2015年12月5日土曜日

90年前の「平町西洋料理業組合」

 東日本大震災から1年ほどたったころ、友人・知人の家の解体・ダンシャリに何度か立ち会った。あるとき、「いわきの大正ロマン・昭和モダン」を象徴する西洋料理店「乃木バー」の係累(孫)である草野弥生さんから連絡があった。
 3・11から1カ月後の巨大余震で実家(内郷)の庭に亀裂が走り、レンガ造りの蔵も縦にいっぱいひびが入った。母屋も蔵も解体することにした。いわき市暮らしの伝承郷の事業懇談会委員をしているカミサンが、伝承郷に収蔵できる民具があるかもしれないというので、都合3日通った。乃木バーの遺品が出てきた。

『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社、1996年刊)に、「カフェタヒラ」と「乃木バー」が載る。「カフェ」とか「バー」とか名乗っているが、実態は西洋料理店だ。「カフェタヒラ」では詩人の詩集出版記念会が開かれた。

「カフェタヒラ」はどこにあったのか。いわき市立草野心平記念文学館の学芸員からも「わかったら教えてほしい」といわれていたので、「乃木バー」と併せて所在地を探していた。

「乃木バー」は「平三町目1番地」にあった。草野さんの実家の蔵から「乃木バー」関連の遺品が出てきたのでわかった。「カフェタヒラ」もつい最近、大正12(1923)年11月13日付の「常磐毎日新聞」に載っていた広告でわかった。「平町紺屋町(住吉屋本店前)」、現「せきの平斎場」の西隣付近にあった。

 いわき総合図書館のホームページを開き、電子化された大正時代の常磐毎日新聞をチェックしている。大正12年からスタートし、14年3月にたどりついた時点で「平町西洋料理業組合」の設立広告に出合った=写真・上。「いろは順」(今なら「あいうえお順」だろう)に並んだ16店舗のなかに「カフエータイラ」と「乃木バー」があった。

 今まで「カフェタヒラ」と書いてきたが、広告には「カフエータイラ」とある。別の広告は「カフエー。タヒラ」。ほんとうは「カフェー・タヒラ」か。でも、『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』の写真に映る看板は「カフェタヒラ」と読める(結論保留)。

 私のなかでは、「乃木バー」も「カフェタヒラ」も「いわきの大正ロマン・昭和モダン」を彩るジグソーパズルのかけらのひとつにすぎなかったが、今は違う。つながってきた。組合員としての交流もあったのではないか。
 
 そんな折、スペインから帰国中の草野さんに会ったら、当時の写真や資料があるという。先日、おすまいのグラナダへ帰る前にと、内郷の自宅を訪ねた。平町西洋料理業組合の「組合費領収證」(何年の分かは不明)が残っていた=写真・左。ほかにも店の「女中」さん(ウエートレス)の写真などがあった。
 
 お互いに次の予定が迫っていたので、残りは今度また、草野さんがスペインから帰って来たときの楽しみにとっておくことにした。
 
 推理小説と違って、地域の片隅に埋もれている歴史の謎解きは遅々として進まない。代が替わるごとにダンシャリをされて消えていくものがあるからだ。「乃木バー」関係の物件はかろうじて蔵に眠っていた。大地震・解体があって約90年ぶりに日の目を見た。
 
 さびたフォークやナイフ、ナイフを包んだままのナプキン、大正10(1921)年6月、11年11月の通い帳、12年9月の買い物帳のほか、封書・はがきなど数点が私の手元にある。

 ナプキンのロゴマークはナイフとフォークを丸くかたどったものだ。円のなかに、右から左へ4行、「西洋御料理/乃木バー/電話三六九番/平郡役所通り」とある。通い帳には食パン・クリームパン・バターパン、清酒などの品が、買い物帳には焼き豆腐・豆腐・生揚げ・長ナス・椎茸などの食材ほかが書き込まれている。
 
 90年前のいわき人はどんな西洋料理を食べていたのか(「カフェタヒラ」では、冬はカキフライを売り物にしていた)。通い帳からはどんな料理が類推できるのか。「いわきの大正ロマン・昭和モダン」に連なる謎解きは尽きない。

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