2015年12月12日土曜日

病院からの眺め

 このところ週に一度は内郷の福島労災病院へ行く。義弟が入院して3カ月。南側から北側の病室に移ったので、西の湯ノ岳から水石山、二ツ箭山、東手前の石森山まで、阿武隈の山並みが140度ほどのパノラマとなって見える。いわき市の津波被災者が避難生活を送っている14階建ての雇用促進住宅の奥にそびえるのは、小川町の二ツ箭山だ=写真。
 内郷には労災病院のすぐ近くに、いわき市立総合磐城共立病院がある。詩人の草野心平が共立病院に入院中、8階からふるさとの山(二ッ箭山)をながめて詩を書いた。いわきの総合雑誌「6号線」第20号(1984年)に発表した「双(注・原作では旧漢字)眼鏡――ふるさとにて」で、東村山市の自宅から宅配便で双眼鏡を送ってもらった。

 共立病院の8階と労災病院の5階の違いはあるが、湯ノ岳~石森山のスカイラインは同じだろう。

「狙ひを決めた遥か北北東の二ツ箭山が。/二つに割れた大花崗岩(オホミカゲ)の山巓が。/白ちやけたザラザラの肌も見事に。/よく見える。」
「平窪の石森山から。/改めてオレは少年時代の山山を見る。/あれは猫鳴きかな。/二ツ箭から離れた左は。/水石山。/阿伽井嶽。/そして湯の嶽。/好間の菊茸山はどの邊かな。」

 病室(個室)のベランダから双眼鏡で故郷の山を眺めながら、自分の来し方を振り返り、恐竜がのし歩いていたいわきの太古を想像する。「奇妙なノスタルヂヤ」の時間を過ごしていくぶん疲れた心平はやがて個室に戻り、「黒い柔かいソーファのなかにしばらくぼんやり沈んでいた」というところで詩が終わる。

「猫鳴き」は猫鳴山、「阿伽井嶽」は閼伽井嶽、「湯の嶽」は湯ノ岳、「菊茸山」は菊竹山――。風景を描写した詩を実景に照らし合わせて分析する、なんてことはあまり意味がないが、どうも“ブン屋根性”が抜けきらない。山の名を固有名詞に置き換え、労災病院からの眺めを重ねて「双眼鏡」を読んだら、実景に忠実な詩であることがわかった。

 つい「裏取り」をしたくなったのは――「心平年譜」の影響が大きい。心平の人と作品に親しみ、調べ、引用するときに留意すべき点は、と研究者は言う。既存の年譜があまり信頼できないことだ。

 草野心平研究会編「草野心平研究」(1996年4月4日発行)に、「草野心平年譜(稿)」が載る。「年譜作成委員会」が編んだ。

 同委員会によると、『草野心平全集』『草野心平詩全景』などに使われている年譜は、「基本的には心平の自筆と口述に基づき、若干の関係資料に当って作成されたもの」で、「間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」。そのため、心平研究第一人者の深沢忠孝さんら同委員会が年譜の「定稿」づくりに乗り出した。
 
 詩は事実を描くのではない、真実をとらえるのだ、という点では、そのときの記憶や直感が優先されてもおかしくない。それはしかし、年譜まで裏付けなしで書いていいということではない。『全集』や「詩全景」の年譜を鵜呑みにはしてはいけない、というのが心平の人と作品に向き合うときの心得でもある。

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