2011年8月31日水曜日

草刈り奉仕


日曜日(8月28日)の朝7時から区内会の役員が出て、所有者のいない元農道の草刈りを行った=写真

住宅地の一角、民家と民家の間に1,5メートルほどのスペースがあって真ん中に幅30センチほどの水路が延びている。普通の三面舗装側溝で、ふたはない。水も流れていない。そのスペースが草ぼうぼうになっていた。

8月16日の精霊送りの日、住民から何とかならないかという相談が区長さんにあった。あとで区長さんが市役所に相談したら、市の土地ではないからか「できません」だった。以前は隣接する借家群の大家さんが草を刈っていたという。それが、いつのまにかとだえた。

区長さんの記憶では、だいぶ前に一度、区で草刈りをした経緯がある。理由は今回と同じだろう。そこで、参加できる役員だけで草を刈ることにした。6人が参加した。

鎌では間に合わない。一人が軽トラに草刈り機を積んでやって来た。日曜日の朝7時。まだ寝ている人がいるかもしれない――と気にしつつ、分担して刈られた草を束ねたり、ごみ袋に詰めたりした。ごみも一緒に拾った。小一時間もたつと、あらかた草が取り除かれ、奥の方まで見通しがきくようになった。

草の繁茂していたところは泥もたまっている。泥はそのままにしておいた。草は3・11以後、しばらくしてから生えてきた。そう気にならないが、泥の放射線量は高いはずだ。

8時前には作業を終えた。新米の保健委員として、手袋を洗い、着ているものを洗い、風呂に入って体を洗ってください――そうお願いせずにはおられなかった。

2011年8月30日火曜日

放射能のせい?


夏井川の岸辺に生えているヤナギが“茶髪”になった=写真。まだ8月、葉はあおあおとしているはずなのに、どうしたのだろう。ずっと夏井川をウオッチングしているが、こんなことは初めてだ。犬を連れた“散歩仲間”にいうと、「放射能のせいか」。いや、それはないだろう。

ヤナギだけではない。堤防のわきや河川敷に植えられたソメイヨシノも、部分的に葉が枯れている。葉っぱのなくなった木もある。ヨシ原から頭を出しているオニグルミも、わが家の近所のカキの木も、部分的に似た症状を呈している。

全部に共通しているのは、枝がクモの巣のようなものに包まれていることだ。その中にある葉は枯れている。どうやらアメリカシロヒトリらしい。大発生といってもいいのではないか。カキの木には幼虫がいっぱいいた。孵化したばかりのようだった。

わが家では毎年晩春、生け垣のマサキがミノウスバの幼虫に食害される。何年か前にはニシキギが丸裸にされた。ゴールデンウイークがくると、毎日、生け垣の観察を続ける。食害された葉が目安だ。その付近に孵化したばかりの幼虫が“だんご”になっているから、枝ごと切ってごみ袋に閉じ込める。これを何回か繰り返せば被害は防げる。

アメリカシロヒトリも駆除方法は同じだろう。巣網のかかった枝を切ってごみ袋に閉じ込める。孵化したばかりの幼虫はほんの小さな空間のなかでうごめいているだけだ。駆除しやすい。タイミングがずれると、ヤナギの木のように遠くから見ても“赤枯れ”がはっきりする。

せめて庭の木だけは守ってやりたいものだ――と、カキの木を見上げたら、やはり部分的に巣網が張ってあって、葉が枯れていた。

2011年8月29日月曜日

踏みにじられた願い事


菅さんはなにしに福島へ来たのだろう。「フクシマ」にしてしまった「謝罪」に名を借りた、「切り捨て御免」のお使いだったのか。

福島民報によると、放射性廃棄物の中間貯蔵施設を福島県内に設置したい、放射線量の非常に高い地域については除染後も住民の帰宅・居住が困難な地域が生じる――これを知事に告げた。ここまで冷たくなれる人間だったのだ、彼は。

同紙から県民の反応を二つ。「辞める人がふらっと来て、言い放っていくとは」(双葉町から愛知県に避難中の町民)「最後の最後に、一番言いにくいことを言いに来た。後は官邸から逃げ出すだけ」(県幹部)

一人ひとりの人間の心など眼中にない。ただただ前から決まっていた国の方針にしたがって、官僚のダミーとなって「宣告」したにすぎない、としか思えない。

ここからは、きのう(8月28日)のブログの続き。菅さんが来県した27日、原発と向き合ういわき(つまり、ほんとうは東京の、だ)の「北のトリデ」、いわき市久之浜町で「奉奠(ほうてん)祭花火大会」が開かれた。

辞める人がふらっと来て、言い放っていたころ、久之浜のイベント会場では、子どもや大人がこんな願い事を書いていた=真。「早くならはにかえれますように」「早く浪江に帰れますように。」「安心して広野にもどりたい」「富岡のみんなとバレーがしたい」。みんな原発のある双葉郡から避難している人たちだ。

人の心に寄り添えなくなった、ぬけがらのような政治家には、こうした切実な願いは届かないだろう。ましてや、「行方不明の母が早く見つかりますように。豊間の復興!!」「ばあちゃんが早く見つかりますように。がんばっぺ!!豊間」、こういう人たちがいわきにいることも。

「取り残す政治」が立ちあがってきた。怒りがわいて我慢がならない、悲しくて涙も出ない――そんな心境の人が「フクシマ」には満ちみちているのではないか。

2011年8月28日日曜日

奉奠花火大会


いわき市久之浜町できのう(8月27日)、「奉奠(ほうてん)祭花火大会」が開かれた。北いわき再生発展プロジェクトチームと久之浜・大久振興対策協議会が主催した。

午前10時半には復興屋台がスタート、正午の開会宣言のあと、音楽ライブ、慰霊祭、じゃんがら念仏踊りなどが行われた。メーンの花火大会は午後7時から。まだガレキと半壊建物などが残る津波・火事被災地区の夜空に色とりどりの花が咲いた。

復興屋台には国際協力NGO「シャプラニール」も出店し、チャイを販売した。昼ごろ、シャプラの手伝いをするカミサンを送り届け、夕方、再び会場へ出かけた。

と、おもちゃのマシンガンを売っている屋台の前に上の4歳の孫がいた。テコでも動かないといった様子だ。もう一組のジイ・バアの家が会場近くにある。そちらのバアバとカミサンが近くで様子を見ていた。私が近づくと、孫は無言で指をさす。これが欲しい、というわけだ。しかたない、「よしよし」をしてしまう。

夕方には晴れて汗ばむほどになった。花火大会開催の時間が近づくにつれて歩行者天国の会場は人で埋まった。旧知の人間10人ほどと出会った。花火打ち上げ場所は、目の前の被災地区の一角。花火=写真=が上がるたびに顔が真上を向き、どよめきがわいた。

あとでもう一組のジイ・バアの家に顔を出す。酒を勧められたが、朝早く区内会の奉仕作業がある。お茶で我慢した。その間もすぐ近くから打ち上げの音がして、ドドンと大輪の花の咲くのが聞こえた。

上の孫は大喜びだが、下の2歳の孫は花火の音が怖いらしく、ジイジにしがみついたままだ。あとで通りを行く子どもを観察したら、3歳くらいの女の子が耳をふさいでいた。やはり音が怖かったのだろう。

「支援の手が届いているとは言い難い地域です。マスコミや人が入りやすく報道しやすい場所とは違い忘れられた場所といっても大げさではありません」。そんなところに住み、自身も被災者の若者たちが企画し、企業や行政、NPO・NGOなどが協力した、気持ちのいいイベントだった。

2011年8月27日土曜日

「青春とバングラデシュ」


2001年5月放送のNHKアーカイブス「青春とバングラデシュ」を見た。国際協力NGOシャプラニールの原点をひもとくような番組だ。これにいわきの人間が登場する。シャプラニールの前身の組織をつくりあげた一人で、私と同じ学校に学び、同じ寮の部屋で寝起きした。年も同じだ。もとの番組は1972年9月に放送された。

私たちは20歳前に前後していわきの学校を飛び出し、東京で合流して高層ビルの建設作業員をしていた。

二人で復帰前の沖縄を放浪したあと、私はいわきへJターンした。彼はそのまま建設作業員を続けた。バングラデシュが大変な犠牲を払って独立すると、キリスト教系の団体が組織した復興農業奉仕団に参加した。そのドキュメンタリー番組だ。私たち二人の関係を聞き知っているシャプラニールの事務局長氏から録画ビデオのCDが届いたのだった。

あらためて番組を見ながら、40年前のそこにはまぎれもない青春があった、バングラデシュの人々のために奉仕しようという熱い思いがあった――そんなことを思うのだった。日本の青年五十数人が2人一組になってバングラデシュ国内に散らばり、水稲栽培のための耕運機の操作方法を指導する=写真、それが目的だ。

