2017年8月3日木曜日

ロシア極東の旅から1年

 1年前のきょう(8月3日)は、ロシア極東サハリン(樺太)の州都ユジノサハリンスク(旧豊原市)のホテルで朝を迎えた。サハリンには3泊し、シベリア大陸に移動後は軍港都市・ウラジオストクに2泊して、平七夕まつりさなかの7日夜、いわきへ戻った。同級生4人による“修学旅行”だった。
 今年(2017年)7月、別の同級生が千島列島最北端・シュムシュ(占守)島に慰霊の旅をした。先日、電話がかかってきて知った。

 ポツダム宣言受諾後の昭和20(1945)年8月18日未明、占守島とは指呼の間のカムチャツカ半島からソ連軍が侵攻して来た。日本軍が応戦し、ソ連軍に多大な損害を与えたが、やがて停戦した。同級生の父親は戦車兵として戦い、生還した。

 シュムシュ島の戦いに材を取った浅田次郎さんの小説『終わらざる夏 上・下』(集英社)を図書館から借りて読んだ。北海道新聞編集委員相原秀起さんの探訪記『ロシア極東秘境を歩く 北千島・サハリン・オホーツク』(北海道大学出版会、2016年11月刊)も借りて、一気に読んだ。
 
 浅田さんの文章は短い。リズムがある。そのうえ、人物の内面の描写が深いので、感情移入がしやすい。最近は、文章がだらけてるなと思ったら、浅田作品を読んでねじを巻く。今度も背筋がピンとなった。
 
 相原さんも新聞記者らしい平易な文章で、シュムシュ島と西隣のパラムシル(幌筵)島の北千島、特派員として駐在したことのあるサハリン、さらにはシベリア大陸の町オホーツクについて書いている。
 
 1年前、サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)で北緯50度の「国境標石」を見た=写真。相原さんの本によると、日露戦争のあと、明治36(1906)年から翌年にかけて、北緯50度の線上に国境標石(大標石4基、中間標石17基)と標木10本が設置された。相原さんはその大標石の行方を追った。
 
 われわれが目にしたのは4基ある大標石の一つ、1号標石で、東海岸の鳴海に設置されていた。南面(日本領)に上から「大日本帝国」の文字と菊の紋章、「境界」の文字が彫られていた。北面(ロシア領)はよく見ていなかったので記憶にないが、相原本によればロシアの国章「双頭の鷲」が彫られていた。内陸の2号標石は、保管していたサハリン住民によって根室市に寄贈されたという。
 
 ほかに、相原本で印象に残ったことが二つある。シュムシュ島には灯台職員4人のほかに人間は住んでいない。8月の島は花畑だった。ハマナス・ヒオウギアヤメ・チシマリンドウ・ヤナギラン・アマニュウ・クルマユリ・イソツツジ・ブルーベリー・ミヤマハンノキ・ハイマツ……。サハリンで見た草原の花々が重なった。
 
 もう一つ、1952年11月4日に発生したカムチャツカ地震では、シュムシュ島の西隣・パラムシル島を大津波が襲い、島の人口の半分に当たる2000~2500人の住民が亡くなったという。マグニチュードは9.0。6年前の東北地方太平洋沖地震と同規模だ。花と大津波と戦争と――北の島々への思いがまたふくらんだ。

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