2016年9月8日木曜日

屋根に猫のオブジェ

 きょう(9月8日)も三春の話を――。きのう紹介した雑貨屋「in-kyo(インキョ)」の2軒隣の花屋さんは猫が大好きらしい。屋根に白猫のオブジェが置いてある=写真。母猫に子猫が2匹。1匹は少し離れている。こいつは好奇心が強くて、あれこれ周りを“観察”してしまうので遅れるのだろう――なんて「物語」を勝手につくってしまう。
 それから3日ばかり、三春の猫オブジェをぼんやり思い浮かべていたところに、長田弘の『ねこに未来はない』(晶文社、1971年刊)が目に入った。わが家のことだが、震災後のダンシャリが続く。カミサンが自分のテリトリーで資料の整理をしているうちに出てきたそうだ。「捨てようと思ったけど、あなたの本だから(捨てるのをやめた)」。当たり前だ。

 著者は去年(2015年)5月、75歳で亡くなった。福島市に生まれ、子どものときに一時、田村郡三春町で過ごした。阿武隈の山と川、光と風、人といきものを知っていた詩人――そう勝手に想像している。三春と同じ田村郡常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育ったための「我“田”引水」(なんでもかんでも田村郡、田村市にいいように解釈すること)かもしれないが。

 長田さんの第一詩集『われら新鮮な旅人』(思潮社、1965年刊)は、10代後半の少年には衝撃だった。以来、彼の本はだいたい目を通してきた。職を得た年に発行された散文『ねこに未来はない』も、もちろん。猫好き、というわけではない。ただ1匹の猫の思い出として買ってみたのだった。

 小学2年生になったばかりのとき、町が大火事になった。家が焼け落ちた。飼い猫の「ミケ」も焼け死んだ、と思った。ところが、かろうじて焼け残った親類宅に仮泊して1週間目、ミケが現れた。猫好きではない少年も感動して抱きしめた。

『ねこに未来はない』の冒頭にこうある。「ぼくは最初、ねこが好きじゃありませんでした。(中略)そのぼくが、どういう星のめぐりあわせか、たいへんねこ好きのひとと結婚しなければならないはめになってしまったのです。なんという不運でしょう!」

 それから、いや綾小路きみまろ流にいえば「あれから○十年」、猫に関しては息子たちも孫たちもカミサンの陣営に入ってしまった。(そういえば、いわき市立美術館で9月17日から「猫まみれ展」が開かれる。猫の絵のほかに、猫に関することばたちは?紹介されないだろうな)

 猫のオブジェ、『ねこに未来はない』、詩人の子ども時代……三春。茶わんの底のような小さな町には歴史が凝縮している。ゆるやかな小丘が続く郊外には有名な滝桜がある。

 樹は――。「最初に日光を集めることを覚えた。/次に雨を集めることも覚えた。/それから風に聴くことを学んだ。/夜は北斗七星に方角を学び、/闇のなかを走る小動物たちの/微かな足音に耳をすました。/そして年月の数え方を学んだ。/ずっと遠くを見ることを学んだ。」

 <樹の伝記>の作品のなかで、詩人は生長する樹木の“人生”を描いた。読者は自分の人生を重ね合わせながら、この詩句を読むことだろう。詩のエキスのいくらかは三春で培われたものにちがいない。これも我“田”引水だが。

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