きのう(12月6日)は未明から夕方まで、雲のかたちがおもしろかったのでいろんな場所で写真を撮った。歩いているときは私が、車で移動中は助手席のカミサンがカメラを向けた。
わが家で、朝6時前――。新聞を取りに外へ出ると、暁闇(ぎょうあん)が黒(雲)と蒼(あお=空)とに分かれていた。黒のかたまりから肋骨状に筋がいっぱいのびていた。中天近くには、昇って少したった下弦の月。何日か後には朝日と同時に昇る新月に変わる。
平~小川の平地で、朝8時前――。水石山の近くに二段重ねの鏡もちのような白雲があった=写真。平窪を過ぎ、小川へ入ると、水平に何倍にものびていた。上空ではかなりの強風が吹いているらしい。
夏井川渓谷で、正午過ぎ――。晴れてはいるが、上空の白い雲はゆっくり下流の東南へ流れ、低空の灰色の雲は急ぎ足で西へ移動していた。対岸の森へ入るためにつり橋を渡ろうとしたら、「ドドド――」あのときの地響きと同じ音が後ろからやって来た。ドキッとして振り返るとヘリコプターだった。西から東へとV字谷を横切って行った。
平地の夏井川堤防で、午後3時半前――。義弟の入院している福島労災病院(内郷)へ行き、市立美術館で企画展を見たあと、いつもの魚屋さんへ向かった。夏井川の堤防に出ると、海に向かって視界が開ける。西空から放射状にのびてきた帯のような雲が、東空の一点に向かって収れんしていく。こういう自然現象から人間は遠近法を意識するようになったのだろうか。
魚屋の駐車場で、午後4時半前――。タコ3分の2、ヒラメ3分の1の分量でマイ皿に刺し身を盛りつけてもらう。店を出ると、西空に変な雲が浮かんでいた。一直線の雲の先に少し離れて雲のかたまりがある。まるで空の“ハエたたき”だ。
朝も昼も夕方も雲は定まることがなかった。「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか」(山村暮鳥)。そんな悠長な雲ではない。
「雲がゆく/おれもゆく/アジヤのうちにどこか/さびしくてにぎやかで/馬車も食堂も/景色もどろくさいが/ゆったりとしたところはないか/どっしりとした男が/五六人/おほきな手をひろげて/話をする/そんなところはないか/雲よ/むろんおれは貧乏だが/いゝじゃないか つれてゆけよ」(谷川雁)。そんなにしっかりした雲でもない。次の瞬間にはかたちが変わっている。
17歳のころ、かたちを定めず「存在を拒否する雲」から慎み深くあれ、と教えられたような気がする。以来、雲には引きつけられているが、朝から晩まで雲と向き合って過ごした日は珍しい。外を歩き回る日曜日だからこその、天からの贈り物だった。
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