2012年11月30日金曜日

ツワブキの花


海岸のがけでこの時期、黄色い花を咲かせるものがある。ツワブキだと教えられたのは、もう三十数年も前のこと。すると、内陸部の民家の庭にも咲いているのが目に入る=写真。いわきでは結構、庭に植えられているのではないか。

わが家は米屋(カミサンの実家)の支店。店はカミサンが仕切る。店では、米のほかにちょっとしたつまみのようなものも売っている。仕入れ先は静岡の食品会社。ファクスで発注すると宅配便で届く。その会社からルートセールスの社員が来訪した。何の脈絡もないが、ツワブキは暖地の植物、彼も暖地の人間、などと思う。珍客だからだろう。

年に2回、顔を見せるのだという。スーパーなどの大規模店ではなく、幹線道路沿いの小売店を相手に取引をしている、地道な会社だ。昨年は3・11を受けて、お得意さん回りを中止した。3・11後、初の来訪だ。カミサンとしばらく話していた。

カミサンが、彼の話をかいつまんでいう。福島、宮城、岩手、そして青森までのお得意さんを巡って、津波被害の大きさを実感した。津波で店が流されたり、亡くなったり……。しかし、津波被害を免れた住民の要望で、プレハブ店舗で営業を再開したお得意さんもいる。そんな話を聴くと元気が出る。

そして、ここが肝心なのだが、静岡県には浜岡原発がある。津波被害に遭った東北を、さらに原発避難を余儀なくされた福島を自分の目で見て、それが静岡で起きたらどうなるか、を体で感じたらしい。静岡と福島を結ぶ、こうした細い回路も“当事者”には大切になる。

2012年11月29日木曜日

カラスの親指


またまたカラスの話で恐縮だが、この鳥はとにかく人間の上をいく。「燃やすごみ」の日に、わが家の前のごみ集積所に舞い降り、ごみ袋をつついて生ごみを食い散らかすようになった。少し離れた隣の集積所も、カラスの格好の“えさ場”だ。毎回、群れをなして舞い降りる=写真

「プラスチック容器類」の日は、生ごみは出ないから大丈夫と高をくくっていた。が、この日にも舞い降りてごみ袋をつつくようになった。歩道に散乱した「プラスチック容器類」を見ると、食べかすがついているようなものばかり。どちらかというと、これは「燃やすごみ」として出した方がいいものだ。

週2回の「燃やすごみ」どころか、週1回の「プラスチック容器類」までカラスに襲われる。カラスの記憶力と、ごみネットのすきまを狙ってつつくくちばしの正確さには驚き、あきれて、怒る前に力が抜ける。

朝7時過ぎから“たたかい”が始まる。<カラスめ、カラスめ>とぶつぶついいながら、左手にごみ袋、右手に庭ぼうきをもって、散乱したごみを片づける。おかげで、集積所のそばで集団登校のグループを待つ小学生の姉妹とはあいさつしあう仲になった。

ところで――と、話題を別のカラスに変える。映画「カラスの親指」がポレポレいわきで上映されている。どんな内容かは知らない。急にテレビのワイドショーで取り上げられるようになった。それで「カラスの親指」に興味を持ったわけではない。理由は別にある。

カミサンの同級生から電話がかかってきた。別の同級生からのはがきに、息子が「カラスの親指」の監督をしたので、みなさんにお伝えください、とあった。それで、電話をかけたのだという。

監督は伊藤匡史(ただふみ)さん。母親を介していわきにゆかりがある、ということになる。「カラスのくちばし」のいたずらはよろしくないが、「カラスの親指」はどんなだろう――久しぶりに映画館へ足を運んでみようか、などと思っている。

2012年11月28日水曜日

光のさくら


いわき駅前大通りのケヤキ並木に「光のさくら」が咲いた=写真。夕方の4時になると、ソメイヨシノの花のかたちをしたLED電球に光がともる。光の印象は青みがかった、淡い紫色だろうか。

双葉郡富岡町にある夜ノ森公園はソメイヨシノの名所。春になると、いわきからも夜桜の下で一献を、というグループがあって、誘われたことがある。

都合がつかずに夜桜は見そびれたが、日中、満開の桜のトンネルの中を、車を走らせたことはある。規模が半端ではない。後年、ソメイヨシノの苗木を植え続けた一人の人間の思いが、公園に結実したことを知る。

ソメイヨシノは江戸時代後期、人間が作り出した桜だ。西行が愛した桜は、言うまでもない。山桜。明治になって、急速にソメイヨシノが普及した。戦争に勝つたび(日清、日露)、記念樹として各地に植えられた。寿命は100年前後らしいから、今はどうなっているか。

西行は「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」と詠んだ。それは、自然と人間の関係がそこなわれずにすんだ時代、公害がどうの、地球温暖化がどうの、原発事故がどうの、と考えずに済んだ900年も前のことだ。

「桜の花の下にて春死なん」などという旅人のことばは、福島県の浜通りにはいらない。いつかは「桜の下にて春生きん」、その祈りを照らし出す「光のさくら」だ。双葉郡から避難している人たちを知るにつけ、そんな思いが強くなってくる。

2012年11月27日火曜日

濡れ縁の効用


夏井川渓谷にある無量庵の縁側は、前には幅が30センチ程度だった。3年前の初冬、いわきで大工をやっている中学校の同級生に頼んで、幅1・5メートルほどの濡れ縁に替えた=写真。そこに座って目の前の渓谷林を眺める、というのが狙いだった。

ところが、無量庵へ行けば雑仕事がある。庭の片隅に菜園をつくって以来、行くたびに草引きをする。生ごみを埋める。家の周りをチェックする。森を巡る。濡れ縁に座って対岸の林を眺めながら、<ああ、きれいだ>などと陶然とする時間はほとんどない。

が、濡れ縁にした効果はあった。布団が干せる。だれかが来たときに、そこで語らうことができる。夜にはテンなどもやって来る(ふんがあるので分かる)。

留守の間にやって来て、濡れ縁で一服する知人がいる。11日の日曜日に実施された夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタで、私らと一緒に案内人を務めた学校の元校長先生。「留守のときでもここで休ませてください」「どうぞ、どうぞ」。留守のときが多いのだ。濡れ縁が広くなったからこその“縁”だろう。

きのう(11月26日)は、わが家にカミサンの知人が来て似たような話をしていた。夏井川溪谷へ紅葉を見に行ったとき、無量庵の濡れ縁で一休みしたのだとか。「どうぞ、どうぞ」。私らを知っているだけに、瞬間的ではあっても臨時の管理人になってくれる。なにかあれば連絡がくる。

むろん、そうではない人たちも入ってくる。たばこの吸い殻やごみがあるので、それとわかる。「来たときよりきれいにして帰る」なら、どなたでも歓迎だが、現実にはそうはならない。そこが悩ましい。

2012年11月26日月曜日

やっとハクチョウ定着?