破壊された鉄橋、難民キャンプ……。まだ戦禍が生々しい現地の様子にいわきの被災地の姿が重なる。そして、村びとに身ぶり手ぶりで耕運機の動かし方を教える日本の若者たちのひたむきさに胸が熱くなる。

そのストレートな心が見聞きした援助の実態やバングラの自然と人間への思いが帰国後、「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」になった。それが、やがて「シャプラニール=市民による海外協力の会」に発展する。

だから、私は、このNGOはいわきの人間の遺伝子を持っている、と勝手に思っている。3・11以来、シャプラがいわきで支援活動をしているのはその遺伝子のなせる業とも思っているくらいだ。

きょう(8月27日)はシャプラが支援活動を展開している久之浜で「奉奠(ほうてん)祭花火大会」が開かれる。夕方には出かけようと思う。

2011年8月26日金曜日

帰化植物


道路ののり面や道端に白いユリが咲いている=写真。形状からすると、帰化植物のタカサゴユリだ。テッポウユリとタカサゴユリの交雑種である「新テッポウユリ」にも似る。素人には判断がつかない。毎年、8月後半になると急に目につくようになる。

3・11以来、本や資料が崩れたままになっていた2階を、カミサンが片づけた。次から次にモノを持ってきて要・不要を決めろという。夫婦といえども価値観が違う。次の世代はさらに違う。私には必要なものが無価値になる。毎日、ごみ袋に紙片を詰め込む作業が続いた。かなりの資料を捨てた。

およそ15年前のものと思われる手紙が出てきた。初秋になると、切り通しが白いユリの花でいっぱいになる。何という種類か――旧知の植物研究者に電話で問い合わせたところ、なにかの本に執筆した、いわき市の帰化植物についての文章(コピー)が郵送されてきた。そういうやりとりをしたことを思い出す。いわきを知る、その一端として、だった。

ちょうど今年も白いユリが咲き始めた。封筒は捨ててコピーを手元に置くことにした。セイタカアワダチソウ・セイヨウタンポポ・ヒメジョオン・ハルジオン・シロツメクサ・ムラサキツメクサ・キショウブ・オオイヌノフグリ・メマツヨイグサ……と、いわきの帰化植物を紹介したあと、タカサゴユリについて記す。

「ここ10年以内で急速に増えているのはタカサゴユリである」。15年前の時点(それが執筆時期として)での10年以内だから、この白いユリは今からざっと四半世紀前、急にいわき市内で目立つようになったことがわかる。とりわけ今の時期、常磐自動車道はのり面がこの花で覆われる。国道6号の常磐バイパスも花盛りだ。民家の庭にも咲いている。

「タカサゴユリは8月の下旬頃から9月にかけて開花する。翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」。最後の部分はボールペンで文を加除・訂正してある。

タカサゴユリは赤褐色の筋がある。赤い筋のないものもある。このへんが判断を難しくする。要するに、タカサゴユリと新テッポウユリと両方が生えているのだと考えればいい。いずれも園芸種として移入され、あるいは交配されて野生化した。

郊外の道端でこの花を摘む人を見かけた。とはいえ、ヤマユリと違って香りはない。切り花としての人気はいまいちか。

2011年8月25日木曜日

キャベツ泥棒


散歩コースは旧神谷村の一角。神谷は夏井川をはさんで西に位置する旧平市への野菜供給地だった。今も夏井川のそばでは主にネギが栽培されている。

夏井川と国道6号、国道6号と旧国道の間が宅地化するにつれて田畑が減り、すっかり住宅に囲まれた畑もある。

国道6号と旧国道にはさまれた、わが家の近くの畑にある日、札が立った=写真。「キャベツ泥棒発生 8月13日夜」と書かれた段ボールが竹の棒にひもで結わえてある。その一角では初めてのことだ。

川べりの畑に怒りの札が立ったことがある。3年前の4月中旬。「告!! 農作物を取るな ドロボーした作物旨いか 警察に通報してある 地主」。春だから、菜の花を摘み取ったのだろう。きのう(8月24日)朝、今はどうかと堤防から見ると、耕起してならされた、その畑のへりにやはり木札が立っていた。

デジカメで撮って拡大すると、「野菜泥棒」と墨書されている。わきの一行が雨でぼやけて読めない。「酒を持ってこい」と読めるが、まさかそれはないだろう。それらしい字を探ったら、「顔を知ってる」になった。この畑は被害が相次いでいるようだ。

立て札から、あれこれ犯人像を推測することはやめる。でも、栽培者の怒りはわかる。腹が立って、情けなくて、怒りをどこにぶつけていいかわからないのだ。

夏井川渓谷の無量庵で小さな菜園をやっている。畑の作物を取られたことはないが、被害はある。週末以外は留守にしているので、勝手に人が入ってくる。庭木の下に植えた葉ワサビを掘り取られ、今年は3・11以後、畑のへりに植えておいたタラの芽を切り取られた。

無量庵へはテンがやって来る。フンを残していくのでわかる。ノウサギも現れる。埋めた生ごみをあさるのはハクビシンか、タヌキか。四本足で歩行する生きものに荒らされたとしても、それはしかたないこととあきらめがつく。

が、二足歩行の生きものはちょっと違う。作物とそれを育てる栽培者への想像力をもっているはずだ。その想像力にふたをして欲望に走る。そういう品性に怒りが倍加する。人間という生きものは一面で度し難い。

2011年8月24日水曜日

戸部健一写真展


「戸部健一写真展――東日本大震災の記憶・ふるさとの渚で」=写真=がきのう(8月23日)、いわき市平字大町のエリコーナで始まった。31日まで。

戸部さんは平下高久出身の元テレビニュースカメラマン。国会担当、ベトナム戦争特派員などを経てドキュメンタリー番組を手がけ、フリーになったあとは映画「愛しき日々よ」の撮影監督などを務めた。東京とふるさとを行き来しながら戸部プロダクションを経営している。いわき地域学會の幹事でもある。

3・11でふるさとのハマはすっかり変わり果てた。ただ呆然とするしかなかった。が、マスコミが取材に入って来ない。これではいわきのハマの惨状が伝わらないではないか。親戚の女性とその孫2人が津波の犠牲になったこともあるだろう。戸部さんは気を取り直していわきのハマを巡り、シャッターを切り続けた。

震災初期の取材は現役の記者たちにまかせればよい。それが例えば、いわき民報の震災写真集『いわきの記憶』を生んだ。記者たちは津波に追われながらシャッターを切った。震災渦中の現場に立っていたからこそ、臨場感あふれる写真集になった。いわきの「そのとき」をここまで伝えている写真集はほかにない。

それとは別に、一呼吸おいたところからカメラでハマの惨状をとらえ直したのが、戸部さんだ。報道カメラマンとしての経験が、思想が切り取った写真が並ぶ。「やはり、戸部さんの写真ですね」というと、うなずいた。「伝達」と「表現」をはかりにかければ、「表現」に傾く。その「作品」の1点1点から伝わってくるのは人知を超えた自然への畏怖だ。

人間は自然への畏怖をどこかに置き忘れてきた。それがかえって自然を汚し、人間を苦しめることになった――。自然と人間について、深く内省を迫る写真展と言えば言えるか。

2011年8月23日火曜日

定例飲み会


隣組、区内会といえば、身近なコミュニテイだ。その一員として区の役員さんと顔を合わせているうちに、飲み会に誘われるようになった。よその区の役員さん、近隣の交通安全協会支部の役員さんらも参加する。

開催日が、毎月第三土曜日から偶数月の第三日曜日午後4時からに変わった。場所は近所のスナック。上は間もなく85歳になる元校長先生から、下は62歳になりたての石屋さんまでメンバーは11人と少数だ。会費3000円の割には結構、酒の肴が多い。

お盆が過ぎたとたんに秋雨前線が居すわり、雷雨に見舞われることもあった。このところ、雨=写真=か曇りの日が続いている。8月21日の日曜日夕方も小雨がぱらついていた。9人が参加した。

夫人を亡くして新盆を迎えた人がいる。8月20日夜、平・鎌田の夏井川へ灯籠流しに行ってきたという。そこから「ひとりぼっち」と「おひとりさま」の話になった。寂しさの反動というべきなのか、新盆を終えたばかりのその人が性に関するうんちくを傾けて、ウケにウケた。下ネタは人間の活力源だ。

そういえば――と、誰いうともなくいう。校長先生も奥さんを亡くした。一番若い石屋さんも同様、「心にぽっかり風穴があいてます」と笑う。もう一人の人も奥さんを亡くしている。9人のうち4人、いや3人は「ひとりぼっち」、1人は「おひとりさま」だ。それが、60歳以上の現実というやつか。

石屋さんは飲み会の翌日が誕生日。自己申告で承知をしていたので、途中、「ハッピーバースデートゥーユー」を斉唱して誕生を祝った。いくつになっても誕生日を祝ってもらえるのはうれしい――石屋さんの本音だ。家に帰って夜になる。誰もいない。孤独がしのびよる。そのへんの心情がちらりとのぞく飲み会になった。

