きのう(12月3日)、新聞に折り込まれた「お悔み」情報を見て、ひとつ年上の友人に電話した。「午前10時半から(坊さんが来て)火葬(の枕経)をする」という。朝ご飯を食べるどころではない。すぐ小名浜南富岡へ車を飛ばした。
20歳前後の“東京遊学”中のころから、ときどき友人宅を訪ねては飲んで泊まった。いわきへ舞い戻り、新聞記者になってからも、友人が帰省するたびに飲んでは泊まり、酔いつぶれては泊まり、を繰り返した。
おまんまを食べさせてくれる「母上」の一人だった。享年95。大正9(1920)年生まれ。友人が帰省すると「扶養家族」が一人増える。友人が帰京しても夕方まで眠り続け、「母上」に声をかけられて初めて気がついた、というときもある。朝の4時かと思ったら、夕方の4時だった。後年、ときどきその話を「母上」がニコニコしながら披露して赤面したものだ。
仕事の延長でいわきの近代詩史を調べていたら、大正時代、牧師として磐城平に赴任した詩人山村暮鳥の理解者・協力者である八代義定(1889~1956年)に出会った。「母上」の父親だ。旧鹿島村長で考古・歴史研究家として知られた。昭和27(1952)年、第1回福島県文化功労賞を受賞している。
「暮鳥と義定」とくれば、今はすぐ「吉野義也(三野混沌)と若松せい(のちの混沌夫人)」となる。『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(菊地キヨ子・八代彰之編、2001年刊)=写真=には、せいが義定所蔵のクロポトキン『パンの略取』などを借りたい旨の手紙が収録されている。せいが義定の残丘舎(書斎は「静観室」)を訪ねるようになるのと前後して、「母上」が生まれた。
義定年譜の「大正9年」の項に書き込みがある。後年、一度だけ、「母上」から聞いてメモした。家の前山のヤマユリが満開だったので、父親が長女である「母上」に「百合子」という名前を付けた。「父親は『スズムシの鳴き声を聞こう』などと子供を引き連れて歩くような人」だった。
9人きょうだいだ。「母上」が亡くなった今は、85歳の彰之さん、75歳の紀男さんの叔父2人だけになった、と友人。彰之さんは「吉野せい賞」制定にかかわった。友人と飲むと、福祉の専門家の紀男さんの家にのして、そこで酔いつぶれて泊まってしまうこともあった。若いころ、飲んで語り合った人生の先輩のひとりだ。
今思えば「暮鳥ネットワーク」のなかでいろいろ教えられ、鍛えられ、それを「母上」があきれて笑ってみていた――そんな情景が思い浮かぶ。
0 件のコメント:
コメントを投稿