この秋、ハクチョウが早々といわきへ飛来した。が、夏井川にある3カ所の飛来地のうち、最下流の平・塩~中神谷地内には、すぐには姿を見せなかった。現れても朝のうちだけ。日中は姿がない。飛来から1カ月半がたった今、ようやく定着しそうな一群が現れた=写真。全体では60羽ほどか。

きのう(11月25日)は日中、夏井川と新川との合流点から少し下流に、5羽、10羽、20羽といったかたまりで散開していた。おとといもほぼ同数のかたまりがいた。

ハクチョウについては何度もこの欄で書いている。が、今年は特別な気持ちがはたらく。3年も前に姿を消した残留コハクチョウの「左助」が姿を現した。今はまたどこかへ消えたが、ハクチョウの群れのなかに「左助」がいないか、探る楽しみが増えた。

新聞折り込みにさまざまなフリーペーパーが入ってくる。そのなかの一つに、川に引かれる人間の話が出てくるコラムがあった。それを読んだあと、しばし川とハクチョウ、川と人間、川とふるさと(夏井川はわがふるさとの山が水源だ)などに思いが巡った。

コラムには「思い屈したとき、川に吹く風に身を浸してみることをおすすめします」とあった。そんなときこそハクチョウは人間を慰撫してくれるにちがいない。

2012年11月25日日曜日

カンボジアのスズメ


シェムリアップのレストランで昼食をとったあと、店の前で専用バスを待っていたら、そばの広告塔にスズメがやって来た=写真。ネオンらしいのだが、カバーが壊れている。中に巣があるのだろう。カンボジアにもスズメがいる――妙な感慨にひたりながら思ったのは、スズメとイエスズメのどちらか、ということだった。

60歳になって、10代後半を一緒に過ごした同級生たちと海外旅行を始めた。北欧、台湾、そしてベトナム・カンボジア。圧倒的に多い観光情報に留まるな、周りの植物・鳥・キノコも意識して見よ――自分に言い聞かせて、すぐそばの自然にカメラを向けてきた。

北欧のキノコ(店で売っているアンズタケ以外は特定できず)、鳥のコクマルガラス、カササギ、イエスズメ。台湾の鳥・ペタコ(シロガシラ)、街路樹のハクセンソウ(白千層)。そして、ネギ。ネギは台湾も、ベトナムも葉ネギだった。東南アジアは葉ネギの食文化であることが、道路沿いの畑からわかるのだった。

さて、カンボジアの自然だ。遺跡に根を生やしたガジュマルは逆に人を引きつける観光資源になっていた。

人々の暮らしのそばにある小さな自然はどうか。雨に降りこめられたこともあって、つぶさに眺める余裕はない。その中で目に入ったスズメだ。スズメはほっぺたが黒く、イエスズメは白い。撮った写真を拡大してみると、日本のスズメと同じようにほっぺたが黒かった。そんなことがわかるだけでなにかいい気分になるのだった。

2012年11月24日土曜日

正しいごみの出し方


「燃やすごみ」の日になると、家の前にある集積所がカラスに荒らされる。その対策として一計、二計、三計を案じた。一計=ごみネットをかぶせる。二計=ごみを出す人間のためにボードに注意書きを張って立てる。三計は、カラス相手に“カカシ”(人型ハンガー)を立てた=写真。この1カ月余の間のことだ。

人間には、生ごみが見えないように紙で包む、レジ袋に入れるといった、ごみの出し方についての注意を喚起するしかない。ところが、一度生ごみをつついたカラスは、生ごみが見えなくてもあるはずだと決めてかかっているようだ。容器包装プラスチックの回収日でもごみ袋をつつくようになった。

わが家の前の集積所だけではない。別の集積所でも同じような問題が起きている。「この頃ゴミ集積所のゴミ散乱が目立っています」。先日、注意を喚起するチラシが隣組を通じて回ってきた。

ごみ収集作業に携わる人によると、カラスそのものが増えているらしい。それを受けての勝手な想像。スズメは人間がいるところに生息する。カラスも「都市鳥」化した。原発避難によって人がいなくなった双葉郡では、事故前と後とで数に変化はないか。スズメも、カラスも、人がいなくなったので、人のいるところに移動した個体があるのではないか。

ともあれ、人間がスキを見せるとカラスにつけこまれる。正しいごみの出し方を。

2012年11月23日金曜日

線量は低減傾向


4月から月に1回、行政区域内=写真=の放射線量を定点10カ所で測定し、結果を回覧している。11月の測定をしたのに合わせ、これまでのデータを整理してみた。

4月から11月まで8回測定したわけだが、なにが読みとれるか。まずいえるのは、線量が低減傾向にあることだ。放射性セシウム134は半減期が2.1年、セシウム137は30年。セシウム134は、来春には半減する。低減傾向はその流れを反映しているのだろうか。

4、5月は毎時0.2マイクロシーベルト以上だったのが、6月に入ると0.1台にとどまるポイントが出てきた。10地点で高さ1cm、1mの線量を測るから、記録されるのは20ポイント。その後、0.1台が増え始め、10~11月は7~6ポイントで0.2を切った。

高さ1mの、4月と11月のデータを単純に比較すると、11月は5地点で15~18%減、ほかも20%、10%、2%減だった。

なかに県営住宅集会所がある。雨樋の吐きだし口2カ所をチェックしている。軒から柱に沿って垂直に垂れる樋が壊され、雨水が垂れ流し状態だった。6月のチェック後に取り換えられた。こちらも劇的に線量が下がった。