それもあってだろうか。飲んで食べて話したあとは、それぞれカラオケを一曲やる――いつものパターンだが、酒の量が増し(会費1000円追加)、歌にも力が入って、楽しい気分のままに散会した。

2011年8月22日月曜日

物資無料配付会


きのう(8月21日)午後1時から3時まで、いわき市内3カ所(平・小名浜・勿来)で物資無料配付会が開かれた。いわきNPOセンター、シャプラニール=市民による海外協力の会、なこそ復興プロジェクト、ザ・ピープルの4団体が共催した。

平地区はイトーヨーカドー平店4階が会場になった。昼すぎに様子を見に行った。店に併設の立体駐車場は5階まで「満車」の表示がなされていた。初めて屋上駐車場まで駆け上がった。会場に着くとすでに行列ができていた=写真。駐車場が満パイの理由がわかった。

津波で家を流された人、原発事故でいわきに追われて来た人などのうち、民間のアパートなどに入居した人たちが対象だ。雇用促進住宅、仮設住宅への入居者には、すでに無料配付会を実施している。水や食器、食品などが配られた。

シャプラニールは以前に、仮住まいを余儀なくされている被災者・原発避難者に調理器具セットなどを配った。そのあとの生活支援も兼ねて、アパートなどに入っている人に無料配付会の「招待状」(アンケート用紙にもなっているチラシ)を送った。その中の一人がおととい、わが家に来て招待状が届いたことを報告した。

「招待状」を持参した人に物資を配り、困っていることは何か――アンケートをみて新たな生活支援活動を展開する、といった仕組みになっているようだ。

息の長い支援活動を展開するためにも、知らせを届ける、スタッフが訪問する、といったことは欠かせない。それによって支援団体と被災者・避難者との間に信頼の回路ができる。すると、さらに双方が次の段階へと向かっていく手がかりが得られる。

逆にいえば、民間のアパート入居者は孤立状態、てんでんばらばらだ。それを「招待状」がつなぐ。「招待状が来てありがたかった」。わが家に来た人は言った。そういう人たちがわれわれの隣に住んでいるのだ、いわきでは。

2011年8月21日日曜日

流灯花火大会


夏井川流灯花火大会がきのう(8月20日)夜、平・鎌田町で行われた=写真。週末に向かって天気が崩れ、急にひんやりした。曇天だ。流灯大会の時間まではまだよかったものの、花火大会が始まると同時に、雨がポツリ、ポツリと落ちてきた。でも、花火が湿ることはなかった。河原も、堤防も、橋上も人であふれた。若い親に連れられた幼子がいっぱいいた。

夏井川の流灯花火大会は、川施餓鬼供養がルーツだそうだ。大正5(1916)年、鎌田山にある弘源寺の住職が、夏井川の氾濫による水難犠牲者と遊泳犠牲者を弔うために始めた。それを、2年後に鎌田町青年会が引き受け、何十年もたったあとの21世紀に入って、地元の区内会が引き継いだ。今年で93年目というアナウンスがあった。

区内会の資料によると、旧平市時代は平の夏祭りの最後を飾るイベントとして盛大に行われた。14市町村が合併していわき市が誕生すると、補助がなくなる(ゼロになったのかどうか)。その後、バブル崩壊も重なって有力老舗が次々に姿を消し、資金的に窮迫して花火大会が中止になった。今は実行委員会が組織され、花火大会も復活した。

第一部の流灯大会は午後6時の川施餓鬼供養で始まった。7時からじゃんがら念仏踊り、笠踊り、梅ケ香盆囃子が披露された。第2部の花火大会はそのあと。8時半まで45分の間に、およそ5000発の花火が夜空を彩った。旧国道の平神橋には人があふれ、花火が夜空を燃やすたびに歓声があがった。

今年はどこの夏祭りもそうだが、震災・津波の犠牲者を追悼し、風評被害や原発事故に負けずに復興へ向かっていこう――という願いが込められている。天高く咲いた夜の花を、天上にいった人たちも見ていたことだろう。

平地区の住民にとって、夏井川流灯花火大会は夏から秋へと気持ちが切り替わっていく節目のイベントだ。日をおかずして、子どもたちの夏休みも終わる。今年は少しひんやりした空気に触れて、よけいになにかが変わっていかなくてはならないような感覚に襲われた。

原発に脅かされる「非日常」が続く。としても、より強く「日常」を意識して暮らすのだ、「正気」に戻るのだ――。変わっていかなくてはならない中身なんて、そんなものでしかないのだが、そこが難しい。

2011年8月20日土曜日

韓国料理


いわきで被災者の生活支援活動を展開しているNGO・シャプラニールのスタッフが一夜、平・中町の韓国屋台「さざえ」に集った。私ら夫婦にも声がかかった。東京の本部からは事務局長氏が駆けつけた。計10人で「お疲れさま会」を兼ねて暑気を払った。

なぜ「さざえ」か。経営者が3・11の被災者だった。いわき駅近くに田町という、いわき最大の飲み屋街がある。韓国家庭料理の店「さざえ」はその一角にあった。店と住まいがダメージを受け、近くのマンションに入居した際、シャプラニールの現地雇用スタッフが調理器具一式を届けた。その縁である。

シャプラは緊急支援活動、災害ボランティアセンターの運営支援のあと、一時提供住宅などに入居した被災者の生活支援プロジェクトを実施した。鍋・フライパン・まな板・おたま・フライ返し・その他を届けるという事業で、7月末までに950セットを配った。調理器具は地元企業から調達した。被災企業を支援する意味合いもある。大いに感謝された。

さて、韓国料理だ=写真。白菜キムチくらいしか知らない人間には、出てくる料理すべてが「これ、なんですか」となる。

カクテキ(大根さいころキムチ)、キュウリのオイキムチ、モヤシとゼンマイのナムル(ごま油あえ)、海鮮チジミ(お好み焼き)、ごま油を塗ってうっすら塩味を加えた韓国ノリ、エゴマの葉と唐辛子の漬物(たまり漬け?)……。料理名と中身が合っているかどうか、自信がない。が、そういうものを口にした。

これらを肴に、恐る恐るマッコリ(どぶろく)とチャミスル(焼酎)をやった。酒の肴の豊富さに驚き、それらが口に合うことにまた驚いた。焼酎は別の銘柄のものも飲んだはずだが、名前を忘れた。

経営者はこのお盆、食材の仕入れに済州(チェジュ)島へ行ってきたばかりだという。例えば、炒り子(いりこ)。日本の炒り子はかたいので、どうしても韓国産が必要になる。確かに、済州島の炒り子はやわらかかった。これも酒の肴だ。

韓国料理はピリ辛といっても、激辛ではない。飲んべえにはほどほどの辛さである。ご飯もはかどるだろう。となると、次は焼き肉か。「カルビ」などは10年以上食べていない。

きのう(8月19日)午後2時36分ごろ、強烈な余震がきた。震源地は福島県沖。マグニチュードは6.8と大きかった。そのあと、無性にカルビを食べたくなった。カミサンをせきたててサテイへ買い物に行く。余震にしぼむような食欲では生きていけないではないか、と思いながら。夜はまた人が来て宴会になった。

2011年8月19日金曜日

ひ孫たち


お盆に田村市の実家で母親の7回忌が行われた。最初、連絡がきたときは「おやじの23回忌」だった。そういえば去年9月、秋分の日あたりに父親の23回忌をするから、という連絡があった。それを思い出した。同級生との台湾旅行と重なったので、23回忌はパスしたのだった。

その意味では今年、母親の7回忌と合わせて、1年遅れで父親の23回忌を行ったようなものだ。(前のブログに父親の23回忌と書いたのは間違い。兄貴の勘違いと私の確認ミスだった)

墓地は東の町はずれにある。小高い山の斜面が何段にもならされ、長い時間をかけて墓の団地ができた。新しい家の墓ほど空に近い。急斜面の参道をハアハアいいながら登っていくことになる。

3・11にすぐ上の墓から墓石が降ってきた。わが家の墓石を直撃した。わが家の墓石はなぜか倒れないで逆さまになっていた、という。

親戚に石屋さんがいる。高齢なので引退同然の身だが、わが家の墓だけは直してくれた。いわきの墓地と違って、倒れたままの墓石はない。数が少ない分、修理も早く済んだのだろう。大工さんが修理を代行して喜ばれたという話も聞いた。

故人はどちらも大正4(1915)年生まれだから、生きていれば95歳。4人の子どもは70~50代、その子ども(孫)たちは40~30代、さらにその子ども(ひ孫)たちは中3を筆頭に2歳まで11人いる。うち2人はドイツ人の血を引く。

