きょう(8月8日)は未明2時前、雨音で目が覚めた。昼寝ができなかった日は、夜の9時を過ぎるとまぶたが重くなる。夕べがそうだった。早々と床に就いた。台風5号が日本海に向かっている(午前3時現在)が、暴風雨の範囲が広い。最終日の平七夕まつりと、いわきおどりはどうなるのだろう。
目が覚めたついでに、平七夕まつりの歴史をおさらいした。先日紹介したいわき民報の平成7(1995)年連載企画「しんかわ流域誌」に、平七夕まつりの起源にまつわる話が載る(同年8月31日付)。日本医師学會会員、いわき地域学會会員だった松村亨さん(元松村病院長)がペンを執った。要旨を次に掲げる。
①大正15(1926)年の初め、平に磐城共済病院が開院した。2代目院長として東北大講師難波睦氏が赴任する。氏は昭和6年、院長を辞し、自宅に難波医院を開業した②毎年七夕になると、自宅前に仙台生まれの初子夫人が金紙や銀紙、多種類の紙材を用いて、折り紙・人形・造花などを飾り付け、評判になった③氏の家の玄関は毎晩見物人が群れをなし、「七夕ってこうやるのか」と町中に広がり、商工会の会員を鼓舞するところとなった。のちに平の七夕行事を盛大にした、導火線となったといってよい――。
大正時代、仙台の七夕まつりは「風前の灯」だった。そうした状況下で、仙台に本店のある七十七銀行が大正8(1919)年、平支店を開業する。
小宅さんが注目したのは、昭和2年の仙台の七夕復活劇だ。翌3年、仙台商工会議所などが七夕飾りつけコンクールを実施する。その流れを受けて、同5(1930)年、七十七銀行平支店が店頭に七夕の飾り付けを実施する(翌年、難波医院自宅前の仙台風の七夕飾りが評判になる)。
これに合わせて地元の動きが活発になった。昭和7(1932)年・平三町目の商店有志が中心となって七夕飾りを実施。同9年・本町通り舗装により盆行事の「松焚き」が中止になる。同10年・平商店街全体で七夕まつりを実施。同11年・平商工会、平町などがまつりを支援――となって、「松焚き」に代わる集客イベント「七夕まつり」ができあがった。
――アジア・太平洋戦争と戦後すぐの10年間は、平七夕まつりは開かれていない。その裏付けに、きょう目が覚めてから1時間ほど、市立図書館のホームページを開き、「郷土資料のページ」で当時の新聞をあさった。
昭和13(1938)年7月19日付の常磐毎日新聞1面に「総力戦の槍玉に/七夕祭を中止/酷暑下に苦戦を重ねる/出征兵士に申訳なしと/昨夜商工会の協議」=写真上、同23年8月10日付いわき民報1面に「あす幕ひらく/華麗な星まつり/本社提唱で十年ぶりで復活/夫々(それぞれ)趣向を凝らす各商店街」=写真下=の記事があった。当時は、月遅れではなく旧暦で実施していた。
これらの“事実”を勘案すると、平七夕まつりが始まったのは八十数年前、開催回数は今年でおよそ七十数回ということになる。
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