「放射線・除染」講習会のテキストを読んで知った言葉だが、線量の低下の一因に「ウエザリング効果」というのがある。風雨などによる「自然要因の減衰」だ。「放射性物質の物理的減衰」とは半減期のことだろう。数字を記録し、解釈し、それに一喜一憂をする、そんな状況に身を置いている情けなさ、悲しさ、むなしさ、腹立たしさ。

2012年11月22日木曜日

リンドウの庭


庭のリンドウが花盛りだった=写真。亡くなってもう10年。懇意にしていたドクターの家を訪ね、線香をたむけた。

昨年は3・11後、ずっと「非常時」のままだった(今もその感覚に変わりはないが)。命日の11月15日を前に、奥さんから電話があった。「用事があって留守にするから」。没後、初めて焼香を休んだ。

3・11後、知り合いから連絡があれば、何でも取りに行く。洗濯機や衣類、ふとん、本……。衣類などは津波被災者と原発避難者に回す。奥さんからは、その前からときどき連絡があった。ドクターの蔵書を「整理したので」。シャプラニールの「ステナイ生活」に送った。

今度もカミサンが電話をすると、布団と座布団があるという。命日には用事があるというので、きのう(11月21日)、焼香を兼ねて取りに行った。

ドクターに出会うまではステロタイプ的にこう思っていた。医師は仕事が終わると、ストレスを発散するために田町へ行く。田町は、いわき市の代表的な飲み屋街だ。が、ドクターは違っていた。自宅にこもって読書に費やす。もちろん晩酌もする。蔵書から、そうした生活が容易に想像できた。そのうちの何冊かが手元にある。

11月15日は七五三の日。それで、必ずドクターを思い出し、ドクターの家の庭に咲くリンドウを思い出す。私的には「竜胆(りんどう)忌」の日だ。リンドウの青紫色が鮮やかだった。

2012年11月21日水曜日

東洋のモナリザ


旅の効用だろう。東南アジア諸国連合と日中韓の首脳会議がプノンペンで開かれた、というニュースに、カンボジアの自然・人間・遺跡群、なかでも「東洋のモナリザ」と称される「バンテアイ・スレイ」の女神のレリーフ=写真=がパッと思い浮かんだ。

9月中旬の後半、学生時代の仲間とベトナム・カンボジアを旅した。カンボジアではプノンペンの北方、シェムリアップのホテルに泊まり、アンコールの遺跡群を見て回った。

実質二日の初日、アンコールワットの「夜明け」を体験した。雨季の終わり、つまり雨がとめどなく降ってくる時期。曇っていて朝日は拝めなかったが、間もなく降ったりやんだりの一日になった。次の日もそうだった。

アンコールワットの夜明け体験のあと、ホテルに戻って朝食をとり、最初に出かけた遺跡が「バンテアイ・スレイ」だった。「東洋のモナリザ」たちがほほえんでいる。実際、心が吸い寄せられ、見ほれた。右手で傘をさし、左手で写真を撮る。斜めになった。しかたない。

この遺跡は10世紀につくられたという。ほほえみをたたえた女神は時間を超えて美しい。そこが魅力の源泉なのだろう。

旅行者の共通した心理だと思うが、帰国したあともその国のことが気になる。テレビについていえば、ついつい旅行番組を見てしまう。北欧、台湾、ベトナム、カンボジア。観光というのはそういうものなのだろう。

2012年11月20日火曜日

ユネスコの被災学校支援


土曜日(11月17日)に、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。同会幹事でいわきユネスコ協会事務局長の佐久間静子さんが「いわきユネスコ協会の活動について」と題して話した=写真

ユネスコの名前はよく聞く。いわきに協会があることも承知している。が、どんな活動をしているのか、私を含む市民は、実はよくわかっていないのではないか。地域を多面的に見るうえでは、専門的な講座だけでなく、こうした活動報告もありだな、と思った。

ユネスコの正式名称は「国際連合教育科学文化機関」。ユネスコ憲章にある「平和のとりで」を人の心の中に築く活動をしている。具体的には識字率の向上、義務教育の普及、世界遺産の登録と保存などだという。協会の会員に元教師が多い理由がここにある。

昨年、いわきの協会を介して日本ユネスコ協会連合が行った被災学校への支援活動がどんなものだったのか、佐久間さんの報告でよくわかった。

1校あたり150万円、計10校(津波被災幼稚園・小・中・高校6、4月11日の余震被災中学校1、放射能避難小・中学校3)に1500万円の備品支援が行われた。

たとえば、津波に襲われた海星高校。「じゃんがら念仏踊り」の太鼓一式、テレビ、トランシーバー、テレビ用アンテナ工事、ワイヤレスアンプ、横幕などの備品をそろえた。豊間中はデジカメ3台、ビデオカメラ1台、冷蔵庫1台、ラック2台、ワゴン16台、応接用テーブルなど。

ポイントはこれらの備品を地元の業者から調達したことだ。中央の業者に一括発注すれば楽かもしれないが、それでは地元にカネが下りない。地元業者を利用することで地元経済界への震災支援にもなる。佐久間さんらは半年余、被災学校支援に奔走した。

2012年11月19日月曜日

地元学からの出発


いわきの山里=写真=にも通じる話だった。11月16日、いわき駅前のラトブで市主催のまちづくり・未来づくり講演会が開かれた。民俗研究家の結城登美雄さんが「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」と題して話した。

結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。宮城県の旧鳴子町(現大崎市)での「鳴子の米プロジェクト」では総合プロデューサーを務めた。

結城さんと哲学者の内山節さんが対談している、内山節著『共同体の基礎理論』(農文協刊)によれば、市場原理ではなく、一種のフェアトレードとして、米の地域内流通を進める、というのがプロジェクトの目的のようだ。

その過程で多彩なおむすびができる、おむすびを入れる漆塗りの器ができる、くず米を使ったパンができる――といったように、新しい仕事が生まれ、おカネが地域を循環する可能性がみえてくる。

自然とともに生きる村にこそ可能性がある、未来がある――。結城さんは鳴子のほかに、岩手県・旧山形村(現久慈市)の「バッタリー村」、沖縄や宮城県丸森町の「共同店」などの事例を紹介した。

