日曜日と重なったためか、きのう(8月6日)が初日の平七夕まつりは、昼前からメーンの本町通りが見物客でごった返していた。
東西に延びる本町通りは、三町目で南北に延びる銀座通り(北側)・平和通り(南側)と交差する。歩行者天国になった東のはずれから三町目まで、人波にもまれながらブラブラしたあと、若い知人がやっている氷水を食べようと、平和通りに曲がりかけたら――。
双葉町からいわき市に避難しているOさんとばったり顔を合わせた。Oさんは「いわき・まごころ双葉会」の事務局長をしている。今年(2017年)も仲間と平和通りに笹飾りを立てたのだ=写真。
関係するNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が震災後、いわきに交流スペース「ぶらっと」を開設した。そこでスタッフからOさんを紹介された。
シャプラは5年間、いわきを拠点に被災者の緊急支援、生活支援、自立支援を続けた。その記録を2016年9月、『いわき、1846日――海外協力NGOによる東日本大震災支援活動報告』にまとめた。
冊子は、①私たちは何に取り組んだのか②いわきで暮らす人々からの発信③いわきで学んだこと、そして未来へ向けて――の三つのパートに分かれる。編集委員の一人として、②の発信者12人のうち半分、Oさんら6人にインタビューをした。それ以来、1年4か月ぶりの再会だ。
双葉郡からの避難者が、「ぶらっと」を介して平七夕まつりに参加したのは2012年。以来、Oさんら「いわき・まごころ双葉会」は、津波被害に遭ったいわき・薄磯地区住民と交流を重ね、協働して笹飾りを平七夕まつりに出している。
Oさんが3基の笹飾りについて説明してくれた。それぞれのシンボル(薄磯・灯台、双葉・だるま、海水浴場)に復興の願いが込められた。シャプラの冊子のなかでOさんは言っている。「いつまでも避難者ではいられない。『避難者の会から脱皮して、居住地の一員として溶け込まなければ』」。その実践の一例が七夕まつりへの参加だった。
平和通りに入ると、急に人の流れが途切れ、場末のような感覚に襲われる。まごころ双葉会の参加は、地元にとっても大歓迎ということだった。Oさんは氷水を販売する若い知人とも顔見知りだった。
氷水は、肝心の氷が手に入るまで「もうちょっとかかる」という。仕方がない、近所の食堂に入って腹ごしらえをした。店の中の客は常連らしいお年寄り3人。ちびりちびりやりながら、NHKののど自慢を見ていた。なにかそこだけ街の喧騒とは離れた“日常”が息づいている。しかも、昭和っぽい造り。不思議な空間に迷い込んだような感じがした。
ところで、平七夕まつりの起源だが――。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報に「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」とある。仙台に本店のある七十七銀行平支店が開設された大正8(1919)年を、平七夕まつりの起源とする“誤読”がいつの間にか定着した。いつかは修正されなければならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