ひ孫が中心の集まりになった。実家に近い郡山や須賀川に住む姪夫婦と子どもたちが一堂に会した。チビどもは台所の食卓に陣取り、大人たちは和室の座卓を囲む。話はもっぱら3・11の体験談に終始した。

中通りの人間は、テレビを通じて浜通りの津波被害を承知している。が、自分の目で確かめたわけではない。フクシマの惨状を、同じ福島県人として心に刻み、共有するために、「一度、いわきのハマを見ておくといい」と、姪の夫に勧める。原発と向き合う「いわきの北のトリデ」久之浜で3・11を振り返る――きっと得るものがあるはずだ。

精進あげを終えて、盆踊りのやぐらが立つ田村市常葉行政局前広場(駐車場)へ出かけた。ゴーカイジャーとの握手会、いわきの歌手紅晴美さんのショーその他、昼からイベントがめじろ押しだという。久しぶりに人垣を見た=写真。活気のある声に包まれた。ふるさとは元気だ、と思った。

2011年8月18日木曜日

稲作中止田


お盆に阿武隈高地の実家へ帰った。6月にも、震災の様子を確かめるべく、線量計を持って出かけた。同じ道を利用した。いわき市平~同小川町~同川前町~川内村~田村市都路町~同常葉町をたどるルートである。沿線の風景は2カ月前と同じかどうか、変わったとしたら何が変わったか、それだけを注視することにした。

夏井川渓谷(小川)の無量庵で少し土いじりをしたあと、支流の中川渓谷を縫う“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)を、川前・荻へと駆け抜けた。両側から迫ってくる万緑に圧倒される。オニユリとギボウシが咲いていた。クサギとハギも花を付けていた。荻では毎年お盆のころ、フシグロセンノウの花を見かける。やはり、今年も道端に咲いていた。

荻の田んぼにはイノシシ除けの電線が張られてあった。が、今年は稲作を中止したので、不要になった。田んぼには夏草が繁茂していた。オオマツヨイグサが目立つ。

県道上川内川前線から同小野富岡線へと道をつないで川内村に入る。道端の草がきれいに刈られてあった。ドライバーにはそれだけで気持ちがいい。田んぼはしかし、マツヨイグサがいっぱい花を付けていた。そんな状態が、田村市常葉町の東部(山根)まで続いた。

つまり、川前・荻、川内、都路、常葉東部の山里は、集落と山との間に、田んぼだか草原だかわからないような空間が広がっていた。

常葉の一筋町に入る手前、石蒔田でやっと水田に出合う=写真。風もない炎天下、整然と稲が伸びている。常葉の川は西流して、やがて阿武隈川に合流する。石蒔田から下流の西では、ほぼ稲作が行われた。ムラとして当たり前の風景が広がっている。

ただし、稲作中止による補償金の問題が人の心に暗い影を投げかけている、といった話を聞くと、心は穏やかではいられない。

お盆を前に行政が業者に発注したのか、あるいは一時帰宅をした住民が草を刈ったのか、総じて道はきれいだった。問題は、草が茂りに茂った稲作中止田だ。美しい農村景観を復活させるには、まず田んぼの雑草を退治しなくてはならない。ムラに根づく伝統的な美意識を途絶えさせてはならない、と思うのだった。

2011年8月17日水曜日

ハチに刺される


きのう(8月16日)の朝、区内の精霊送りをした。今は環境保全の面から盆の供物を川や海に流すことはしない。あらかじめ決めておいた時間にいわき市役所が委託した環境整備公社から収集車がやって来て回収する――といった特別収集体制がとられている。

わが中神谷南区では毎年、県営住宅の集会所前に祭壇が設けられる。前日の夕方、区の役員が出て祭壇をつくる。今年、初めて参加した。去年は役員1年目。忘れて「ごめんなさい」だった。

まずは草刈りだ。集会所は道路より数段高いところに立っている。庭と、石垣で仕切られた道端の草も、清掃を兼ねて刈る。

道端のススキを鎌でザクザクやりだしたら、軍手の上から左手の甲をチクリとやられた。石垣にアシナガバチの小さな巣があった。ススキを刈ったからわかった。アシナガバチにしては小型だ。コアシナガバチか。

痛いことは痛い。が、ズキズキするわけではない。腫れることもない。「アナフィラキシーショック」はないだろう、という勝手な判断でそのまま作業を続ける。帰宅して、キンカンを塗り、さらに晩酌をやりながらキンカンを塗り続けた。問題はなかった。

去年は、Sさんが別のハチ(スズメバチではない)に刺されて仕事を何日も休む羽目になったという。2年連続でチクリとやられた。

とはいえ、私が無防備すぎた。マチ場だから? そうだろう。マチ場のなかの、全く想像もしないところにハチが巣をつくる。ハチの生態を広く、深く知っていないのだと、反省するしかなかった。

それはさておき、祭壇づくりだ。細い竹が4本。それに杉の葉と赤く色づいたホオズキ、細縄が用意されてある。

竹を四隅に立てる。いわゆる「結界」というやつだ。竹で囲った内側が清浄な領域になる。竹には細縄が張られ、杉の葉とホオズキが交互に挿してつるされる。祭壇は集会所にある折りたたみ座卓を三脚借りて、ブルーシートをかぶせる。そこに盆の供物が積まれる。前日の作業はここまで。

当日、16日。早朝6時には早出の役員が集合する。私が行ったときには、祭壇の前に賽銭箱と焼香台が設けられていた=写真。ミンミンゼミがそばの柿の木で鳴き続け、朝日が早くもギラギラ照りつける。続々と住民が供物を持ってくる。「ご苦労さまです」の一言が暑気を払う。心をほぐす。

およそ2時間半。祭壇は供物の山になった。収集車が来るのは9時。うちわをパタパタやりながら待つこと20分余。収集車が姿を見せると、それっとばかりに役員が「結界」を解き、供物を手渡しで収集車に積み込んだ。

終わって少しの間、集会所で精進あげをした。その時間を利用して、県の補助事業である放射線量の生活空間環境改善事業について、保健委員になりたての私が報告した。「保健委員に従う」と言われる。大変なことだ、これは――びびりながら、気持ちを奮い立たせるしかない、そう思うのだった。

2011年8月16日火曜日

23年前の連載記事


いわき民報の東日本大震災写真集『いわきの記憶』が8月12日、福島放送の宵の番組で取り上げられた。<ふくしまの底力――社員の思いがつまった写真集>=写真=と題して、最前線で津波取材を続けた記者2人が登場し、当時の様子と心情を語った。命がけの取材だったことを、あらためて知る。写真集は今もいわきの書店でトップのベストセラーだ。

テレビを見たあとだった。<なにかやったはず、あったはず>。頭に引っかかるものがあった。日曜日(8月14日)朝、突然、「ウミネコに誘われて」というフレーズが思い浮かんだ。そうだ、いわきの海岸線60キロを、北から南へといわき民報の記者が分担してルポしたことがある。その連載記事のタイトルだった。

いわきの沿岸部が大津波で壊滅的な被害に遭った。人命も、財産も、波にさらわれた――被災者はむろんのこと、津波に破壊される前の姿を知っている市民、そして地元記者にとっては、喪失感は計り知れない。その喪失感が<なにかやったはず>の記憶を手繰り寄せた。

新盆回りのあと、いわき総合図書館へ寄って、いわき民報の縮刷版を見る。見当をつけていた昭和63(1988)年の前半、3月号を開いたら、「ウミネコに誘われて――早春のいわき七浜を歩く」があった。

それを手がかりに、始まりと終わりをチェックする。23年前の立春・2月4日にスタートした。「今日は立春。風はまだ冷たいが、歩き虫がムズムズいいだした。さあ出掛けよう。いわきの海岸線60キロ、北から南へ――」。それからほぼ毎日、47回の連載が続く。昭和最後のいわきのハマの姿を、割合ていねいに伝えている。

伝説やタイ漁の名人、薄磯出身の流行歌手、中世城館の主、小名浜のハマの変貌、その他。手前味噌ながら、今読んでも色あせていない。ハマという場所に生きる人間の日常と自然が記されている。そのハマがことごとく津波にやられた今、昔のハマの様子を伝える貴重な資料と言えるのではないか。

いわき民報アーカイブス、である。津波で沿岸部のまちが消えた。せめて、以前の姿を記録にとどめておきたい――となれば、その一つが「ウミネコに誘われて」だと確信する。

写真集は、このお盆に会った人の多くが「買った」と言っている。写真集もアーカイブになるが、写真だけでは弱い。

沿岸部の日常を、同じ市民として、しかし多少は記者としての目=客観的な視点で取材した、長尺の記録。それが「ウミネコに誘われて」である。

地元紙の使命としてこれを“復刻”する。記事のコピーでいいのだが、3・11以前の、ハマの日常はこうだった――ということを、読者サービスの一環としてやる。どうかやってほしい、という思いが募る。

