2017年8月30日水曜日

十字架は「光の鳥」(上)

 その建物はフランク・ロイド・ライトの弟子が設計した、という情報に接したのはつい最近。教会兼幼稚園だった。今は個人宅になっている。
 いわき市平字六軒門の元・聖ミカエル幼稚園。およそ40年前、子どもが通ったところだ。運営母体は日本聖公会。礼拝堂を園舎に利用していた。

 小規模園なので、保護者が送迎した。朝は出勤時間に合わせて近所の子も乗せて送り届ける。帰りは近所の子の母親が迎えに行ってくれた。土曜日は休み。代わりに、日曜礼拝があった。朝、子どもを送り届ける。その足で近所に住む画家松田松雄宅に寄り、NHK教育テレビ(現Eテレ)の日曜美術館を見る。終わるころ迎えに行く。松田の子も同じ幼稚園に通っていた。

 園舎(教会)は住宅地の奥にあった。車では入れない。表の通りで車を止め、「さあ、行ってこい」と送り出す。園舎に入るのは運動会のときくらいだった。園庭をはさんで西から北へと、L字型に平屋の建物があった。「洋」なのに「和」のにおいがする――その程度の印象しかなかった。

 日本聖公会といえば、大正時代、磐城平で牧師として布教活動をした土田八九十(はくじゅう=詩人山村暮鳥)がいる。山村暮鳥については少し知っているが、土田八九十についてはほとんど知らない。その流れをくむ教会兼幼稚園だ。

 昭和54(1979)年に創刊された平聖ミカエル会衆の機関紙「ミカエルの園」に、簡単な沿革が記されている。それによると、常磐線開通後、水戸からキリスト教の伝道が行われ、明治36(1903)年に平に講義所が開設された。その後、湯本に礼拝堂兼幼稚園が建てられる。
 
 平の施設は「聖オーガスチン教会」「平聖ミカエル海岸教会」などと名を変えた。戦後の昭和24(1949)年、小名浜での伝道が開始されると、小名浜の教会(聖テモテ)に加わることになり、平の敷地が売却された。やがて、「平にも教会を」という声が強まり、同36(1961)年、現在地に礼拝堂兼幼稚園の建物がつくられた。
 
 この建物を設計したのがライトの弟子ということになる。「ライトの弟子」を手がかりに検索してたどりついたのは(確定ではない)、アントニン・レーモンドという建築家だった。奥さんのノエミも十字架その他、建物内外の装飾・デザインに協力している。
 
 レーモンドは「帝国ホテル」の設計のために師匠のライトと共に来日し、独立後も太平洋戦争期をのぞいて日本で仕事をした。各地に優れた作品を残している。多くの教会も設計した。
 
 カミサンが撮った平聖ミカエル会衆の外観写真を見て、初めて十字架が斬新なデザインだったことを知る=写真。教会関係者によると、鳥をイメージしたものだろう、という。それがヒントになった。
 
 この10日余り、レーモンド夫妻関係の本をパラパラやりながら“確信”したことがある。十字架は「光の鳥」。そんな斬新なデザインができるのはレーモンドの奥さんのノエミしかいない。ゆえに、建物の設計はアントニン、ということになる。物証はない。十字架はノエミ作――という“確信”については、あした。

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