2023年12月9日土曜日

初めての同時代文学

           
 現代詩の1行、「日常に堪えられない思想はだめである」が、いつの間にか私のなかで「現実に堪えられない思想はだめである」に変成していた。

 作者は先日、88歳で亡くなった三木卓さん。31歳で詩集『東京午前三時』(思潮社、1966年)を出す。それに収められた「若い思想」の中の1行だ。

 昭和46(1971)年、同じ思潮社から現代詩文庫『三木卓詩集』が出た=写真。本棚を探したら、すぐ見つかった。「若い思想」に付箋(ふせん)が張ってある。原文はやはり「日常」で、「現実」ではなかった。

 なぜこの1行が胸に刺さり、さらに「日常」が「現実」に変成したか――というと、たぶん新聞記者になったことが大きい。

記者は目の前の現実、つまりは事実をできるだけ正確に文章化しようとする。交通事故などのストレートニュースといわれるものがそれだ。

同時に、記者は「論説」や「解説」などで公人や組織を批評する。批評する人間が同じようなことをしていたのでは、信用は得られない。行動と思考が乖離し、文章が空疎なものになってしまう。

別に正義感や倫理観が人より強いわけではない。が、警察回りをしていると、つい「なんで酒を飲んで運転したのか」とか、「なんで怒りを抑えられなかったのか」などと、傍観者(あるいは建前)の目で事件・事故を見てしまう。

 そのとき、はねかえってくるのが、「そういうおまえはどうなんだ」という、もう一人の自分の声だった。

 この自問が強く深くなるにつれて、「日常に堪えられない思想はだめである」が、「現実に堪えらない思想はだめである」に変わっていったようだ。

 新聞社をやめたあと、旧知の区内会の役員さんがやって来た。「区の役員になってくれないか」

新聞ではコラムにあれこれ書いてきた。区内会などへの住民参加も呼びかけた。そんな人間がここで断れば、「いうこと」と「やること」が違うことになる。

「日常に堪える思想」の戒めに従えば、役員を引き受けないわけにはいかない。「会社人間」から「社会人間」へ、である。「いいですよ」と即答した。

 師走最初の日、三木卓さんの訃報が新聞の社会面に小さく載った。同じ日、同じ新聞に、89歳の脚本家山田太一さんの訃報が1面、追悼の記事が社会面に載った。

メディア的な価値判断(ニュース性)の違いにあぜんとした。三木卓さんは、いわばマイナーな扱いだ。

 きのう(12月7日)、図書館へ行くと、さっそく追悼コーナーに山田太一さんの本が追加されていた。三木卓さんの名前はなかった。

ここでも「特出し」するほどではないという判断だったのだろう。図書館には、彼の著書がいっぱいあるのだが。

 しばらくは手元の『三木卓詩集」をパラパラやって、ひとり静かに偲(しの)ぶこととしよう。

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