2011年8月15日月曜日

酷暑のお盆


おととい(8月13日)、きのうと酷暑のなかで新盆回りをした。失礼したところもある。きょうはこれから田村市の実家へ帰る。昼に父親の23回忌が行われる。夕方には帰宅して、中神谷南区の精霊送りのための祭壇づくりに参加しなければならない。16日早朝には区民から精霊を受け取り、収集車が来たら片づける、といった段取りになっているのだ。

いわきだけで震災・津波で亡くなった人は308人、行方不明者は39人。死者を供養する「じゃんがら念仏踊り」は、お盆になくてはならないいわきの伝統芸能だ。青年会のメンバーは今年、特別な思いで「じゃんがら」を演じていることだろう。

庭では朝から蝉時雨がやまない。盆の入りの早朝、ちょっとした仕事をしたあと、蝉時雨にへきえきしながら横になった。

午後も、ネコと同じようにぐたっとしていたら、北茨城市の実家へ帰省した後輩が訪ねてきた。3・11以後、やっとつながったという感じで安否を気遣う電話が入った。それ以来だ。平のオジの新盆回りのついでに、「カラ元気」を装う人間を確かめに来たのだった。

きのうは朝、新盆回りの途次、平下荒川のネクスト情報はましんで林和利個展を見た(16日まで)。

突然、個展の案内状が届いた。はましん社員としての仕事に忙殺され、四半世紀余にわたって表現活動を中断していたのが、3・11を経験して変わった。封印していた創作への思いがわきあがってきた。胸の底から突き動かされるようにしてプランを練った。

床を3月のカレンダーに見立てて、そこに沈みこむ紙袋を配した。それが基本。ほかにも、廊下の壁面を利用してドットと数字を組み合わせた紙の作品を掲示したり、暗くした部屋に光を放つ作品を配したりと、林君は工夫を凝らしている。震度・線量・死者数・避難日数……。数字の受け止め方は人それぞれだろう。

時間的な断絶はあっても、創作上の断絶はなかった。本人にとってはすんなり28年前の延長上で作品をつくることができたという。

大震災・津波・原発事故。今まで経験したことのない不安、無力感に襲われたとはいえ、人間にはそれに押しつぶされない力もまた備わっている。存在の危機にこそアートを胸に宿した人間は創造的な仕事をする。自分を救出するのは創作しかないのを知っているからだ。自分を救えない作品はそれを見る他人をも救えない。林君の話を聞きながら、そんなことを思った。

3月のカレンダーの隣には、寒冷紗?いや不織布?を張り、ところどころに紙コップを配して数字の映る光を当てたものもあった。床には紙コップが並べられている。というより、林君の指示で若い人が並べているところだった=写真。午前9時15分オープンになっても、しばらく作品づくりが行われていたわけだ。

紙コップもまた「沈み込む」ことを企図したものだというが、浮遊感がないでもない。「浮き上がる」という見方をする人もいるという。あふれるアイデアを抑え、鎮めながらも、結構多彩な展示構成になった。

林君のインスタレーションに沈潜したあと、新盆回りを終え、カミサンの実家で一休みをした。夕方帰宅すると、「じゃんがら念仏踊り」の鉦の音がする。今年、近所の新盆家庭は2軒。早速、近所からギャラリーが集まる。これが、いわきのお盆の光景なのだ。

じゃんがらを見ると、気持ちが落ち着く。<さあ、きょうも晩酌を始めるか>となったとき、林君の個展は彼なりの震災犠牲者に対する新盆供養という意味合いがあるのかもしれない、という感覚に襲われた。

2011年8月14日日曜日

保健委員会


中神谷南区=写真=の保健委員を仰せつかった。先日、いわきワシントンホテル椿山荘で平地区保健委員会の総会が開かれ、市長名の委嘱状を受け取った。総会は通常、6月に行われている。震災で2カ月遅れとなった。いわき保健所総務課が行政側の窓口だ。

保健委員会の事業としては①衛生思想の普及と情報の交換②公衆衛生に関する研修会・講習会の開催③公衆衛生に関する調査研究――などがある。委員は行政と地域住民とのパイプ役だという。

これからおいおい勉強を――などと、悠長なことを言っていられる状況ではない。議事終了後、市環境整備課の職員が、福島県の市町村補助事業である「線量低減化活動支援事業」について説明した。

要は、行政区が区内の放射線量を調査したり、清掃・草刈りなど子どもの生活空間における放射線量低減のための活動をしたりする場合、50万円を限度に補助する、というものだ。具体策の詰めを急いでいるところだという。

50万円で空間線量計や高圧洗浄機を買い、さらに作業着やカッパ、ゴーグルなどを調達し、車両の借り上げ料なども見込むことができる。

保健委員には区長経験者もいるらしい。「区長会で市長が8月に線量計を購入すると言ったが、9月になるとはどういうことか」。ほかにも「線量計はバラバラに購入するのか」「既に購入した線量計も補助対象になるのか」といった質問が出された。議事そのものは「異議なし」でも、こと放射線量の問題になると、市のスローモーさを指摘する声が相次いだ。

保健委員は、放射線量の問題に関していえば、区内の“調査隊長”といった役どころだ。調査隊をどう組織し、線量低減活動部隊をどう編成するか。前に県営住宅の児童公園の線量を調べたことがあるが、補助金を使ってやるとなれば公式の活動になる。きちんと記録に残さないといけない。

夏井川下流域に住み、私と同じく保健委員になった知り合い(元同僚)がいる。総会で顔を合わせた。「区長は社長より大変だよ」。区長を経験したらしい。その区長さんと相談しながら準備を進めていくことになるのだろう。

2011年8月13日土曜日

放射線分布マップ


8月10日付の福島民報に緊急時避難準備区域放射線分布マップが載った。17面の拡大図に目が釘付けになった。

南相馬市、広野町、楢葉町、川内村、そしてわがふるさとの田村市の一部(旧常葉町・都路村)=写真=の空間線量が色で識別できるようになっている。「都路街道」は国道288号だ。福島第一原発のある町からほぼ真西に延びる。その沿線に、ところどころ集落が形成されている。

紺色=毎時1マイクロシーベルト以下、青色=同1~1.9マイクロシーベルト、緑色=同1.9~3.8マイクロシーベルト。以下、線量が高くなるにつれて黄色、桃色、朱色となる。

まぎらわしいのは、黄土色であらわされている緊急時避難準備区域の境界線だ。田村市の場合、福島第一原発から20キロ、30キロのラインは同心円で表示されているからわかる。が、緊急時避難準備区域の境界線は、全体図では明瞭なのに、拡大図になると、ん?となる。西側のジグザグの線のほかに、国道288号にもあらかた黄土色が入っているのだ。

いわき市を起点とする国道399号も川内村と葛尾村で黄土色に染まる。どういうことなのだろうか。わからない。

ただ、線量に関しては国道288号より北側、葛尾村に近い都路の一部と鎌倉岳の北東側に緑色のところがあるものの、常葉はおおむね紺色なので、心が波立つようなことはない。母親の実家がある都路は青色が目立つ。常葉と都路の間には、南北に阿武隈の分水嶺が連なる。この山々が放射能雲を遮り、都路で線量が多めになったか。

お盆の15日昼に父親の23回忌をやるという知らせがきた。先日、線量を測りながら実家へ帰ったのと同じルートで、つまりいわき市平~いわき市小川町・川前町~川内村~田村市都路町経由で常葉へ帰ろうと思う。

道々の土手は、耕作が放棄された田畑は、夏草が茂りに茂っているかもしれない。草ぼうぼうの寂しい自然を、前のように温かい景観にしようと頑張っている人がいるかもしれない、という期待も抱きながら。

2011年8月12日金曜日

磐城舞子橋


また目が覚めた。8月12日午前3時22分。いきなり下からドドドときた。震源は直下か、すぐそこの福島県沖――体がそう感じる。3・11から5カ月と一日。本棚の上にある写真立てが三つほど落ちた。震源は、やはり福島県沖。M6.0。双葉郡富岡町、川内村で震度5弱、いわきは4だった。
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先日、知人夫妻がやって来て、あれこれしゃべっているうちに新舞子海岸の話になった。東北地方太平洋沖地震で東日本全体の地盤が海へ引っ張られるように沈下した。それで、新舞子海岸も砂浜が狭くなった。コアジサシの繁殖地が波で洗われるようになっては、産卵・孵化・子育てもおぼつかなかったろう。

そういえば3・11以後、夏井川河口に架かる磐城舞子橋を見ていない。橋と道路の段差が大きくて通行止めになった。通行止めの柵から素直にUターンするだけだった。知人夫妻の話に刺激を受けて、早朝散歩のあと、右岸河口にあるサイクリング公園へ出かけた。駐車場に車を止めて、徒歩で橋へ向かう。

