2015年12月1日火曜日

渓谷は冬の装い

 夏井川渓谷の夏緑樹はあらかた葉を落とした。散り残っているのはカエデとクヌギ・ナラ類。カエデの紅葉はすっかり色あせた。クヌギ・ナラ類も葉が黄土色にくすんでいる。わが隠居の庭のカエデの大木は、葉がまだあおあおとしているのは日当たりがいいからか。
 渓谷でも代表的なビューポイントは「籠場の滝」。そばに随筆家大町桂月(1869~1925年)の歌碑がある。大正13(1924)年の初冬、この地を訪れた桂月が「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」と詠んだ。今はそのカエデもピークを過ぎて、燃え尽きる寸前だ。

 20代のころはなぜ散りはてても「もみぢ葉」が残っているのか、さっぱりわからなかった。夏緑樹は秋になると紅葉(黄葉)して散る――そんな一般論に支配されて、木も森も見ていなかった。渓谷の隠居へ通うようになって20年がたつ今は、樹種によって紅葉の時期が異なり、同じ樹種でも場所によって紅葉に遅速があることを知っている。木には個性がある。緑の民主主義だ。

「籠場の滝」の名も、今は「殿様の籠」ではなく「魚止めの滝の籠漁」からきていることを知っている。殿様が見事な景観に籠を止めた伝説は、「尾ひれ」が「お頭(かしら)」になったようなものだ。

 日曜日(11月27日)は晴れても雲の多い一日だった。隠居の対岸の林は赤松とモミの緑を残してほぼ木々が葉を落とした。そこへまだらに光が差しこんでいた=写真。燃え上がる赤の絢爛から焼け残った白骨の殺風景になると、決まって鮎川信夫の詩「落葉樹の思考」を思いだす。毎度の引用で恐縮だが……。

「春から夏にかけて/芽を出し、枝をひろげ/花を咲かせた樹木が/いま、別れを告げようとしている。/生命の奔流は丘をくだり/黄昏の寒い灰色の/死の季節がやってくるから/自分自身と世界とに別れを告げるときがきた、/生命の一循環を終えたのだから/生れかわるためには、死なねばならないと、/根が考え、幹が感じている。/そうして、秋風に身ぶるいして/落葉の雨を降らせている。」

 渓谷では落葉の雨の時期が終わり、灰色の冬の装いが整いつつある。きょうから師走。予定がほとんどなくて小春日のようだった11月後半が過ぎ、年末年始へと「小さな締め切り」が次々にやってくる。

寒さ対策も忘れてはいけない。きのう(11月30日)は今冬初めて、灯油を買いに行った。次に隠居へ行ったら、洗面所の栓を止め、台所の温水器は水抜きをして帰る。そうしないと水道管が凍結・破損して床が水びたしになりかねないからだ。何度も痛い目に遭っているのに、なかなか学習ができていない。<まだいいか>と思っているうちに、急に冷え込むときがある。手抜き大敵。(そうだ、タイヤもだ)

0 件のコメント: