2015年12月10日木曜日

JICA研修

 JICA(ジャイカ=国際協力機構)の視察研修がきのう(12月9日)、いわき市で行われた。午後3時から5時半まで、市文化センター会議室で被災者の話を聞く時間が設けられた。
 いわき市平豊間の津波被災者と双葉郡大熊、富岡両町の原発避難者の計3人が話した。私も広域都市・いわきでの地震と津波、地域社会と原発避難者の関係などについて話した。むろん、通訳を介してだ。

 研修に参加したのはフィリピン、スリランカ、アフガニスタン、スーダン、コソボ、東ティモール、ブルンジ、ルワンダ、南スーダン、ミャンマー、ザンビアの11カ国16人で、視察目的は「参加型のコミュニティづくりに携わる者として必要な姿勢・考え方・スキルを身につけること」だという。

 紛争・災害後の復興期にある国・地域でコミュニティ開発プロジェクトの計画立案に当たっているNGOや行政機関の職員だ。10月26日から12月19日までの日程で、主に関西で研修を受けてきた。

 事業を受託したのは関西NGO協議会で、シャプラニール=市民による海外協力の会の前代表理事中田豊一さんが研修コースリーダーを務めている。中田さんとは東日本大震災の直後、シャプラの縁でいわきで会い、さらにシャプラの総会時に東京で再会している。神戸で阪神・淡路大震災に遭遇した。

 シャプラはいわきで交流スペース「ぶらっと」を運営し、主に商店を対象とした市民交流スペース「まざり~な」を市内各地に増やした。いずれも借り上げ住宅(戸建て・アパート)に入居している被災者・避難者の“孤立”を防ぐのが目的だ。話をした3人は「ぶらっと」利用者、わが家(米屋)はカミサンが「まざり~な」を引き受けている。

 ずぶぬれになって、あおざめて高台のゴルフ場に避難してきた人たち(豊間)。1Fのタービン建屋地下2階で激しい揺れに遭遇した東電の関連会社員(大熊町)。震災の翌朝、着の身着のままバスに乗り、隣村の川内村へ避難したものの、1号機建屋の水素爆発の報が入ってさらに西へ(富岡町=川内村自体が2011年3月16日、全村避難を始める。1年後には村長が帰村宣言)。
 
「ぶらっと」で顔を合わせたり、クリスマスパーティーを一緒に盛り上げたりする間柄でも、各地を転々としてきた経緯を聞くのははばかられる。本人もいちいち口にはしない。「県の復興公営住宅に入れるのは1年後」「仮設住宅入居者と借り上げ住宅入居者の間に分断が起きている」……。3人の被災・避難体験と複雑な胸の内を聞くのは私も初めてだった。

 4人が話し終わったあと、質疑応答に入った。ある国の人は「紛争国(地域)からの避難民は、紛争が長引けばずっとそこにとどまることになる。その土地に溶け込んでもらうように努めている」と話した。行政区の責任者として、同じ地域に住んでいる原発避難者(とりわけ隣組に未加入の人)に対して、私が日ごろ思っていることでもある。

 ごみ集積所に写真・注意書きを張った看板を出したら、違反ごみが減った――ごみ出しトラブルを例に、最後は「日本のことわざに『郷に入っては郷に従え』がある。それが大事では」と応じた。「郷に入っては郷に従え」とは言うまいと思っていたのだが、原発避難者が「いわきの人間になるつもりで暮らしている」と言ってくれたので、意を強くしたのだった。

 紛争避難も原発避難もふるさとを追われて異郷に暮らす、という点では同じだ。国と言葉は違っても、避難者のために奮闘している人たちがいる。最後は「記念写真を」となり=写真、なんだか“仲間”と一緒にいるような感覚になった。

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