サイクリニストは通行止めの柵を抜け、自転車を持ち上げて段差を越え、橋を渡る。そんな話も聞いていたので、ウオーキングなら自己責任で大丈夫と踏んだのだ。

道路が地割れをしていた=写真。橋と道路の段差はおよそ40センチ。ストンと地面が落っこちた感じだ。ガス(海霧)がかかって遠望はきかない。

海側――。潮騒が近くに聞こえる。砂浜の黒松林が赤茶けている。陸側――。ヨシ原の一角の黒松がなぎ倒されていた。地盤が沈んだところへ津波が襲来した。にしては、防風林は防潮林の役目を果たし、ところどころ赤茶けながらもちゃんと姿を残している。塩分がこれから木々にどう影響するのか。

山口弥一郎著『津波と村』のなかに、陸前高田の松原の話が載る。江戸時代、菅野杢之助なる人物が耕地の防潮のため、砂浜に松を植えた。「この松林のために我らの知れるのみでも明治二十九年、昭和八年再度の津波に、高田町は勿論、附近の耕地の災害をほとんど免れしめた」のである。

その高田松原が今回は壊滅的な被害に遭った。それこそ1本を残すのみで、すべてなぎ倒されたという。

話はそれで終わらない。被害木を薪(まき)にして京都の大文字で燃やす手はずになっていたのが、いわれない「放射能パニック」によって中止になった(朝日)。月遅れ盆の迎え火として8日、地元陸前高田市でその薪が焚かれた。震災には同情しても放射線には拒否権を発動する。遠く離れた非当事者の心情などはしょせんそんなものだ。

と思っていたら、「大文字」側が16日に別の高田松原の薪を燃やす、だと。京都市役所などに批判が殺到したからだろう。陸前高田の人間ではないから、あとは黙る。が、その地で育ち、いわきで画家として生きた松田松雄とかかわった人間の一人として、京都の差別感は記憶にとどめておくだけの衝撃度はあった。

松林からあらぬ方向へ話が飛んだが、新舞子海岸では、生きものもそんなにダメージを受けなかったようだ。

橋のたもとにアカテガ二がいた。アオサギが何羽も松林の上を通り過ぎた。橋の下の砂州にはウミウの群れ。波消しブロックからオニユリが花茎を伸ばし、花を咲かせていた。“ど根性ユリ”ではないか。草むらにはカワラナデシコの花。橋の欄干にはカラスが止まって海を眺めている。人間の接近が途絶えて、生きものにはかえって安心度が増したか。

2011年8月11日木曜日

「フクシマ」論を聴く


いわきフォーラム‘90の第350回ミニミニリレー講演会が8月9日夜、いわきニュータウン内の中央台公民館で開かれた。講師は、東大大学院博士課程に在籍中の開沼博さん。話題の単行本『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』にもとづき、<「フクシマ」論とその後>と題して話した=写真。40人近くが聴講した。

開沼さんは3・11以後、修士論文が単行本になり、各紙誌に書評・インタビュー記事が載る、今最も注目されている社会学者だ。いわき市出身で、原発立地町の現地調査にはフォーラム‘90の事務局長氏らが協力した。

事務局長氏は学生時代に開沼さんの祖父と知り合い、両親とも付き合いのある間柄。開沼家と事務局長氏との三代にわたる交流から、地域の片隅での講演会が実現した。

「福島のチベット」と評された双葉郡の町々は原発を誘致することで財政事情が好転し、住民も出稼ぎをしないですむようになる。地域開発へと政界、財界、メディアが動き、地元が応じることで「原子力ムラ」が成立した。

原子力ムラは日本の戦後成長を支えるエネルギーの供給基地としての役割を果たす。が、財政的な恩恵も永遠には続かない。交付金と固定資産税が減ると再び原発、あるいは関連施設を誘致して財政事情を好転させようという動きが強まる。それはもはや「原子力依存症」といってもいいものだった。

4月の新潟県議選。定員2の柏崎市刈羽郡選挙区では原発維持派が再選された。やらせにつながったのではないかと思われるような佐賀県知事の発言もある。「フクシマ」以外では3・11を経験しても、なおこの依存症状態に変わりはない、と開沼さん。中央と地方でいえば地方の植民地化であり、地方の自動的・自発的な服従だ。

開沼さんは中央のメディアの一過性・気まぐれにも注意を喚起した。東京のメディアは東京に放射線の影響が及ぶうちは報道する。影響がないとなったら報道はしぼむ。そのうちに紙面から記事が消える。去年の今ごろは沖縄の基地問題一色だった、今はどうか。まったく報道がなされていないではないか、と。本社がどこにあるかで報道の視点、質が決まるのだ。

「フクシマ」が忘却されることが一番怖い。そうなると、政府が土地を国有化するだの、核廃物捨て場にするだのといった勝手な計画をつくりかねない。今の地元の状況を伝えていくしかない、というのが開沼さんの「その後」の結論だ。

2011年8月10日水曜日

三陸津波研究


いわき総合図書館へ行ったら、新着図書コーナーに山口弥一郎の『津波と村』(三弥井書店)=写真=があった。帯に<1933年の三陸大津波による集落移動を分析した地理学と民俗学の狭間に生きた著者60年に及ぶ研究成果の集約>とある。3・11を経験して「名著」が再び日の目を見ることになった。

山口弥一郎とくれば、磐城高女、磐城民俗研究会だ。地理の教師として磐城高女に赴任し、昭和10(1935)年9月、柳田國男門下の高木誠一(北神谷)、同僚の岩崎敏夫、高木の甥の和田文夫(四倉)らと「磐城民俗研究会」を創設する。

山口はその年の師走、昭和8(1933)年3月3日に発生した「昭和三陸津波」による村の荒廃、移動調査を始めた。学校の冬休みを利用しての旅だったろう。数次にわたる現地調査のあと、戦時下の昭和18(1943)年、柳田のアドバイスで一般人向けの『津波と村』を出版する。「名著」とはこの本を指す。68年ぶりの復刊だ。

和田文夫も山口の要請を受けて三陸へ調査に入っている。<両石の漁村の生活>を担当した。山口は記す。「昭和十五年には民俗研究の學友である磐城の和田文夫君を岩手へ呼び、三陸海岸一巡の途、特に一日両石の民俗採集を依託した。これは柳田國男氏指導の下にある民間傳承の會が、特に漁村の生活研究資料採集の為作った手帖によった」

山下文男の名著『哀史三陸大津波――歴史の教訓に学ぶ』(河出書房新社)も、山口の本と同様、今年6月に“復刊”された。山口の『津波と村』を重要な引用・参考文献としている。住民の安全のために、という視点で響き合っている本だ。

両方の本を読んで、遠い日、防災面から三陸の津波調査を続けた“いわき人”がいた――ということに、なにか誇らしいものを感じるのだった。

2011年8月9日火曜日

立秋


まるで5月のような感じだった。きのう(8月8日)早朝、いつものコースを散歩すると、ガス(霧)が広がっていた。濃霧というほどではない。が、夏井川の対岸が霧でうすぼんやりしている。立秋だというのに、なんだろう。

3・11以来、睡眠時間が不規則になった。熟睡ができなくなった。もっとも、熟睡できるほどの体力がないことにもよるが、グラッとくると目が覚める。そのあと、寝ようと思っても寝られない。で、散歩の時間が早くなる。その分、日中は小刻みに昼寝をするようになる。いやな習慣だ。

その散歩から戻って新聞を開く。朝日は1面題字わき、日付と天気予報の間に「立秋」の文字。福島民報は、例年だと写真付きで立秋であることを告げる記事が載るはずだが、前日も、当日もない。1面コラム「あぶくま抄」が立秋をテーマに書いているだけ。夕刊のいわき民報は、立秋自体を忘れたか。

新聞には季節の移り行きを伝える義務がある。地域社会は人間だけで成り立っているわけではない。自然があって、人間がいて、その交通のなかで生産と生活が営まれている。そう考えている人間からみると、この「二十四節気」に対する認識の軽さはなんだろう。

3・11以後、新聞社に季節ものを盛り込む余裕がなくなったのか。もっとも、夜7時になって、NHKはニュースで「猛暑日」の立秋を取り上げたが。

夏至からおよそ1カ月半。朝5時前に目が覚めると、以前とは違って薄暗さを感じるようになった。季節はやはり、ひとつ次に移りつつある。

夏井川渓谷ではもうオミナエシが咲いている。カワラナデシコ=写真=も花をつけていることだろう。平地の中神谷でも夕方になると、ヒグラシの澄んだ声が響く。夏鳥のオオヨシキリはとっくに南へ去った。今朝は夏井川の堤防で今年初めて、エンマコオロギの声を聞いた。

2011年8月8日月曜日

平七夕まつり


昔の職場から電話がかかってきた。8月6日に元同僚の退職歓送会をやるという。「3・11」が起きたために、3月末開催の予定が今にずれこんだ。久しぶりに飲み屋街の田町でOB、現役と再会した。