「バッタリー村」の憲章。「この村は与えられた自然立地を生かし この地に住むことに誇りを持ち ひとり一芸何かをつくり 都会の後を追い求めず 独自の生活文化を伝統の中から創出し 集落が共同と和の精神で 生活を高めようとする村である」

結城さんは講演冒頭に、地元学の要諦を語った。「ないものねだり」ではなく「あるもの探し」をする、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す――グローバリズムの経済とはちがったローカリズムの経済、それこそが村には必要なのだ。

結城流「よい地域であるための7カ条」も記しておこう。①よい仕事②よい居住環境③よい文化④よい学びの場⑤よい仲間⑥よい自然風土⑦よい行政――があること。6番目の自然風土が村のあり方を決める。

2012年11月18日日曜日

七五三


「七五三のおまいりをする」というので、きのう(11月17日)の土曜日、平・飯野八幡宮へ出かけた。晴れ着姿の親子連れが次々に訪れていた=写真。ジイバアもいる。こちらもその一人だ。

曇り、ときどき微雨。順番がきて、拝殿のなかに4組ほどの家族がそろった。まとめておはらいを受けた。このグループの主役は5歳、3歳児の6人。

5歳と3歳では体格が違う。落ち着きが違う。神妙に座っている5歳児、わけがわからずに体を動かす3歳児。大人にも通じない祝詞(のりと)が幼児に通じるはずはない。が、なにか自分たちが中心の行事、という感覚はあるらしい。

なるほど人間はチンパンジーとは違う、と思ったのは、玉串奉奠(たまぐしほうてん)だ。若い神官にうながされて「2礼2拍1礼」をする。次の子、そのまた次の子がたちまち学習し、神官の言葉にあわせてそつなくこなす。3歳児もそれらしいかたちをとる。

多摩動物公園でチンパンジーの飼育係をしていた知人がいる。知人の本や、テレビの番組を通して類人猿の学習能力の高さは承知していた。人間同様、しっぽがないということも。

で、ヒトの子も最初はチンパンジーの子と変わらない、などとみていた。が、3歳を過ぎたあたりからぐんぐん知恵がついてきた。ヒトに近づいてきた。背広を着てネクタイを締めた5歳児は、思った以上に“紳士”だった。

2012年11月17日土曜日

ケヤキの落ち葉


いわき駅前大通りのケヤキが落葉して歩道にたまっている=写真。車道のへりも落ち葉に覆われている。この時期、沿道の店の人たちが片づけても間に合わないのだろう。

別の場所だが、知り合いの店の前に公園がある。何年か前、知り合いが落ち葉をごみ袋に詰めていた。「燃やすごみ」として集積所に出すのだという。それはもったいない。翌日だったか、乗用車に積めるだけ積んで夏井川渓谷の無量庵へ運んだ。街の落ち葉を山に返す(家庭菜園用に堆肥枠に入れる)――そんな気持ちからだった。

その山里で落ち葉が降る、道路にも、線路にも。線路に落ち葉が積もると、列車の車輪が空回りする。そうならないよう、早朝、地元の人が自発的に近所の線路を見て回ると聞いたのは十数年前。今、別の人がそれを引き継いでいるかどうかはわからない。

先日、落ち葉で列車が空回りして遅れた、という新聞記事を目にした。切り抜いているわけではないからうろ覚えだが、磐越東線も、西線もそんな事態に見舞われた。

いわき駅前の大通りは、両側にケヤキが列をなす。震災の影響で空っぽになったビルもある。空きビルと落ち葉という取り合わせは少し寒い。それを温かい情景に変えようと、間もなくケヤキにイルミネーションが飾られる。

2012年11月16日金曜日

災害情報と避難


「広報いわき」11月号が隣組を通じて各戸に配布された。震災時の情報入手などに関する市民アンケート結果が載っている。無作為抽出の市民を中心に1261人が回答した。あとで市のホームページに掲載された資料をダウンロードして読んでみた=写真

広報紙に載ったのは10項目余の質問からピックアップされた5項目。震災時に①どんな情報を必要としたか、なにからそれを入手したか②避難したか、いつ避難し、いつ戻ったか――簡単にいえば、「災害情報と避難」の2本立てだ。

必要とした情報を、災害発生から1週間、1週間~1カ月、1カ月~2カ月と、3段階に分けて尋ねた。「原発事故の状況・放射線量」がダントツに多い。しかも、時間がたつほど必要としている人が増えた。次に多かったのが「生活関連」、そして「ライフラインの復旧状況」で、こちらは時間がたつほど減っている。

なにから情報を入手したか――。「テレビ」がどの時点でも90%前後と圧倒的に多い。震災直後は「一般ラジオ」37%、「FMいわき」29%、「新聞」31%で、いわきも津波被害に遭ったとはいえ、多くの住民が住むマチ(内陸部)で電気が通じていたのが、こんな結果になったのだろう。沿岸部に絞った調査ならまた違う結果になったと思われる。

避難の有無では、「した」698人(55%)、「していない」553人(44%)、無回答10人(1%)=広報紙と人数が違っているが、「あとだし」の方が正しいと判断。避難した日は「3月15日」24%がピークで、「3月11日」9%は市内への避難が大半だった。津波被災者が避難したあと、一気に市外へと原発避難が行われた、と読める。

避難から戻った時期は「3月ごろ」50%、「4月ごろ」25%と大多数は2カ月以内に戻っている。

テレビとラジオから情報を入手し、原発建屋の爆発映像を目にして、いわき市民の緊張感、危機感は3月15日にピークに達した。マチに住む人間の一人として、おおよそアンケート通りの行動をとった。ハマ(沿岸部)・マチ(内陸部)・ヤマ(山間部)と分けられるいわき市の広域性を反映した結果だと、つくづく思う。

2012年11月15日木曜日

辛み大根の葉


津波被害に遭いながらも、避難先で家庭菜園を楽しんでいる知人から、9月前半、会津の辛み大根の種をいただいた。「よし!」となって草を刈り、クワを入れ、種の一部をまいたら芽が出て、やがて葉が展開した=写真

無量庵(夏井川渓谷)にちっぽけな家庭菜園がある。大震災に伴う原発事故が起きると、自家採種をしている三春ネギ以外は栽培する気がうせた。菜園の半分以上が草に覆われた。これではダメだ――と思っていたところへ辛み大根の種が届いた。

いわき市は「農作物見える化プロジェクト」を展開している。その発展形として「見える課」ができた。野菜などの放射性物質を検査し、結果を公開している。無量庵のある小川地区では、隣組の回覧を通じて地区内の出荷用・自家消費用の野菜の結果を周知している。放射性物質はほぼ「不検出」。そうした“状況証拠”も背中を押した。

後日、知人からはがきが届いた。小欄を読んでいるタイ在住の息子さん経由でこちらの情報をつかんでいる。「三春のネギのそばに辛味大根をまきましたか? 被災者の私でさえ百姓しているのにだめだっぺヨ 畑を荒らしては」

そう、そうなのだ。届いた種をしばらく見つめているうちに、辛い大根おろしを食べたくなった。種を通じて、ハッパをかけられたのだ。

プロであれアマであれ、種をまき、育て、収穫し、食べるというサイクルに変わりはない。しかも、それはこちらの都合ではなく、作物の都合に合わせないといけない。否応なく体を動かすようになる。

つまり、畑仕事はお年寄りが不活発になって「廃用症候群」に陥るのを防ぐという効果がある。大げさに言えば、家庭菜園は心身の健康維持、生きがい対策になるのだ。

2012年11月14日水曜日

店外ゴミ箱撤去


あるコンビニに車を止めたら、目の前のガラスに「お客様各位」と題して、こんな内容の紙が張ってあった。「家庭ゴミの持ち込みがあまりに多い為、店外ゴミ箱は撤去させて頂きました。皆様のご理解とご協力の程、……」=写真。「撤去」の字は赤色の痕跡をとどめているだけ。紙が張られてだいぶたつために、日に焼けて色が飛んだのだ。

自分でコンビニへ買い物に行く。車で出かけたときにカミサンの買い物を駐車場で待つ。外に設置されているゴミ箱を利用する人の姿が目に入る。車から持ち出したレジ袋を入れて店に入る人がほとんどだ。

コンビニで売っているカップヌードルにお湯を注いでもらい、駐車場にべたりと座りこんで食べている若者がいる。そういう若者流の食事のあとに空き容器を店外のゴミ箱へ、というのならわかる。あるいは、缶コーヒー・ジュースなどを買って飲んだあと、ゴミ箱へ――。そうではないからゴミ箱撤去となったのだろう。

区内会の役員になったことで“当事者意識”が生まれてきたからかもしれない。どこであれ、道路沿いの“景色”に目がいくようになった。カーブミラーが立っている。見通しが悪く、車の交差も難しい、ぶつかりそうになる――で、市に要望してカーブミラーが立った、と今はわかる。側溝のコンクリート蓋1枚が新しくなるのにも、それなりの経緯がある。

このところ週2回、家の前にあるゴミ集積所でカラスとたたかっている。いっときよりだいぶよくなったが、カラスが生ごみをつつく。ゴミネットをかぶせたり、“かかし”を立てたり……。そんなこともあって、コンビニ経営者の心情がよくわかる。

ゴミ集積所、あるいはゴミ箱を管理する人間がいる。回収する人間がいる。処理する人間がいる。ゴミを出す人には、出したら終わりではなく、その先までの想像力が要る。

2012年11月13日火曜日

ツキヨタケ群生


ツキヨタケは毒キノコだから、むろん食べない。が、成長したものはホットケーキより大きい。夏井川渓谷にそれが群生していた=写真

11月11日の日曜日、夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタが行われた。集散会場は週末だけの半住民である私のヤド(無量庵)の隣の錦展望台。「森の案内人」として初回からフェスタにかかわっていることを、きのう書いた。

去年、支流・中川渓谷沿いの“スーパー林道”を行って戻る「りんどうコース」(ウオーキング)が新設された。そちらでもよかったのだが、対岸の森を巡る、当初からの「あかやしおコース」(トレッキング)の案内人の一人になった。4班編成で、2班の参加者18人とともに森の中を巡った。

義父が建てた無量庵の管理人を買って出て、土日を過ごすようになってから十数年がたつ。来れば必ず対岸の森を巡った。900回は足を踏み入れただろう。現役を退いた今は、かえって週末が忙しくなった。大震災後は原発事故の影響と時間がないこともあって、“週末別居“も、森を巡ることも忘れてしまった。

トレッキングの案内人になった以上は、体が覚えている森のできごとを伝えたい。参加者に3・11で岩盤が崩落したこと、赤松が松くい虫にやられていっぱい立ち枯れていることなどを、“現物”を前に説明しながら歩いた。いや、“現物”を見るとよみがえる記憶を語って聞かせたくなるのだった。

ツキヨタケは、何年もチェックしている倒木に群生していたので、すぐわかった。ほかにも1カ所、ツキヨタケの群生している倒木があった。

出発前、同じ案内人を務めた地元・牛小川の知人たちとひさしぶりに言葉を交わした。キノコの話をしたが、表情がさえない。野生キノコは採取も、出荷も自粛を要請されている。マツタケも採っていないのだろう。毒であってもツキヨタケに出合えたことを喜びとするしかない。

2012年11月12日月曜日

夏井川渓谷紅葉フェスタ


きのう(11月11日)、夏井川渓谷で紅葉ウオーキングフェスタが行われた。わが週末の宿・無量庵の隣、「錦展望台」が集散会場だ=写真。主催は同フェスタ実行員会、事務局は小川町商工会。地元・牛小川の住人が「森の案内人」として加わっている。誘われて初回から案内人を務めている。

右岸に水力発電所のための導水路がある。その巡視路を行く「あかやしおコース」(トレッキング)と、左岸支流・中川沿いの“スーパー林道”こと広域基幹林道上高部線をたどる「りんどうコース」(ウオーキング)に分かれて実施した。参加者は合わせて160人ほどだったろうか。受付を始めて一週間ほどで定員に達したという。

案内人として割り振られたのはトレッキングコース。4班に分けて、それぞれに3人の案内人がつく。2班を受け持った。参加者のなかに知人が2人いた。平の経済人と今春、役所を定年で退職した後輩だ。ウオーキングコースにも知り合いが2人いた。

