだ。

置く場所は、明るい台所ではなく、北寄りの階段の下と決めている。そこは、家のなかでは一番ひんやりしているところだ。

猫を飼っていたころ、酷暑の夏になるとそのへんで昼寝をしていた。それを参考にした。

 というのは、漬けて何日かすると、白菜から出た水の表面にうっすらと白い産膜酵母が張る。減塩だけでなく、暖冬気味だと膜の張るのが早い。これが広がると味が落ちる。

 そこで今回は産膜酵母がぽつりぽつりと浮かび始めたばかりの夕方(漬け込んで8日目)、しんなりした白菜をタッパーとポリ袋に入れて、冷蔵庫に収めた。

 私は、葉の1枚、1枚を開けて食塩を振る。株元は硬いので多めに――というのがこれまでのやり方だった。

今回は白い株元に塩味が残るのを避けるため、そこはサラッとやって、黄色い葉の方に多めに振った。それでも、ひとかけら、ひとかけら、塩味が違う。やはり「アンバイ(塩梅)」が難しい。

 早々と甕が空になったのを見て、カミサンが次の白菜を買わねば、という。知り合いへのお福分けを狙っているようだ。

うまくできたらそれもかまわないが……。ときに塩味が強すぎるのがある。ということで、お福分けはまだしない。

 それよりなにより、次はカミサンのいとこがつくっている白菜を手に入れたい。ちょうど1年前、普通の白菜より見た目で3割は大きい白菜が届いた。

8つ割りにしただけでは甕に収まらない。全体を10に割り、さらに幾つかは外側の葉と内側の葉を2つに分けて漬けた。

何日かたって一切れを取り出して試食したら、意外や意外、軟らかくて甘かった。平地の白菜のイメージを越えていた。それをまた漬けたい。

2023年12月7日木曜日

いきなり「いわき弁」

                     
 朝は起きるのが遅くなった。日が替わったばかりの真夜中にブログをアップする。と、未明の5時になっても安心して寝床でぐずぐずしている。暗いうえに寒い。実はこれが一番の理由といってもいい。

 10月後半から11月いっぱい、たびたび国道6号(旧バイパス)を利用して小名浜方面へ向かった。夕方近くに出かけると、すぐ日が沈む。それで先日は燃えるような夕焼けに出合った=写真。

 いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造からなる。いわきのハマなら、どこでもこれと同じ「大火事の空」が見えたことだろう。

 なぜハマの話から始めたかというと、朝ドラの「ブギウギ」に突然、「福島県出身」の「小林小夜(こばやし・さよ)」(富田望生=みう)が登場したからだ(というのはこじつけだが)。

 初めて顔を出したのが11月28日の火曜日。いきなり主人公の福来スズ子に「おれを弟子にしてくんちぇー」「ほんとげー」ときた。急いで情報を探ると、福島県出身だけでなく、「貧しい漁師の娘」という役柄だった。

 同じ朝ドラの「ひよっこ」(平成29年)に出てきた「小名浜中学校卒業」の「青天目澄子(なばため・すみこ)」(松本穂香=ほのか)以来の、いわきのハマ出身の女の子ではないか(たぶん)。

 富田自身、いわき市で生まれ育った。小学生のとき、東日本大震災に遭遇し、その後、母親の仕事の関係で上京した。「ほんとげー」「してくんちぇー」がネイティブいわき弁なのも当然か。

 この小夜ちゃん、スズ子の下宿に泊めてもらったのはいいが、翌日にはスズ子の父親と酒盛りをして、スズ子に追い出されてしまう。

 はて、このまま消えるのか、と思っていたら、師走第2週の月曜日(12月4日)、スズ子の付き人として復活した。

 「ひよっこ」の主人公は、「奥茨城村」出身の「谷田部みね子」(有村架純=かすみ)。昭和39(1964)年の東京オリンピックのあとに高校、中学校を卒業して、東京の会社に就職した少女たちの物語だった。

集団就職列車のなかで、奥茨城村の3人組(少女2人、少年1人)が澄子と出会う。澄子はいわきの小名浜中学校を卒業したばかりだった。しかも、職場と寮がみね子と同じ東京のトランジスタラジオ工場だった。

 一方の小夜ちゃんは、これからおいおい出自が明らかになっていくのだろうが、やはり「くんちぇー」「ほんとげー」がすんなり入ってくるので、つい近所にいる現実の女の子のように思えてしまう。

 おととい(12月5日)は太平洋戦争の開戦が描かれた。スズ子は弟の死と、歌って踊れない悔しさを胸に秘めながら「バンザイ」を叫ぶ。そしてあすは83回目の、その日。

 ついでながら、令和2(2020)年には、福島出身の作曲家古関裕而をモデルにした朝ドラ「エール」が放送された。平成25(2013)年の「あまちゃん」は、舞台が岩手県の三陸だった。