6日は平七夕まつり=写真=初日(8日まで)。夕方、飲み会の前に本町通りの笹飾りの下を歩いた。いや、「笹飾りの下」というのは正確ではない。空が見えないほど笹飾りで埋めつくされる、というのは大げさだが、去年までは笹飾りがしのぎをけずっていた。それが、ない。ポツリ、ポツリ、である。

後輩が営んでいる花屋に入る。「今年は、飾りが少ないなぁ」と私。「飾りは少ないけど、人は出ている。夕方になって多くなった」と彼。確かに、本町通りは行き交う人間でごった返していた。家族連れも、グループも若い世代が多かった。「祈り、そして復興への願いをこめて」が今年の七夕まつりのテーマだという。

七夕まつり2日目のきのう(8月7日)夕方、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の1階に焼酎(田苑)を買いに行く。市内で一番安い。<命の水>がなくなると調達しなくてはならない。それをずっと続けている。空き瓶回収の日は、わが家から一升瓶が何本も出る。カミサンは「恥ずかしい」とひとりごちる。

周囲の通りは、前日より人が出ていた。なんだろう、この多さは。3・11以来、尋常ではない日が続いている。夏祭りはそもそも尋常ではない。「ハレの日」だ。しかし、尋常ではない日がイコール「ハレの日」ではない。「ハレの日」くらいは気分を変えたい、ウジウジ、グズグズを忘れたい。そんな心理がはたらくのかもしれない。

別の言葉でいえば――。まつりは、つまり伝統は人々に記憶が共有されているからこそ再生産される。平時であれば普通に共有されるまつりの記憶が、今年は3・11を経験して違うものになった。飾りは小規模でも特別のまつりだ、群衆のなかに身を置いてその記憶を体に刻みたい、そんな思いに駆り立てられるのだろうか。

日曜日夜の定番、カツオの刺し身で晩酌を始めたころ、いわきで生活支援活動を続けているNGOのシャプラニールのスタッフがやって来た。「これから七夕を見てくる」という。いわきの一大祭りを体験するのも大切だ。被災者と記憶を共有するためにも。

2011年8月7日日曜日

合掌


国宝白水阿弥陀堂の立つ庭を囲むように、心字の池がある。いわゆる浄土式庭園だ。庭園は、この世に浄土を現出したらこうなるだろう、という設計思想に基づいてつくられた。あの世に行って見たわけではないが、浄土にふさわしい心安らぐ景観が広がる。

池の一角にハスの群落=写真=がある。ひとしお澄んだ気持ちになる。いわきの、夏にこそ出かけたい「ほっとスポット」だ。

きのう(8月6日)は「広島原爆の日」。広島市の平和公園で開かれた平和祈念式典をテレビで見た。原爆が投下された午前8時15分、参列者が犠牲者に黙祷をささげる。義父の句に「八時十五分車中で合掌原爆忌」というのがある。それにならって手を合わせ、瞑目した。大きなハスの花の上に日本があればいいな、と思いながら。

松井一實広島市長は平和宣言のなかで東日本大震災に触れ、「その惨状は、66年前の広島の姿を髣髴させるものであり、とても心を痛めている」「広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援している」と述べた。

また、東日本大震災に伴う東電福島第一原発の事故に関連して「国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべき」と政府に迫った。

市長の一言一句が胸に響く。原発事故で福島県民が被曝した。核爆発による被曝とは異なるとはいえ、「ヒバク」を体験したということでは共通する。その思いが、私のなかで福島と広島・長崎を近いものにしているのだろう。

先日、「原発忌」「福島忌」なる新季語にやりきれなさを覚え、反発したい気持ちになる、といったことを書いた。ならば、「原爆忌」はいいのか。義父の句を舌頭にころがしながら、自問する。

そもそも「原爆忌」とか「広島忌」とかを、車窓に現れては過ぎてゆく景色の一部のようにみてきたのではないのか。戦争について語る8月のひとコマとして、あるいは「外部の現実」として「ヒロシマ」があり、「ナガサキ」があった。それが、今年はヒトゴトとは思えなくなった。「内部の現実」化した。

被爆と被曝。原爆忌と原発忌。広島忌・長崎忌と福島忌、あるいはヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。

原発忌と福島忌に反発する以上は、原爆忌や広島忌・長崎忌の季語を安易に使ってはいけない。単に文章を飾り、整えるために引用してはいけない。自分の問題として内部に深く引き寄せて読み、書く。それで必要ならば使う。そんなことを戒めにせよ、と思うのだった。

2011年8月6日土曜日

神様トンボ


わが家の庭の木の下闇をひらひら飛ぶトンボがいた。羽が黒く、腹が緑色の金属光沢をしている。ハグロトンボ、「神様トンボ」の雄だ=写真。毎年夏になると、どこからかやって来て、しばらく逗留する。

まだ成熟しきっていない神様トンボは暗がりを好むという。木の下闇にはヤブカがひそむ。えさには事欠かない。

さて――。去年までだったら、孫が来ると、蚊よけジェルだかローションだかを塗って庭で遊ばせる、というのがお決まりだった。今年は、親がめったに孫を連れて来ない。来ても、少しの時間しかいない。庭で遊ばせたら、それこそ親が血相を変えて怒るだろう。

幼児は庭の小さな生きものに目を見張る。アリ、ダンゴムシ、ミミズ、カタツムリ、ナメクジ、カエル、クモ、カマキリ、テントウムシ……。

孫が大好きなのはダンゴムシだ。庭へ出ると、すぐ石や木片をひっくり返す。湿って暗いところに潜んでいたダンゴムシは大慌て。さわると丸くなる。それを入れ物に拾い集める。来るたびに庭へ出て、石をひっくり返す、ダンゴムシをつかむ――を繰り返す。ダンゴムシにとってはいい迷惑だ。

その遊びが、今年はできない。孫の頭の中はどうなっているのだろう。禁止・中止・ダメ・ストップ……。知らず知らずに興味がしぼんでエンストしないだろうか。

石をひっくり返してダンゴムシをつかむ。容器に入れる。そんな遊びができる場所に連れて行きたいものだが、となると県内では会津くらいしかないのだが……。

会津美里の後輩は福島市の小学生2人をボランティアであずかっている。夏休みの1カ月間、放射線量を気にせず、のびのびと過ごさせたい――というわけで、先日は雨の合間に本郷焼の陶芸体験や花火大会を楽しんだという。

庭では盛んにアブラゼミが鳴いている。ニイニイゼミはもう“退場”したようだ。アブラゼミに負けじと、時折、ミンミンゼミも鳴く。孫にセミの抜け殻をあげたいが、きっと親が拒否するだろう。

2011年8月5日金曜日

貞観地震復興の功


『いわき市史』第一巻原始・古代・中世編の320ページに「貞観大地震復興の功」という小見出しが躍る。「日本三代実録」貞観12(870)年の項に「菊多郡大部(おおべ)継麿 大部浜成等男女廿一人に湯坐菊多臣(ゆざきくたおみ)賜う」とある。なぜ大部継麿ら男女21人が湯坐菊多臣の姓(かばね)を賜ったのか。

「菊多郡」は今のいわき市南部(鮫川流域)。市史の記述をかみくだけば――。ざっと1140年前の貞観11年5月26日、陸奥の国が未曽有の大地震・大津波に襲われた。清和天皇の詔書に、陸奥の国境で地震が最も甚しかった、とある。菊多郡も被害に遭った(「国境」は今の言葉で「エリア」を指すと教えられた。常陸との境の菊多郡が甚大な被害を受けた、ということではないらしい)。

21人が湯坐菊多臣の姓を賜ったのは、この大地震・大津波の復興に貢献したからだろう、というのが、「貞観大地震復興の功」筆者の考えだ。具体的に推測している。ただし、文章が難渋でわかりにくい。それを整理して、想像力をはばたかせると――。

北茨城から宮城・多賀城への海道(街道)は海浜に近いコースをとったはず。五浦、平潟、九面(ここづら)の海浜は、陸中のリアス式海岸のように海に面する急崖が多い。そこに菊多剗(せき)があった。この剗が大地震で崩壊し、海中に没した。菊田剗を実証するものが一片も残っていないのはそのためだろう、ということになる。

菊多郡の大領、つまりトップの一族が新たに関路を開き、仮剗所を設置し、大津波に遭った住民を救済した。その公勤を賞された(湯坐菊多臣の姓を賜った)と解したい、と筆者。こういう解釈は「千年に一度の超巨大地震」に遭遇した今、腑に落ちる。古代史にうとい人間でも、時空を超えてリアルなものを感じる。

先日、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。企画展「磐城平城の町Ⅱ」(8月21日まで)をのぞいたあと、常設展示室前の壁に掲示されていた「いわきにおける地震・津波」の資料(いわき市史からの抜粋)をながめて、貞観地震の際の、いわき地方の様子の一端がわかった。

