2017年2月13日月曜日

戦国大名岩城氏と忍者

 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」が始まってすぐ、密書を託された山伏が殺される。山伏は戦国大名の情報収集・伝達役の一人だ。去年(2016年)の「真田丸」には同類の忍びの者・佐助がいた。こちらはしかし、情報収集役というよりは黒装束の忍術使いに近い役柄だった。
 時代とともに変わる「メディア」を調べている。それで、戦国時代の大河ドラマが始まると、脚本家、あるいは演出家が大名の情報戦略、「メディアとしての人間」(山伏など)をどう描いているのか、興味を持ってウオッチする。
 
 いわき市立草野心平記念文学館で3月26日まで、冬の企画展「忍たま乱太郎ミュージアム」が開かれている。その一環としてきのう(2月12日)、「戦国時代のいわきにも忍者がいた!?――戦国大名岩城氏と忍者」と題する講演会が開かれた。いわき市教育文化事業団の統括研究員中山雅弘さんが文献をもとに話した=写真。
 
 室町幕府が終わりを迎えるころ、浜通りでは南の岩城氏と北の相馬氏が領土の分捕り合戦を繰り広げていた。相馬氏が優勢だったころの元亀元(1570)年、岩城氏が富岡城と楢葉の木戸城を取り返す。
 
 相馬の富岡城代は酒宴遊興を好み、岩城領から盲人を呼んで日夜遊んでいた。それを聞いた岩城氏が「盲人ヲ近ヅケ、ナホ富岡ニ遣ハシ、城中ノ様子人数ノ小勢ヲ能ク聴キテ」夜襲をかけたのだった(『相馬市史』第5巻)。盲人は琵琶を弾き、歌がうまく、踊りを披露する随伴者もいた。一行に城中の様子を探らせたのだろう――と中山さん。
 
 岩城氏の文書(もんじょ)には、木戸城がある楢葉の「上山田へ『草(くさ)』を入れ」といった記述がある。「木戸城モ落城」したのはそのため。
 
 戦国大名が生き残るためにやったのは合従連衡、あるいは政略結婚、そして情報戦。「草」は山伏や僧侶として諸国を自由に動き回り、百姓として土着し、情報を探った。
 
 連歌師も、裏では情報戦の一翼を担った。綿抜豊明『戦国武将と連歌師――乱世のインテリジェンス』(平凡社新書)に詳しい。宣伝文だけでもその実態がわかる。連歌師は「諸国を廻り、武将間のメッセンジャーやネゴシエイターをつとめ、困窮する公家のサイドビジネスの口利きをするなど、『裏稼業』を通じ、戦国の世に欠かせない存在となっていった」。岩城氏に仕えた猪苗代兼載とその子孫も例外ではなかった。

 中山さんは伊賀・甲賀の忍者の歴史にも触れながら、「松尾芭蕉隠密説」を一蹴できなくなった、といった。私も連歌師の裏稼業を知ってからは、同じ思いでいる。

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