3・11以来、森を巡ることをちゅうちょしていた。放射線量はそう高くない。が、キノコにセシウムが濃縮される。採らずに見るだけ、撮るだけというのは苦痛だ。で、キノコを見ない=森に入らない状態が続いていた。森の案内人の誘いは、そのストレスを緩和するいい機会になった。

昨年は同級生との会津旅行と重なったため、案内人を断らざるをえなかった。対岸のトレッキングコースを奥まで行くのは2年ぶりだ。その様子はあした報告するとして、カエデをのぞく紅葉は今がピーク、いや遅いくらいだと思った。

カエデは赤く染まったもの、まだ青いものといろいろ。むしろ、ほかの木の紅葉が落ちたあとに赤々と燃えあがるカエデが人の心を引き付ける。地元の人間によれば、夏井川溪谷の紅葉はまだ10日は大丈夫ということだった。

2012年11月11日日曜日

いけすに群れるサケ


夏井川をサケが遡上している。散歩コースの途中に鮭増殖漁業組合のヤナ場がある。アユのヤナ場は流れを下ってきたアユを拾い集めるためにあるが、こちらはサケの遡上を遮り、岸辺のいけすに誘導するのが狙いのようだ。檻のような鉄製のいけすでサケたちが盛んに水しぶきを上げている=写真。中にひしめいているのがわかる。

ときどき組合の人たちが現れ、いけすから玉網(たも)でサケをすくいとっては軽トラに積んでいる。下流に孵化場がある。そこへ運ぶのだろう。別の日にはヤナに引っかかったごみをきれいに除去する。投網を打つこともある。が、今季は時間が合わないこともあってまだ見ていない。

秋が深まると、決まって「サケの一生」に思いをはせる。春に川へ放流された稚魚が4年ほど北洋で過ごしたあと、ふるさとの川へ帰ってくる。ヤナ場で行く手を遮られ、捕獲される。人工的に採卵・孵化された稚魚がまた川へ放流される。

本能とはいえ、ふるさとの川を忘れずに帰ってくるサケに、人はなにか心打たれるものがあるらしい。いや、サケの生と死の「物語」に魅せられるのだ、きっと。

とはいえ、3・11を境に人間の側の状況が変わった。2009年秋、こちら側の岸辺にテントが立ち、「サケ売ります メス1尾1500円」の紙が支柱に張られた。おととしもテントが立った。今年は「立入禁止」の紙をしばりつけたロープが張られている。理由はなんだろう。

2012年11月10日土曜日

サムスンでNHKを見る


ざっと2カ月前の話。ベトナム・ハロン湾クルーズのために、湾岸のホテルに泊まった。翌日は日曜日(9月16日)。ホテルの部屋のテレビでNHKの国際放送を見た=写真。「日曜討論」で、民主党代表選の候補者4人があれこれ話していた。テレビは韓国・サムスン製だった。

還暦を機に、高専の同級生による「海外修学旅行」が始まった。北欧に住む仲間の病気見舞いに行こう――。夏井川渓谷の無量庵で酒盛りをしているうちに、北欧の友へ電話をした。病気を知った。ならば、と酔った勢いで旅行を決めた。

最初は北欧、2年目は台湾。3年目の去年は東日本大震災だ、海外はやめて会津の東山温泉へ出かけた。4年目の今年は奥方を含む10人でベトナム・カンボジアへ行った。

成田からハノイのノイボイ空港へ着くと、そのまま東のハロン湾へ向けて専用車(マイクロバス)に乗り込んだ。延々と水田地帯が続く。単調な風景だ。

道沿いにサムスンの大工場、そしてそれよりは規模が小さいキヤノンの工場があった。ホテルのテレビも含めた表層的な印象にすぎないが、東南アジアにはもうかなり韓国の製品が浸透しているのではないか。

日本では、薄型テレビは日本のメーカーのものが多いはずだが、車も日本製が多いに決まっているが、ベトナム・カンボジアではどうも違うようだ。

われら一行の専用車はベトナムでも、カンボジアでもマイクロバスだった。バスにはやや斜めにかしいだ「H」のマークがついていた。韓国・ヒュンダイ製の車がとにかく目についた。日の出の勢いの国はどこかを教えられたような旅でもあった。

2012年11月9日金曜日

「いのちの危機と言葉の力」


日曜日(11月4日)にいわき市立草野心平記念文学館で第35回吉野せい賞表彰式が行われた。今年、記念講演をしたのはノンフィクション作家の柳田邦男さん=写真。「いのちの危機と言葉の力」と題して話した。

柳田さんは、災害・事故・公害・病気など、現代人が直面する命や心の危機について、半世紀にわたり取材・研究を続け、数多くのドキュメンタリー作品や評論を書き続けている、とチラシのプロフィールにあった。いのちの奥深いところから発せられる言葉に耳を傾けられる稀有なジャーナリストだ。

東日本大震災、原発事故、終末医療などを取り上げながら、「生きなおす力」のもとになるものを何点かあげた。「家族の愛」「専門家のサポート」「仕事に就く」「地域活動・社会活動をする」ほかに、「支える言葉との出会い」「表現する―書く・読む・描く・身体行動」「傾聴者に語る」ことも生きなおす力を生む。

日記がいい例だが、もやもやとした心に言葉を与えることで見えてくるものがある。柳田さんは書くことの過程を次のように説明する。心のカオス→表現する(脈絡をつける)→物語化への扉を開ける→自分を客観的に見る→納得感。たとえば、闘病記。闘病記は、死の受容への道筋としての自分史への旅、自分が生きたことの証の確認、だという。

なかでも「詩の達人は庶民の中にいる」「小さな言葉、小さな行為が人生の文脈のなかで大きな意味を持つことが少なくない」という言葉が印象的だった。地域の片隅で発せられるジイサン・バアサンの言葉に、それを実感するときがある。

2012年11月8日木曜日

震災支援


いわき市立美術館で始まった「生誕100年記念 ヴェナンツォ・クロチェッティ展」のトピックは二つ。東日本大震災で被災したいわき市への文化支援として開催されたこと、クロチェッティ財団からいわき市に作品が1点=写真=寄贈されたことだ。

大震災に伴う原発事故で福島県は風評被害に見舞われた。美術館にも影響が及んだ。海外から福島県内(日本そのものだったかもしれないが)への作品持ち込みにブレーキがかかった。が、クロチェッティの国・イタリアは違っていた。支援し、作品まで寄贈した。