震災後の東北への「応援歌」という意味もあるのだろう。今度は「がんばっぺ!いわき」、いや「がんばっぺ!小夜ちゃん」だな。

2023年12月6日水曜日

「民藝」展を見に

                     
 いわき市立美術館で「民藝」展が開かれている=写真。10月28日に開幕したが、いつでも行けると思っているうちに閉幕(12月17日まで)が近づいてきた。

 一度見に行ったカミサンに促されて、日曜日(12月3日)の昼、夏井川渓谷にある隠居の畑でネギを収穫したあと、美術館へ直行した。

 「民藝」は「民衆的な工芸」のことで、手仕事が生み出した日用品に美を見いだす考えが根底にある。およそ100年前、柳宗悦(やなぎ・むねよし)が提唱した。

 「衣食住」でいうと、「衣」は丹前・襦袢(じゅばん)・蓑(みの)・着物など、「食」は鉢・皿・湯飲み・猪口(ちょこ)など、「住」は箪笥(たんす)・椅子(いす)・行燈(あんどん)・自在鉤(じざいかぎ)など。その他さまざまな暮らしの用具が展示されている。

 「福島の民藝」の一つとして、会津本郷焼の「黒釉(こくゆう)湯たんぽ」があった。カミサンがこれを持っている。この湯たんぽを見せたくて私を引っ張って行ったようだ。

大正~昭和初期の文化関係の本を読んでいると、時折、「民藝」という言葉に出くわす。柳宗悦の文章を読んだこともある。

それもあって、ふだん使っているご飯茶わんやぐい飲みをはじめ、陶器や衣類、小物などにも、「用と美」を考えることがある。つまりは「好み」が出る。

 「住」のコーナーに展示されていた角(かく)行燈には、懐かしさと同時に違和感を覚えた。

 懐かしさは、子どものころ、母の実家へ泊まりに行くと、夜の明かりは石油ランプと角行燈だったことによる。

 違和感は、その大きさだ。私が小さかったからかもしれないが、行燈はもっと長く大きく見えた。展示物は意外と小さい。私が小さいころ目にした行燈とは違うのだろう。

 阿武隈高地の鎌倉岳のふもと、都路村(現田村市都路町)の小集落に「バッパ(祖母)の家」があった。小学4年の春休み、一人でそこへ泊まりに行った。

 それまでにも、母親と一緒に泊まったことはある。ランプがつくる自分の大きな影におびえた記憶もある。

枕元には角行燈が置かれた。角行燈は、江戸時代に最もよく使われた屋内用の明かりで、周りは和紙で囲われており、中に火皿が置かれている。

 ふだん暮らしている自分の町の家々には電球がともっていた。電球が当たり前の世界から、突然、ランプと角行燈の世界にタイムスリップしたような感覚が胸に残った。昭和30年代前半のことだった。

当時は個人の自己負担が大変だったらしく、たった1軒のために電柱を立てて電線を引っ張る、などということは考えられなかったのだろう。その意味では、「バッパの家」は、毎日がキャンドルナイトだった。

「バッパの家」は、風呂と便所が同じ屋根に囲われて外にあった。風呂には提灯(ちょうちん)を提げて行った。

夜が更けると、満天の星。そして、向かい山からはキツネの鳴き声。ランプと角行燈の次にはそんな情景が途切れることなく広がる。

2023年12月5日火曜日

最後の紅葉

                      
 いわきの平地のカエデも、真っ赤に燃えあがってきた。

 カエデは生命力が強い。夏井川渓谷にある隠居の庭に毎年、実生のカエデが現れる。それをカミサンがポットに移したのが何本か大きくなった。

 その幼木をわが家の庭に植えたら、いつの間にか1階の屋根を超えるまでに生長した。そばにある柿の木も含めて、後輩に剪定してもらったことがある。

 柿の葉などが落ちた11月下旬から師走にかけて、そのカエデが赤く燃え上がる。同じころ、夏井川渓谷ではあらかたカエデが散り始め、畑ではネギの収穫が真っ盛り、となるのだが……。

渓谷の隠居にある畑では、三春ネギだけを栽培している。ほかに、やはり実生で育つ辛み大根の葉が畳2枚分くらいのスペースを覆っている。

来年定植するネギの苗床のわきに、去年からの古い苗床がある。取り残したネギ苗が少しある。苗といっても白根がないだけで、大きな葉ネギのようなものだ。

12月3日の日曜日、残りの苗を全部取り、さらに今季初めてうねの一部にスコップを入れてネギを収穫した。

 白根を長くするには溝を深くする。しかし、地下水がたまりやすいので、最近は浅く植えて土を高く盛る方法に切り替えた。

 溝を深くすると梅雨どきにネギが根腐れをおこすことがある。それを避けるために、たとえば郡山市の阿久津地区では月遅れ盆のころ、一度掘り起こして溝を斜めに切って植え直す。いわゆる「曲がりネギ」で、師走ごろに収穫・出荷が始まる。