東日本大震災では、いわき南部は岩間海岸が大きな被害に遭った=写真。貞観地震以来の大災害だったことを、足元の歴史が、記録が教える。

2011年8月4日木曜日

三春ネギを伏せ込む


仕事も一段落ついた。曇天だから、汗をかいてもクラクラするようなことはない。きのう(8月3日)朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。三春ネギを「曲がりネギ」にするために、溝を斜めに切って伏せ込むのだ。

ほぼ1カ月前に表土をはいだ。そこが伏せ込み(方言で「ヤトイ」という)の場所。春に仮植えしたネギ苗の本数に合わせて、畳3枚分くらいのスペースに五つの溝を切った。ロープを張って溝が直線になるようにスコップを入れる。その溝に対して斜めに土をカットする。カットした土はネコ(一輪車)で畑のそばのヤブに運ぶ。そこしか置き場がない。

ササダケが密生した荒れ庭だった。開墾をして小さな菜園ができた。土も15年の間に黒くやわらかくなった。ところが、原発震災で一切が暗転した。すべての場所が放射性物質で汚染された。わが菜園も無事ではない。線量を少しでも減らすには表土をはぐしかない。溝を切る段になって、やはり東電と政府への怒り、そして呪詛がこみあげてきた。

溝は5列といっても、長さにすれば10メートルちょっとか。たいしたことはないようだが、休みなく体を動かしても3時間余りかかった。

そのあとがまた一仕事だ。脇のうねからネギ苗を掘り起し、皮をむいてきれいな白根にする。細いものは植えても大きくならないから取り除く。そうして選り分けたネギを溝に並べる。並べたら、堆肥をかぶせて軽く覆土する――と指南書にある。

堆肥は、落葉や庭の刈り草を集めてつくる。そのための枠を庭の一角に設けた。シートをかぶせてある。とはいえ、枠から刈り草がはみ出している。汚染稲わらと同じだ。これは除去しなくてはならない。

枠の下の方では落ち葉が分解して黒々と層をなしていた。底の方の堆肥を取り出す。と、雨がぱらつきだした。ネギの白根の先に堆肥をかぶせ、軽く覆土するころになると、雨脚が強まった=写真

後片付けは中止にして、家に駆け込み、昼食をとり、昼寝をして、晴れるのを待った。が、雨はやみそうにない。傘をさして後片付けをする。

今年の8月は、後半にいろいろ予定が入っている。お盆上がりに伏せ込みを――ともくろんでも、突発的な飲み会が入ってくるのでうまくいかない。カンカン照りが続けばやりたくなくなる。きのうしかなかった。これで、すっきりした気持ちでお盆を迎えられる。

2011年8月3日水曜日

写真集『いわきの記憶』


写真集『いわきの記憶』のことを書こう。正確には『東日本大震災 特別報道写真集 3.11あの日を忘れない いわきの記憶』=写真。タイトルとしてはちょっと長い。散文的でもある。古巣のいわき民報社が発行した。

先行予約の記事が載ったとき(夕刊だから、晩酌をしようかという矢先)、すぐさま会社に車を飛ばして3冊を注文した。景気づけの意味もある。連絡がきて、7月13日に写真集を取りに行った。

あの日3・11、小名浜で、四倉で取材していた記者が津波にマイカーを流された。本人たちも津波に追われた。小名浜の記者は、県小名浜港湾建設事務所に駆け込んだ。その記者たちが撮影した「そのとき」の写真、読者から提供された別の場所の「そのとき」の写真もある。

空撮のような「鳥の目」の写真はない。すべて被災者と同じ目線、「ヒトの目」の写真だ。津波がすぐそばに来ている、その迫真性。被災住民にとっては、自分の体験した世界がそこにある。

荒々しい「波の壁」に多くの人がのみこまれた。その時間に一番近い姿を映し出している写真集だ――といえば、なんだ古巣の応援歌か、と言われるかもしれない。その通り。でも、それだけではない。

これは、いわきの文化にとって大変なニュースだ。いわきの出版文化史という切り口からみると、かつてない現象が起きている。そう感じたのは、鹿島ブックセンターの従業員のツイッターにこうあったからだ。「かき氷がとけるがごとく、なくなっています」。月並みな言葉でいえば、飛ぶように売れている。エッ!である。

初刷りからほぼ半月。同書店へはきのう(8月2日)を含めて二度出かけたが、二度とも品切れで「本日午後□時頃入荷」「8月10日頃入荷」の張り紙があった。これは取材しないわけにはいかない。

で、わかったこと。わずか半月で1万部以上は出た。いわき市で出版物が1万部を超えれば「ベストセラー」だ。それは、いわき地域学會でかなりの数の出版物を手がけた経験から言えること。間もなく1万5000部はいくだろう。いや、私の経験知(あてにならないかもしれないが)からは、1万8000部、2万部も視野におさめていいかもしれない。

鹿島ブックセンターだけではない。やはりきのう、写真集の有無をチェックするためにヤマ二書房のラトブ店、本店を巡った。写真集はなかった。8月10日頃の入荷待ちということなのだろう。

過去のベストセラーのなかには、書店だけでなく、みんなで手分けして“行商“した結果、大台に達したものもあった。今度のように、書店の平積みだけで、それこそ「かき氷がとけるがごとくなくなる」ことはなかった。

前にこの欄で紹介した写真集『HOPE』も増刷された。鹿島ブックセンターに平積みされていたので、分かった。これもまた、いわきの海と人の鎮魂と希望の写真集だ。

2011年8月2日火曜日

生活支援物資配布


行き先は、いわき市小名浜下神白字舘ノ越の雇用促進住宅。大津波で被災した市民が仮住まいをしている。日曜日(7月31日)昼前、NGOのシャプラニールや地元NPOなどが協力して、生活支援物資を配布することになった。カミサンが手伝いに行くというので、車で出かけた。

シャプラのスタッフがパルシステム福島いわきセンターの配送車で物資を運んできた。それを、市外からやって来たボランティア数人とともに、集会所に運んで袋に詰め込む。

物資の中身はパンケーキの粉、シロップ、紙コップ、マスク、食器、水その他。お年寄りは段ボールに入った水などは重くて運べない。ボランティアが部屋の番号を聞いてあとから届けた=写真

配付が始まる。次から次に物資の入った袋を手渡す。軽労働なのにたちまち汗がふき出す。毎週末、いわきに入って活動をしているというボランティアが多い。がれき撤去よりは楽だという。それはそうだ。汗はかくが、マスクは必要ない。ヘルメットも不要。なにより「定来ボランティア」であることに感謝の気持ちがわく。

昼前にはあらかた配付が済んだ。あとは、ポツリポツリとやって来る被災者に対応しながら、各自、交代で昼食をとる。私ら夫婦は昼食後、用があるので帰路に就いた。

行きは国道6号のバイパス、帰りは永崎、豊間を抜ける海岸道路を利用した。豊間の知人の家に寄る。津波被害に遭い、内郷の雇用促進住宅に仮住まいをしている大工さんだ。前に訪ねたときは留守だった。今度はいた。そこへ私のブログを読んでいるという大工さんの友人が現れた。一気に話が盛り上がった。

彼は私のせがれ(長男)にも会っている。初対面の人からせがれの仕事の一端を知るとは思いもよらなかった。人には会ってみよ、話してみよ、ということなのだなと思った。

2011年8月1日月曜日

「ほるる」再開


「ほるる」(いわき市石炭・化石館)が7月20日に再オープンした。同施設で活動している「観光ボランティアガイドかもめ」の一人から連絡が入った。「案内しますから、ぜひどうぞ」。7月31日まで観覧無料というので、夏休み最初の日曜日(7月24日)、朝9時の開館時間に合わせて出かけた。長い列ができていた=写真

ほるるも、大震災で展示物が落下したり、傾いたりする被害に遭った。にしても、復旧には時間がかかった。いわき市内の文化・観光施設としては最も遅い再開だった。

館内は家族連れであふれかえっていた。「かもめ」さんのおかげで、一つひとつじっくり見て回ることができた。夏期特別展「いわきの海の物語――アンモナイトワールドへようこそ」ものぞいた。

「ほるる」には今春、いわき市観光まちづくりビューローが入居した。その分、以前のようなスペースの使い方はできなくなっただろう。

どの施設にも言えることだが、常設展だけでは人は呼べない。企画展があるからこそリピーターがつく。企画展は今度で終わりということはないと思うが、気になるところだ。

さて、8月。有料になった今からが勝負。市内ではなく、市外からの親子連れ、それこそ観光客がどのくらい来てくれるか。石炭・化石館のリニューアル問題を検討する懇談会にかかわった人間の一人として、外野から館の動きをウオッチングしていこうと思う。