恥ずかしながら、クロチェッティという彫刻家を今回初めて知った。「絵は印象派止まり、彫刻はロダン止まり」と揶揄されてもしかたないレベルだ。

今まで見たこともない大胆なポーズ(「岸辺で会釈する少女」)に目を奪われた。ねじれたような足の組み方(「ダンスを学ぶ女性―休息」)、そして圧倒的なリアリティーを持つ小品(「地震」)にも。

「地震」は、若い母親が両腕に幼子を抱え、なにか叫びながら走っている姿を表現している。右腕に抱えられた子は逆さま、左腕の子は肩にかつぎあげられている。その切迫感が東日本大震災に重なる。

「ダンスを学ぶ女性―休息」は女性がいすに座り、足を組んでいるポーズだ。ロダンの「考える人」を連想した。わが家に帰って彫刻の通りに足を組んでみた。できないわけではないが、かなりきつい。「考える人」も前にポーズをまねしてみたがきつかった。

さて、いわき市に寄贈されたのは――。バチカンにサンピエトロ大聖堂がある。クロチェッティが制作したのは、高さ7.4メートル、幅3.8メートルの門扉。その「ひな型」だった。市立美術館の宝がまた一つ増えた。

2012年11月7日水曜日

遺跡を守る人たち


「アンコール遺跡群は、組織的盗掘と国境を越えた密売ルートによって日常的に切り崩されている。カンボジアでは、クメール文化の切り売りは、いまや一つの『産業』となっているのだ!」。報道写真家三留理男さんの『悲しきアンコール・ワット』(集英社新書、2004年刊)を読んで暗澹たる思いになった・。

「東洋のモナリザ」と評される女神群の宝庫、バンテアイスレイを訪ねたときのことだ。ひととおり遺跡を見て外側を戻りかけると、刈った草を集めている女性がいた=写真

この欄で何度も書いていることだが、「自然を守れ」というとき、それは「自然に手を入れるな、さわるな」ということではない。自然を利用しながら、自然を守ってきた農村・山村のあり方が持続的社会のひな型なのだ、という思いがある。だから、遺跡もまた現状を保つためにはわれわれの暮らしと同じで、草刈りから始めなければならないのだ。

趣味としての農(家庭菜園)がそう、業としての農もそう。自然から収奪するだけなら、とっくに農山村は滅びている。そうではなくて、山里なら季節の実り(春の山菜、秋のキノコ・木の実)が循環するなかで暮らす、その最初の一歩が草刈りといってもいい。

いつものことながら、ただの観光旅行にすぎなかったのが、帰ってきて本を読んだり、考えたりしているうちに、見えてくるものが違ってくる。

あの文豪アンドレ・マルローも女神像をはがして国外へ持ち出そうとして逮捕された。それほど「東洋のモナリザ」には尽きせぬ魅力がある。現地でガイドから聞いたマルローの話は、しかし氷山の一角に過ぎなかった。

遺跡を守る人間がいる一方で、略奪する人間がいる。アンコールの遺跡群は「昔もいまも、昨日も今日も盗まれ続けている」。

2012年11月6日火曜日

再び、カラスめ!


カラス=写真=との“知恵比べ”が続いている。10月中旬以降、「燃やすごみ」の収集日(わが地区では月・木曜)に、わが家の前の集積所をカラスが狙うようになった。

燃やすごみは、いわき市指定の透明なごみ袋(市販品)に入れて出す。その中に交じる生ごみは、カラスの目に触れないように紙で覆ったり、レジ袋に入れたりする。わが集積所は、それでなんの問題もなかった。

が、生ごみがむきだしのごみ袋が出た。カラスが目ざとく舞い降り、ごみ袋をつついて生ごみを歩道に散らしはじめた。月・木、次の月と続いたので、10月25日(木)に惨状を伝える写真を添えた注意書きをボードに張って立てた。ごみ袋にネットもかぶせた。

張り紙を見て了解してくれたらしい。次の週の月曜日には、生ごみがむき出しのごみ袋はなくなった。

が、カラスは容赦しない。歩道に生ごみが散乱するような状態はおさまったものの、ごみ袋の隅をつついて中身をひっぱりだす。なんだ、こいつらは人のやることを見透かしているのか。腹を立てつつも、その利発さ、狡猾さには舌を巻くしかない。

きのう(11月5日)朝、どうも気になって時間ごとに様子をみた。7時、何ともない。ごみ袋も少ない。8時、あらかたごみ袋が出そろう。大丈夫だな――家に戻る。小一時間もするとカラスが盛んに鳴き交わしている。あわてて見に行ったら、つつかれてほんの少しごみが出ていた。

わが集積所から50メートルの範囲内には集積所が計5カ所ある。隣の集積所にカラスが20羽ほど群れていた。その仲間が、こちらの集積所にもやって来たのだ。

6時台は被害なし。7時台にすぐ、ちらかしたことはある。きのうは8時台後半。カラスどもはどうもマナーの緩んでいる集積所を“はしご”して回っているようだ。油断できない。

2012年11月5日月曜日

ハクチョウは海の方へ


10月10日にはいわき市小川町三島の夏井川にハクチョウ5羽が休息していた。その日が今シーズンの初飛来だったと思われる。主な越冬地は平中平窪(小川町の下流)の夏井川。同日、そこにもハクチョウが20~30羽いた。例年ならいわきへの飛来は10月下旬。随分早い飛来だということを書いてから、ほぼ1カ月がたつ。

わが散歩コースの先(上流)、平塩~中神谷の夏井川にも定着していい時期だが、日中は姿がない。朝、何度かハクチョウが舞い降りる、ということはあった。鳴きながら海の方へ神谷の上空を通過する=写真=のは、ほぼ毎日のこと。何羽かは夏井川河口右岸の方へ、何羽かは逆に左岸の方へ。夕方は逆に海の方から静かに帰ってくる。

ハクチョウは、中平窪から塩~中神谷へ分散するところまではまだいかないのだろうか。小川の三島も先日、そばの道路を通ったら姿はなかった。きのう(11月3日)夕方は、平窪の田んぼにいた。