 土地の人が「三春ネギ」といい、私も子どものころはそのネギを食べていたので、まだ体力があるころは、隠居でも曲がりネギにしていた。今はその作業がきつくなったので、まっすぐのネギにしている。

 ネギの初収穫を頭に置きながら、渓谷に入る。カエデについていえば、磐越東線の江田駅を境に、夏井川の上流側、つまり隠居の周辺ではカエデがあらかた散った。ところが、江田駅から下流側ではまさに紅葉の絶頂だ。

平野部からいえば、磐東線の上小川トンネルに接続する磐城高崎踏切を渡り、地獄坂を上りきると夏井川渓谷に入る。

すぐロックシェッドが待ち構えている。この構造物の出口付近がまるで額縁のようになって、その先にあるカエデの紅葉を切り取る。構図的にはこれが一番おもしろい。

11月26日の日曜日、カミサンがそれに気づいたが、私が車を止めずに通り過ぎたので、カメラが間に合わなかった。それから1週間後、ロックシェッドが近づくとカミサンがカメラを構えてパシャッとやった=写真。

この燃えあがる「絵」も今度の日曜日には葉が散ってスカスカになってしまうことだろう。これこそが、変転してやまない自然がほんの一瞬、垣間見せる美しさといっていい。

2023年12月4日月曜日

師走に入った

                     
   庭のツワブキが花茎をスーッと一本のばして花を付けた=写真。小さなハナアブもやって来た=写真。これも師走の一点景ではある。

月の初めには区内会の役員と担当班長さんに市の回覧資料を届ける。が、今回は1日の午前中に「仕事」が入った。

その前日、11月30日の午後には義弟が退院する。車で迎えに行かないといけない。アッシー君と仕事の合間に片付けてしまわないと、というわけで、一日早く30日午前中に回覧資料を配った。

師走初日の仕事とは、シルバーサークルで1時間ちょっと話をすることだった。「ニュー碧空の会」といって、ほぼ月に2回、いわき市文化センターを会場に例会を開いている。

受講者はおおむね25人。圧倒的に女性が多い。そのなかに何人か知り合いがいる。一緒にラジオ体操をしてから、マイクを握った。

令和5年度の事業計画によると、体操や座学、マジックなどを楽しむ。私の場合は「文学の話」として予定が組まれた。

自分のブログで確かめると、最初は令和3(2021)年10月だった。「吉野せいの『洟をたらした神』を読み解く」をテーマにした。

いわき地域学會の市民講座と同じ感覚でボリュームたっぷりのレジュメを用意し、あらかじめコピーしてもらった。

すると、そこまではしなくてもいいというので、2回目のレジュメはペラ1枚、今回もA3判1枚(A4判2枚分)にとどめた。要するに、「講義」というよりは肩の凝らない「お話」でいい、ということだった。

前回は「いわきの新聞の歴史」を取り上げた。今回はいわきの「文学の話」に戻って、「草野心平とセドガロほか」という題にした。

セドガロは夏井川の支流、江田川の渓谷のことである。この渓谷が戦後、一般に知られるようになったいきさつを、資料に基づいて話した。

草野心平記念文学館発行の「常設展示図録」の年譜には「昭和21年9月/上小川村江田の渓谷『セドガロ』を『背戸峨廊』と命名、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付ける」とある。

心平の初入渓は「昭和21年9月」ではなく翌22年の10月、「セドガロ」は心平が命名したのではなく、すでに村人が呼んでいた名前に心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた――。

詳しくは避けるが、心平のいとこの草野悟郎著『父の新庄節』や昭和22年10、11月のいわき民報その他から、以上のことが裏付けられる、という話をした。

江田川と加路川は山をはさんで夏井川の左岸に合流する。国道399号沿い、加路川流域(横川・内倉)の住民は山の陰の江田川を「セドガロ」と呼んでいた。漢字を当てれば「背戸加路」、つまり「表の加路川」に対して「裏の加路川」。

そのセドガロに江田青年会や二箭会(小川の有志の集まり)のメンバーとともに、心平が入渓し、滝や淵に名前を付けた。

呼び名もいつか「セトガロウ」に変化したが、今は「セドガロ」に戻りつつある、という話もした。実はここが一番のポイントだったといってもいい。