もう1カ月近く前のことだ。7月10日は「ウルトラマンの日」だとかで、この日、中国の会社がウルトラマンのアニメを制作すると発表した。すると、ウルトラマンの生みの親・円谷プロが抗議の声明を出した。いつもの著作権侵害か、と最初は思ったが……。
「特撮の神様」円谷英二の孫、円谷英明さんの『ウルトラマンが泣いている――円谷プロの失敗』(講談社現代新書)を読んだ。図書館の内容紹介文を借用すると、創業者一族の感情的な対立、経営の錯誤、一族から会社が他人の手に渡ったいきさつなどがつづられている。海外での商品化権などが、円谷プロで技術を学んだタイ人にあるらしいことも知った。
中国での発表と円谷プロの反応を機に、久しぶりにウルトラマンの世界をさまよった。7月13日、BS朝日で夜、ドキュメンタリー番組「“特撮の神様”円谷英二――ウルトラマン誕生の舞台裏」が放送された。その延長で『ウルトラマンが泣いている』を図書館から借りて読んだ。
そして、これは極私的な記憶――。「帰ってきたウルトラマン」が放送された昭和46(1971)年春、新聞記者になった。平の旧城跡にあるアパートに住んだ。大家さんの孫(当時5歳くらいの女の子)が庭で、「帰ってきたぞ 帰ってきたぞ ウルトラマン」と、よく歌っていた。日曜日の夕方、その女の子と平駅(現いわき駅)の跨線橋(平安橋)まで、電車を見によく散歩に出かけた。
あとで何人かと諮って同人誌を出した。「わがウルトラマン」と題する詩もどきを書いた=写真。女の子との“日曜散歩”がベースになっている。
ウルトラマンが好きな女の子は成人して結婚した。一度、お母さんと一緒にわが家を訪ねてきたことがある。「お兄ちゃん」のことをちゃんと覚えていた。そうだった、「わがウルトラマン」とはこの女の子のことだったのだ。今はどうしているだろう。ウルトラマンのように泣いているか、笑っているか。
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