塩~中神谷ではハクチョウが飛来すると、早朝、対岸・山崎のMさんが奥さんとともに軽トラでやって来て、えさのパンくずなどを与える。今シーズンはまだMさんに会っていない。

翼をけがして飛べなくなり、何年も塩~中神谷の夏井川に留まっていた「左助」が河口へ下り、姿を消してから3年余。もう死んだと思っていたのが、今年の夏、現れた。その「左助」が河口のどこかにいて、ハクチョウを呼び寄せているのか。

Mさんと、「左助」と、飛来したハクチョウたちとの“再会”を写真に撮りたい――だから落ち着いてくれよハクチョウ、とどまってくれよハクチョウ、となるのだが、塩~中神谷に定着するのはいつのことやら。

2012年11月4日日曜日

奇観「タ・プローム」


アンコール遺跡群の一つ、「タ・プローム」は超現実的な奇観で知られる=写真。ガジュマルの一種、スポアン(榕樹)の根が遺跡のあちこちに絡みついているのだ。その奇観ゆえに冒険映画のロケ地にもなった。

そうなったのにはわけがある。物の本によれば、9世紀から13世紀にかけてカンボジア王国の都(アンコール)には大小さまざまな神殿・僧院・王宮などが建てられた。たとえば、ワットは12世紀前半、タ・プロームは12世紀末~13世紀初頭。都はその後、シャム(タイ)のアユタヤ王朝の攻撃を受けて荒らされ、放棄される。

人の手で維持・管理がなされなければ、石造建築物といえども本来の自然(密林)に覆われる。19世紀、フランス人の博物学者によって密林に沈んだ遺跡群が発見されるまで、300~400年がたっていた。スポアンの種が遺跡に芽生え、根をのばし、壁面を締め殺しながら屹立するには十分すぎる時間だ。

つきっきりのガイド(カンボジア人)が日本語で説明してくれた。朴訥な青年で、やや発音が怪しい。大蛇のように根を張り巡らした木を「スポアン」といっているのだが、私には「スッポン」としか聞こえなかった。

くらいついたら離さないほど根が深い「スッポンの木」というのは冗談だが、この大樹を「ウドの大木」だとも言った。なぜ? 大きくなると幹が空洞になる、つまり有効利用ができない、ということなのだろう。

自然と人間の関係が壊れればどうなるか――。原発避難を強いられた町村では、家や田畑が放置されている。田畑は人の手が加わって初めて田畑の機能を維持し、美しい景観を保っている。それが荒れてさびしい自然に帰りつつある。タ・プロームの「奇観」を見ながら、そのことをどうしても考えてしまうのだった。

2012年11月3日土曜日

すぐそこの虹


11月に入ったとたんに、冬将軍の先兵がやってきた。きのう(2日)は朝から北風が吹き、夜に入ると一時、強まった。わが家の玄関の戸が一日中鳴っていた(古い家で、あちこちゆるんでいるのでそうなる)。

早朝はまだ風もなく、青空が広がるなか、大きな雲のかたまりが西の阿武隈の山の向こうから東の太平洋へと延びていた。いつものように海からのぼったばかりの朝日を背に夏井川の堤防を散歩していたら、対岸・山崎の專称寺の裏山から虹が立った。さらに進むと、虹の出どころが見えた=写真

虹が立つ前に、雲の下の山がかすんでいた。雪には早い、風花でもない、天気雨(時雨)か――そんなことを思いめぐらしながら歩いていたのだった。

虹はかなたに立つもの、そのかなたに思いをはせるもの。しかし同時に、虹をつかみたい、虹が発生しているところへたどり着きたい、という思いもずっと抱いていた。

その思いが今度満たされた。すぐそこから立ったのだ。といっても、写真を拡大し、グーグルを眺め、実際に車で堤防を走って、このへんだと推測したにすぎないのだが。

虹を見た場所は平中神谷、虹が立った場所はそこから1キロほど上流の平塩。屋敷林と屋敷林の間から虹が発生したのが、虹の手前(日陰)と奥(日なた)の色の違いでわかった。虹のそばをハクチョウが2羽飛んで行った。ハクチョウは朝晩、中神谷の上空を行き来するようになった。虹に突っ込んだら、一瞬、そこだけ色が散ったかもしれない。

11月1日にこたつを出した。年賀状も発売になった。いよいよ秋が深まってきた。今朝も風が強い。散歩は休み。

2012年11月2日金曜日

アプサラダンス


カンボジア旅行はアンコール遺跡群の観光が目的。想像以上の壮大美麗さに感動した。門前町・シェムリアップのレストランで夕食時に見た「アプサラダンス」(天女の舞)も印象深かった。遺跡のレリーフにも「天女の舞」があった=写真

と同時に、この遺跡群も自然と人間の関係を踏まえないと浅い理解で終わる、そんなことを思った。人間のいない自然の植生を想像すると、そこは熱帯林。熱帯林を切り開き、壮大な寺院がいくつも建立された――と、旅人にも容易に想像しうる。放置すれば熱帯林に戻るだけだ。

アンコールの遺跡がどう造られ、レリーフがどう彫られたか。先日、NHKEテレの「地球ドラマチック――奇跡の寺院 アンコールワット~クメール王国の栄光~」を見て、合点がいった。制作は韓国EBSだとか。

単純化していうと、石の寺院は中央(内部)から建造が始まり、外へ、外へと造営されていった。積み上げられた砂岩の壁面にはレリーフが施されるだけの厚みがあった。

レリーフが延々と続く回廊を見た限りでは、レリーフを施されたパーツ(一つひとつの砂岩)が精妙に壁面に組みたてられたのかと思ったが、組み立てられたあとにレリーフを施したことを知る。その方が合理的だし、レリーフのつながりに狂いがない。

生身の人間の「アプサラダンス」は、レリーフ以上の深みがあった。この踊りの特徴は手足の動きの優雅さ、しなやかさだろう。その象徴が反り返る指の動き、とみた。踊りを見ながら自分の手の指を反り返らせようとしたら痛いだけだった。小さいころから訓練しないと無理、ということだった。

この伝統芸能も、ポルポト政権時代には消滅の危機に瀕した。大虐殺からかろうじて生き残った踊りの教師が必死になって復活したのだと、なにかに書いてあった。福島に住むわれわれにとっては希望のダンスでもある。